「大変お世話になりました」

 日本は深々と頭を下げた。

「おう」

 頬を掻いたプロイセンが清爽を含んだ顔で満足そうに頷いた。
 日本はそれを不思議な面持ちで眺める。そのような表情を向けられるほど、誇るような師弟関係ではなかった。子どもの癇癪のような理不尽な怒りを向け、あんな行為を強要した男を弟子などと感じているはずがないと思っていたというのに。プロイセンは弟子の門出を祝うような顔で日本を真摯に見ていた。

「あの…」

 謝らなければならないと思った。謝意を示さないほうがよっぽど惨めだ。深く息を吐いた日本が謝罪を口にするより先に、プロイセンが喉を震わせた。

「知ってるか」
「え…
「王政から共和政に移行したばかりの古代ローマは、ギリシャに三人の使節を派遣したらしい」
「はあ…」
「紀元前五世紀…半ばの頃だ」

 話が見えず、戸惑いながらも相槌を打つ。

「国制や習俗、法の調査をおこなったと伝わっている」
「…………」
「新興国ローマが先進国ギリシャに、だ。その成果をもとに後のローマ法の基礎となる彼の十二表法が策定されたともいう」

 日本は息を殺して師の言葉に耳を傾けた。

「ギリシャからローマへ、文明の継承がなされたんだ」

 プロイセンの稀有な双眸が真っ直ぐに日本を見つめた。

「そしてやがて、世界の主役はギリシャからローマへ替わり、彼の偉大なローマ帝国へと繋がる」
「っ…

 日本は弾かれたようにプロイセンを見た。彼は笑って続ける。

「っていうのは伝承で、事実かどうかは今となっては知り得ないけどよ。そんな大昔のこと」

 瞬きするのも忘れて、呆然とプロイセンを見つめる。

「そう、わからねぇくらい大昔のことなんだよ。そんなことがあったのは」

 ドクリ、ドクリ、と胸を打つ鼓動が高鳴っていく。

「お前は今、俺たちの政治形態や経済、貿易、工業、治安、金融や法律……もっとあらゆるものを見聞し学びに来ていたわけだが」

 プロイセンが出立の準備をしている日本人たちを見やる。

「俺様は今、歴史的瞬間に立ち会っていると思っていいのか」
「……

 日本の強い熱情を含んだ真摯な眼差しを見て、プロイセンは満足そうに笑った。常ならくるくると無邪気に変わる彼の表情が今はやけに静かだ。それが慈顔にも見えるのは、気のせいなのだろうか。

「まだ惨めだと思うか」

 静かに紡がれた言葉にハッとする。

「俺様には偉業を成し遂げようとしているふうにしか見えなかったんだけどな」

 揶揄っぽい表情で軽く言って、プロイセンは背を向けた。「じゃあな」と一言だけ残して去っていこうとする背を慌てて引き留める。

Lehrer師匠

 ぴたり、と足を止めたプロイセンは一拍置いて振り返った。ケセセセ、と独特な笑い声を高らかにあげて言う。

「初めてそう呼んだじゃねぇか。あれだけ呼べって言ったのに、一度も口にしなかったくせによ」
「それは……」

 確かに師ではあったが、そんなふうに呼べるほど近い存在ではなかった。それに、欧米諸国に対する反発心が大き過ぎた。
 ただ今は、師と呼んでみたいと心から思った。口を衝いて出た呼びかけだ。これは紛れもない本心なのだろう。

「…あの」
「あ
「なぜ、そのようなことを言ってくださるのですか」

 心を軽くするような言葉を。
 鋭い瞳をぱちりと瞬きしたプロイセンが少し思案してから答えた。

「等価交換…とまではいかねぇかもしんねーけど、お前にはいいもん貰ったからな」
「え

 プロイセンがその掌を自分の胸もとに置いた。その仕草の意味も、言葉が示すものも思い至らなくて怪訝に首を傾げる。そんな日本の姿に微苦笑して、プロイセンが踵を返そうとするのを慌てて制した。

「あの… このご恩に報いるにはどうしたらよいのでしょう」

 等価交換などと言っていたが、何かを渡した覚えはないし、日本にはプロイセンにあげられるものなどありはしない。そればかりか、理不尽な怒りを浴びせ、望まない行為を強いた不届き者だというのに。

「別に恩なんか売った覚えはねーけど…納得しなさそうだな」
「ええ」

 プロイセンは呆れたように息を吐き、「そうだな…」と続けた。

「じゃあ、あれだ」
「なんですか
「お前のその手の中にある文明を開化させろ。世界中に届くくらいでっかく」
「えっ
「せっかく俺様の偉大な文明を学ばせてやったんだから、それくらいのことはしてみせろよ」

 ローマが十二表法を生み出したように、この手で作れというのか。私だけの、私たちだけの憲法を。
 かつてのローマはギリシャから文明を継承したという。小さな光を学び手に入れ、国に持ち帰って辺り一面を照らすほど大きくしたという。そしてやがて、世界の主役は成り替わった。
 プロイセンの言葉の真意を読み取ろうとして日本は動揺した。これではまるで。
(あなたに成り替わり、主役になってみせろとでも言っているみたいじゃないですか…)
 そんなことをこの男が言うはずがない。鼓舞という域を脱している。だってこれでは、自分の衰退を願っているかのような――…いや、違う。
 日本はいつかの日の兄弟の姿を思い浮かべた。プロイセンが愛おしそうに見る視線の先には、彼のかけがえのない国がいた。……知っているのだ、彼は。己の存在の終わりを見据えている。
 日本は気管が圧迫されたかのような苦しさの中、どうにか声を振り絞ろうとした。何を言えばいいのかわからないが、それでも。だが日本が絞り出した小さな声は、プロイセンの愉快げな哄笑に掻き消された。

「ケセセセ やってみせろよ、大日本帝国殿

 お前が秩序を変えたいと望むのなら。
 今度こそプロイセンは踵を返し、日本の前から去っていった。日本はただその背を見つめ、呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。



「祖国様、そろそろお時間です」

 立ち竦む日本に秘書が静かに告げる。

「…大きい、」
「はい
「大きい背中ですね」

 秘書は日本の視線の先を見やって頷いた。

「あの背に追いつかねばなりませんね」

 その言葉に日本は頷きかけて、ふいに止めた。

「……いえ」
「祖国
「追い越すのです」

 決然とした瞳で師の背を見据え、言い放つ。
 語り継いでみせると思った。誰よりも強くなり、揺るぎない国になって。彼のことを、千年先までも。