しん、と降りた静寂が綻びが弾ける序章のように感じて嫌な気分のままドイツは寝返りを打った。確かに静かな夜だというのに、どうしてか耳の奥で砲撃の吹き荒ぶ音が鳴っている気がして、とても眠れる気がしなかった。
 すぐ隣の温もりから、くぅくぅと子どものような寝息が聞こえる。まったく人の気も知らないで、と当てつけのように吐息しながら上体を起こす。今日も今日とて、白旗を握り締めながら逃げ回っていた男は呑気なもので、ドイツが身動きしようと起きる気配はなかった。
 見張り番の交代のため、寝床を出ていった島国の代わりに戻ってくるはずの兄が未だ来ないことに気付いて立ち上がった。あの二人のことだ。戦略でも交わし合っているのかもしれない。性格的にとても馬が合うとは思えない二人が親しい友人の如く接していることは、ドイツにとって不思議なことではなかった。それは幼き頃見た彼らの姿がそうであったからに他ならない。遠い太平洋の上の神秘の国が戦狂いの嫌われ者と揶揄されそうな軍国を師匠などと呼ぶことに呆気に取られたイタリアのような反応を今更することはない。
 ドイツは喉の渇きを潤すついでに彼らのもとへ行こうと足を進めながら、だが…と数十年前の出来事に思いを馳せた。



『兄さんと日本は仲が良いのだな!』

 子ども特有の無邪気さで喜々として笑ったドイツに、兄は一拍動きを止めてから唇に笑みを刷いた。見ようによっては卑しい、酷薄な微笑だった。

『馬鹿なこと言ってんじゃねえよ』

 普段より一段と低い声が言う。

『あいつはこれと同じだ』

 デスクの上のチェスピースを乱暴に指先で弄った兄が続ける。

『俺にとってのあいつも、あいつにとっての俺も、単なる駒の一つに過ぎない。よく見ておけ。そのうちあいつとも剣を交えるだろうよ』

 歪に口角のあがった笑みを見上げて、ドイツは思わず一歩後ずさった。兄の手の中に収まった駒が拳を握ることで隠れた。木製のそれが潰れるなんてことはないはずなのに、その動作はぐしゃりと音がしたと錯覚するほどのもので。
 ああ、兄にとってそれは造作もないことなのだ。邪念の渦巻く世界で必死に剣を握って生きてきた男は、当たり前のように昨日の友に剣先を向けられるのだろう。何の躊躇もなく、叩き潰せるほどに。
 窓の外を見やったプロイセンの視線の先に日本がいた。刀を振るっている。素振りという鍛錬だと聞いたことがある。

『あいつは危険だ。俺たちの脅威になるぜ』

 普段より大分静かな声音で紡ぐ兄を見上げて息を呑んだ。つい先程まで笑い合っていた弟子に対して、ひどく冷たい視線を迷わず向けていた。
 ドイツは理解していたつもりだった。自分の存在、この先成し遂げること、――国として生きるという意味。覚悟が足りなかったのかもしれない。急激な不安が襲いかかってくる。ぎゅうっと胸もとのシャツを握り締めた。この奥に感情を発露する心があるという。己の存在すべてを懸けてドイツを育んでくれる目前の男は、それを容易くコントロールし、国として生きている。昨日笑いかけた相手の心臓を躊躇いなく突き刺すことも簡単に出来るのだろう。
 ぐしゃぐしゃと頭を掻き乱す大きな手にドイツは肩を跳ねさせた。見上げれば、プロイセンが笑っている。家族に対する厚い愛情がそこには確かにあった。
 その顔は本物なのだろうか。人体に流れる鮮血のような瞳の奥の感情を、その男は簡単に隠し通してしまう。感情が切り離された顔で剣を振るう。銃を打つ。砲撃を放つ。こんなにも優しいのに。暖かいのに。その傷だらけの手は容易く温度を無くせるのだ。
 ドイツは何だか泣きたいような気持ちになった。遠い極東の島国はいつか脅威になるかもしれないという。ならば、あなたはどうなのだろう。家族同士でも銃口を向け合うことがあるのだろうか。もしもそうなったとき、あなたは躊躇いなく引き金を引くだろうか。俺に向かって。
 きっと引けるのだろうな、とドイツは笑いたくもないのに笑みを浮かべた。眼前の男は誰よりも国らしく生きているのだから。



 ドイツは深く息を吐いた。嫌なことを思い出してしまった。兄の言った通り、日本とは一度剣先を向け合った。だが今は信頼に足る仲間だ。
 重くなりそうな足を動かす。静寂が覆った夜に音を立てるのは忍びなくて、無意識に足音を立てずに歩いていた。そうして顔をあげた先の光景に喉が息を吸うのをやめた。ドイツは目を見開いて、呆然とその光景を瞳に映した。
 大分傷んでいる折り畳みの携帯椅子に腰かけたプロイセンの前に日本が左膝を立てて跪いていた。彼は王者のように座る――場所とチェアのおかげで、そう例えるには些か無理があるが――プロイセンの編上靴を手にし、その爪先へ唇を寄せた。
 ドイツはそこで思い出したように呼吸をした。瞬きを忘れた瞳が映す場景が非現実に思えてならなかった。なぜならそれは、到底受け入れられるものではなかったからだ。
 確かに日本の唇が触れただろう靴は、プロイセンの性格上珍しく磨かれてもおらず――恐らくそんな時間はなかったのだろう――質の悪い泥に塗れている。そこに躊躇わず唇を落とす行為は普通ではないはずだ。だが、例えそれが王族が履くような汚れ一つないものであろうと、瞬間的に抱いた所感は変わらない。――厭忌のような負の感情。
 兄は、造形そのものは麗しい。剣の煌めきに似た髪に、信条を具現化したかのような紅血の眼。軍人然とした肉付きの身躯に戦果の刻まれた白皙。その色彩は稀有であり、見る人の目を引く。貴人にすら見えるその容貌は、絵画で描かれる王にだって相応しい。だからといって彼は王ではないし、遠い異国の友人が傅く相手では決してない。
 月明かの下で行われた一齣は、服装から周辺を飾る道具から何まで泥臭いものでしかないというのに、一種の神聖さすら放っていた。美術館にでも所蔵されたイコンの如く――とまで感じた自分にも嫌厭が差す。そんなものではない。これは、断じて。
 ドイツは不安にも似た感情の沸き立ちに戸惑い、未だ眼前の光景を処理し切れないでいた。
 日本の一連の行為が示すのは、間違いなく帰属であり、隷属だ。どう見たって、日本がプロイセンに伏拝しているようにしか見えない。支配者と被支配者。崇尊される者と付き従う者。
 何の冗談だ、と言ってしまいたかった。いっそ単なる遊びだと鼻で笑ってほしいくらいだった。それなのに、とてもそうは思えない姿がドイツの目には確かに映っていた。隠顕燈の橙色の光が照らすプロイセンの双眸は、戦場を駆ける軍人のようでも、普段の揶揄っぽい眼差しでもなかった。高潔な椿が露に濡れたようにほんの一瞬だけ心許無く揺れたあと、今まで見たことのない何かしらの情に溢れた瞳で目前に跪く男を見つめていた。日本の表情は重力に従った横髪に隠れてよく見えない。ただ靴に添えられた両手はまるで宝物にでも触れているかのような手つきだった。
 何が起きているのか理解できない。しかし、とんでもない場面を目にしてしまったことだけはわかった。
 いくら今は共に戦う戦友であるとしても、プロイセンは日本が傅いていい相手ではない。これが単なる軍人同士のお遊びならまだしも、彼らは軽率な立ち居振る舞いを許される存在じゃない。国の化生だ。国そのものなのだ。日本の行為は、異国に魂を売るようなとんでもない行為でしかない。
 どうして、なんで、と子どものように喚き散らしてしまいそうだった。
 遠い極東の友人は、ドイツがとても理解の及ばない長い歳月を生きた昔者である。それでも繭を飛び出した新しい世界の理を学ぶためにと、かつてプロイセンを師事した。その頃、まだ幼い姿だったドイツは彼と対面した。こちらの人間より余程小さな体で兄の訓練に耐え忍ぶことも容易い男だった。物静かながら努力家で誠実。時折、普段の徒弟らしい態度が鳴りを潜め故老っぷりが顔を覗かせると、このひとは兄よりも長い歳月を生きてきたのだと感じさせられた。そんなひとが若輩であるプロイセンに何の躊躇もなく教えを請い、直向きに努力する様は尊敬に値した。ドイツの知らない世界――幼き頃は夢物語のようだった――を語り聞かせてくれた。プロイセンに学ぶ徒弟同士という、仲間意識のようなものも抱いていた。一度は敵対したものの、こうして戦友となったことは嬉しかった。真面目で誠実で、その実秘めた情熱を持った友人。背を預けられる慥かな仲間だった。
 そんな男が兄の足先へ口づけた。そのとき感じたのは、もしかしたら失望だったのかもしれない。ドイツにとって彼は、彼らは、己の生に誇りを持ち只管に突き進む、国の化生としてあるべき姿を見せてくれるひと達だった。
 兄も兄だ。あのひとが日本の行為――跪き足先に口づける――を許すとは思わなかった。寧ろ、そんなことをしたら嫌悪を露わにし、怒気を叩きつけ、叱り付けるはずではないのか。プロイセンはその全身全霊を懸けてドイツを育んでくれたひとである。それこそ、を懸けてまで。だからこそ、他の誰より故国を想う気持ちは強いし、そのことの誇りは天を貫くはずだと思っていた。それらすべてを取っ払ってしまったような、信じられない眼前の行為が飲み込めないほど気持ち悪く、不安にも似た失望が胸中に蟠っていた。

「どうしたの

 背後からかかった声に弾かれたように振り返る。寝惚け眼は、ドイツの纏う尋常ではない空気に心配げに揺れていた。不安を多分に含んだ声は、イタリアが発するには随分と小さい。ドイツが焦燥感に似た感情で目を覚ましたように、彼もまた戦禍の近づく予感に沈痛として起きてしまったのかもしれない。

「……いや」

 今し方見た光景を己の心情も含めてとても話す気にはなれなかった。
 明らかに何でもないとは言い難い表情のドイツにイタリアの不安は膨らむ。

「何かあった、の…」

 ドイツがぴくりとも動かずに見据えていただろう場所を、彼の高い肩越しに見たイタリアは動揺したように言葉を詰まらせた。ドイツはそれにつられて今一度振り返り、瞠目した。
 抜き身の刀身が月光の下で煌めいていた。柄を握っているのはプロイセンだ。そのまま振り下ろせば、目下の男は深い傷を負う。理解し得ない光景だった。
 勿論、刀が島国を貫くなんてことはなく、切先を向けられている当人は、それが当たり前かのように刀身に口づけを落とした。
 刹那、ドクリと一際大きく鳴った心臓が静かな夜闇の中で行われている彼らの行為を邪魔する。咄嗟に胸元を押さえるが、当然ながら何の抑止にもならず、鼓動は徐々に早鐘を打っていく。
 まるで騎士のようなその所作が表すのもまた、隷属だ。イタリアを見ていたドイツは目にしなかったが、刀を差しだしたのは日本だろう。鞘をそのままに柄を相手に向け渡したはずだ。鞘を抜いたのはプロイセン。刀身に口づけたのは日本。それが示すのは一つだ。あの瞬間、プロイセンは日本の命を握った。日本は命を差し出した。勿論、その刀で貫かれようが彼は死には至らないだろうが、そんなもの先の行為の前では些事だ。そこにいたのは、命を握る者と目の前の男のため命を惜しまない者だった。

「……どうして」

 理解出来ない。旧知の二人がまるで別人のように見えた。
 緩く弧を描く日本刀が持ち主へと向かっている。なんで、どうして、という癇癪を起こした子どものような疑問ばかりが頭を占める。あれは、彼にとって殊更特別なもののはずなのに。



『それは必要なのか?』

 いつの日か、純粋な疑問だけをもって遠い異国の友人に聞いたことを思い出す。
 目の前を歩く島国の腰に佩用されたものを見やって思わず口を開いたのだ。その腰に携えられている日本刀の使い道をドイツは思い浮かばなかった。指揮刀に使うにしても、わざわざ日本刀である必要はない。そこまでの性能と強度は不要だ。
 「必要ですよ」と日本は答えた。それがさも当然かのように。
 「まさか前線で戦うつもりなのか」と聞けば彼は不思議そうに首を傾げた。まったくないとは絶対的には言い切れないが、質、量共に明らかに上回る敵軍の装備相手に白兵戦はそうそうあるものではない。例えそのためだとしても、有効範囲の差を考えれば刀は銃剣にすら敵わない。銃に対しては勿論のこと、とても武器としては使えたものじゃないはずだ。兵器の発達によって軍刀が不必要であることは日本だってわかっているはずだ。指揮や儀仗では使っても、武器としては不要であろう。実際、兵器の発達と戦法変化で、欧州では指揮や儀仗刀以外の軍刀は早々に姿を消した。日本の姿はどうにも時代錯誤感が否めない。
 日本は微苦笑して「そうですね」と頷いた。「火器の前ではこれがいかに無力であるかは重々承知です」と、きっと過去に思い知らされた出来事があったのだろう、寂しげな微笑でもって返された。「これは身分や栄誉の象徴でもあるのですが」と前置きされた上で続けられる。ああ、そういえば日本人の士官達はサーベル軍刀ではなく、日本刀を佩用している者が多い。

『必要なんです。私たちにとってこれは、魂の拠り所ですから』

 答えられた内容に、あまり理解が及ばず戸惑ったドイツに日本は微苦笑して「まあ…合理的であるべき軍隊でおかしな話ですけれどね」と続けた。苦笑してはいたものの、その表情は清爽を含んでいた。ドイツにとって普通でなくとも、彼にとってはそれが当然のことであることを物語っていた。

 そんなやり取りを兄に語ったことがある。単なる世間話の一つに過ぎない、夕食時の何てことない話題の一つとして。兄は面白そうに溌剌と笑って言った。

『さすが頭の凝り固まった爺だぜ。捨てたくねえもんは、頑として捨てないでいやがる。あいつ、うちの会社の刀剣鋼で軍用に洋刀身作ったくせに、「皆、自分で準備した日本刀を軍刀に仕込んじゃって」とか言ってたぜ。洋刀じゃ駄目なんだとよ』

 嫌味な口調だが、愉快げな笑声交じりの声だった。
 「まあ、軍人には精神を安定させるもんが必要だけどよ」と続けたあと、兄はいつかの日本にそっくりな寂しげな微笑を浮かべて言った。

『簡単に捨てられちまうんだろうな。あの国には命より大切なもんが多すぎる』

 ドイツは、嫌な予感を思い浮かべて目を伏せた。桜の儚さを武人に例えるような友人は、兄の言うように捨てることを厭わないのだろう。命より、大切なもののために。その、命を。
 でもそれは兄も同じだ。そして、その鼓動を握っているのは他でもない俺なのだ。



 いつかの日の感傷が鮮明に蘇る。

「……魂の拠り所」

 日本のそれを今手にしているのは、プロイセンだ。
 ドイツは辿り着いてしまいそうな真実に動揺した。
 いや、違う。違うはずだ。日本がそんなふうに思っているはずがない。その魂は彼の民と地と神に捧げられるものだ。それを異国が手にしていいはずがない。
 はやく、とドイツは祈るような気持ちで兄を見つめた。怒鳴りつけろ。叱りつけろ。こんなことは許されないと日本を罵倒してくれ。早く、否定してくれ。貴方はプロイセンだろう。偉大で勇壮な、誇り高い国であろう。
 自分にとっての兄が理想でいてほしいという思いはずっとあった。けれど別に完璧でいてほしいわけではない。兄が完璧であるのなら自分という存在の価値に疑問を持たなければならなくなる。よくない感情に囚われてしまう。兄が不得意なことを自分が補えるなら、それは誇らしいし、そうであればいいと思っていた。ただ今は、嘘でも完璧に振る舞っていてほしかった。今だけは。地獄の淵に立っているかのような状況下、今生のうちで最も苛酷な未来が待ち受けているだろう今だけは。誰よりも強く、誰よりも高潔で、誰よりも勇ましい貴方がいるのだから大丈夫だと、そう思っていたかった。
 自分勝手な感情だ。そんなことはわかっている。大きい図体で縋るような惨めさも理解している。けれど、そうであってほしかった。今だけは、失望に似た感情を抱きたくはなかった。
 ドイツは一歩踏み出した。プロイセンと日本のほうへ向かって。彼らの世界を壊したかった。何をしている、と訓練時のように怒鳴りつけてしまおうと思った。今し方行われていた行為は間違いなのだと、本人たちに認めてほしかった。
 しかし、ドイツの足はそれ以上進むことはなく、背後からかけられた力に阻まれる。

「……なんだ」

 イタリアがドイツの腕を強く掴んで進行を妨げていた。

「だめだよ」

 常なら陽気で明るい声が震えていた。俯いたままのイタリアが再三呟いた。「…だめだよ」と。
 真意がわからず、掴まれた腕を引く。あっさりイタリアの拘束を抜けた己の腕を心許無く摩りながら、目下の旋毛を見下ろした。

「…イタリア」

 困惑のまま呼びかける。
 ドイツの揺れた声音にイタリアは顔をあげ、琥珀を揺らした。

「だめだよ」

 三度目の同じ言葉は、目を逸らすことなく切々と紡がれた。

「……お前は許せるのか」

 隷属を示すような、あの行為を。
 跪かれた側のプロイセンはまだいい。だが、日本の行為は許されるものじゃないはずだ。他国に跪くその様は、彼の愛する民への酷い裏切りに他ならない。世界中の数多の国々が欧米諸国の帝国主義に屈する中、独立自尊を保った稀有な国。それを成し得たのは偶然の環境だけじゃない。国を愛する民たちの必死の努力があってこそだ。それを裏切っている。国そのものであるはずの男が。
 ドイツは歯噛みして、怒りのような情動を抑えた。

「……許されないよ、あんなこと」

 イタリアの声がドイツを肯定した。

「だったら――
「だからだよ…

 太陽の輝きを秘めているようなアンバーの端から堪え切れなかった雫が流れるのを、ドイツは呆然と見つめた。イタリアは震える唇を噛んで、ドイツの向こうの二人に視線を向けた。

「……許されないから…許されないから何も言わない…。言えないんだよ」

 ドイツはイタリアの視線を追って月下の二人を見遣った。彼らの唇はただ静かに呼吸を紡いでいるだけで少しも動いていなかった。あれだけの行為の最中、一言も交わしていない。
 イタリアが深く息を吐いた。そして跪く男の心中を代弁するように静かに続けた。

「……『あなたのためなら、この命を懸けてもいいと思うほど――』」

 そこで途切れた言葉にドイツは拳を強く握り締めた。気管を圧迫するような苦しさで呼吸が乱れる。
 許されないと、イタリアは言った。許されないからだ、と。
 イタリアが紡いだ言葉の続きを理解して、心臓が焼けるように痛んだ。
 ああ、やはり彼らはどこまでも模範的な国の化生なのだ。日本は故国の魂を売っているのではない。彼個人の魂の拠り所を異国の男に――…いや、ただ一人の男に――求めたのだ。その情動は許されないと、彼らは痛いほどに理解している。彼らはそうあるべきときが来たのなら、当然のように互いに銃口を向け、躊躇いなく引き金を引くに違いない。あの二人はそれを造作もなく行う。行えるのだ。己の生の責を、誇りを、放り出したりは決してしない。

 ドイツは震える息を吐き出して瞼を閉じた。
 ――Eins, Zwei, Drei……
 ――いち、に、さん……
 円舞曲が聴こえる。
 優雅で優しい旋律。小鳥が歌っているかのようなフルートの音色。ひどく甘美で、その実情熱を秘めていて、芯の強い音が。いつかの日の旋律が。ああ、あの曲は――

――…Lippen schweigen, 'sflüstern Geigen…Hab' mich lieb……」¹
(唇は閉ざされてヴァイオリンは囁く。「私を愛して」と)

「ドイツ…

 不思議そうに呼びかけたイタリアにドイツは目を開けた。今にも泣いてしまいそうな微笑で見返してきたドイツにイタリアは息を呑む。

「……あの日」

 ドイツは自分の手のひらをじっと見つめた。日本の左手と重なった己の右手。呼吸の音が聞こえるほど近い体温。
『…欲が出てしまいましたね』
 あの言葉の意味をようやく知った。
 あの日、ワルツのご教授をと嘯いた日本の欲の向かう先。プロイセンの左手と日本の右手が重なったのは、ほんの数分にも満たない一瞬だった。それも手袋越しの接触。直接触れることはなかった。きっと、今までただの一度も彼らは触れ合っていない。あの日の、布越しのほんの一瞬のステップの中でしか。
 練習相手になってくれますか、と日本はドイツに言った。多少のぎこちなさは残るが、それでも身に着けられていた日本のステップに合わせて踊った。プロイセンの演奏に合わせて。

「…俺じゃなかった」
「え
「日本が踊っていたのは、兄さんだったんだ」

 瞼を閉じて、甘い旋律に身を委ねた日本。
 瞼を閉じて、円舞曲を奏でるプロイセン。
 彼らは、触れることすら己自身に禁じていたのかもしれない。戒めていたのかもしれない。それが許されないと痛いほど理解していたから。
 彼らの唇が互いに向ける情動を語ることはないのだ。決して。
 左膝を立てて跪いた日本がプロイセンの足先に口づけを落とした姿が鮮明に脳裏に蘇る。日本の決して言葉にはならない告白を、プロイセンは受け入れた。その感情を抱くことを彼個人の権限で許したのだ。互いに、互いを。

 あの音色が身を灼くようにリフレインしている。
 ――All' die Schritte sagen bitte, hab' mich lieb!
  (ワルツのステップよ、言っておくれ。「私を愛して」と)

 イタリアがドイツの手を取った。夜の冷たい外気の中で、じんわりと温まっていく。

「……イタリア」
「うん
「許されるときは来るのか」

 あの二人の感情が。

 ――Und der Mund er spricht kein Wort,
   doch tönt es fort und immerfort:
     (唇は何も言わないけれど 耳には響く)

 嘘でもいいから肯定してほしかった。このままではあまりにも切なくて、胸が張り裂けそうだ。
 イタリアは、鈴を鳴らしたような笑声を漏らした。明るい、彼らしい声音だ。そうして、ドイツを見上げていつものように笑ってくれた。

「そういう世界にしたいね」
「……ああ」

 そうか、とドイツは納得した。俺たちがそういう世界にすればいいのだ。

 ――Ich hab dich ja so lieb, Ich hab dich lieb!
    (「本当にあなたを愛している あなたを愛してる」)

 脳裏にワルツを踊る二人の姿が思い浮かんだ。ドイツが鮮明に描き出した彼らは、唇を動かしていた。声を発していた。微笑み合っていた。世界で一番幸せそうに互いを見つめていた。
 ドイツは唇を噛み、目を伏せた。わかっている。そんなことは夢想に過ぎない。知っている。そんなことはあり得ない。許されない。それでも。
 世界中の国が、人間が、世界そのものが許さなくても、俺は、俺だけは許したい。いつの日か、この夢想がどうか現実になるように、と。

 戦火の近づく気配がする。
 その予感を誰よりも理解しているはずの軍国たちは、月明かりの下、静かな夜に物音ひとつ立ててはいなかった。プロイセンの手と日本の手が触れた。……いや、触れるなんてものじゃない。硬いグローブを纏った二人の指先が、ほんの少しだけ、簡単に解れるほどささやかに絡まった。体温なんてこれっぽちも感じない、布越しのたった一瞬の接触。
 ――あなたのためなら、この命を懸けてもいいと思うほど……
 その続きが音になることは決してない。それを彼らが口にすることは、決して。
 ドイツは繋がれたままのイタリアの手に力を込めた。込めれば込めた分だけ返してくれる体温は、大丈夫だよと言ってくれている気がした。温かかった。身に沁みていくような他人の温もり。しかし、眼前の彼らは互いの温度すら知らないのだ。唇は動かない。何も纏わない手が触れ合うこともない。それでも彼らは、満足そうに微笑っていた。

 ドイツの沈痛とした憂心とは不釣り合いな甘美な旋律が、耳の奥にこびりついていつまでも離れてくれそうになかった。
『……――Eins, Zwei, Drei…』
 プロイセンの普段より低い声がリズムを刻んでいる。日本の右手とプロイセンの左手が重なった。くるり、くるり、ステップを踏む。白い革越しのほんの少しの接触に日本は微笑っていた。プロイセンも、同様に。そのたったの一瞬が、あたかも最上の幸福であるかのように。

 言葉にならない――してはいけない――告白を彼らは繰り返し続けている。



 ――Jeder Druck der Hände
    deutlich mir's beschrieb
    Er sagt klar: 'sist wahr, 'sist wahr, du hast mich lieb!

    手を握りあうたび、はっきりわかる
    あなたの手は告げている
    ほんとうに ほんとうに
    あなたは私を愛している 



End.

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 ¹ フランツ・レハール 作曲
 喜歌劇「メリー・ウィドウ」
 二重唱Lippen schweigen(唇は閉ざされて)より

2016.3.16