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「はあ? ワルツぅ?」
思いっきり顔を顰めたプロイセンに日本は得意の曖昧な微笑を浮かべた。
「お前、俺様に女役をやれとか言わねえよな」
言ったら殺すとばかりの凄気の中で、日本の微笑みは徐々に引き攣り始める。
「いえ、その…ご教授頂ければ幸いだなと思っただけでして…決してあなたに女性パートを踊ってくださいと言ったわけでは――」
「言ってるだろ。男役と男役で教えられるわけねえだろ」
「…………」
仰る通りで、と言うかのように口を噤んだ極東の果ての亜細亜人を見上げて、今まで成り行きを見守っていたドイツは思わず口を挟んだ。
「兄さん、日本はただ教えてほしいって言っただけだろう」
「まさか公式の場でダンスが必要だとは…」と頭を抱えていた日本に、「兄さんに教わればいいだろう」と助言したのはドイツだった。虫の居所が悪いのか、心底女役が嫌なのか、まさか兄がこうまで嫌がるとは思わなかったのだ。
窘めるようなドイツの言葉に、跋が悪そうに頬を掻いたプロイセンが「あー…」と彼にしては曖昧な態度で何か言い澱む。不思議そうに見上げる日本とドイツの視線から、ついと逸らしてプロイセンは続けた。
「…つーか、俺様はこういうの苦手なんだよ」
丸くなった四つの眼に見据えられたプロイセンは、ぐしゃぐしゃと自分の髪を掻き乱しながら「くそ」と小さく吐き捨てた。
ドイツは思わず上がりかけた口角を慌てて引き締めて、日本と顔を見合わせた。先までとは明らかに違う笑みを刷いた日本が笑声を漏らしかけたのを、プロイセンの強い睥睨が牽制する。ドイツは今度こそ、堪え切れずに喉を震わせた。兄の雪のように白い頬が桃色に染まるのを見て、笑声を殺すのはますます難しくなる。
ドイツにとって兄は完璧なひとだった。世界のすべてを教えてくれるひとだ。だからこそ、社交ダンスとて彼にとっては容易く熟せる些事だと思っていた。まさか苦手だとは思いもよらなかったのだ。それを知られたくなかったとでもいうような兄の態度が微笑ましいと思ったのは日本も同じだったのだろう。先よりも大分緩んだ頬でプロイセンを見つめていた。
「大体、もとより気に食わねーんだよ。パートナーは大方ケバイ女だし、香水臭ぇし、社交の場ってのはどの女も獣みてぇにギラギラした目してやがる」
気持ち悪ぃ、と吐き捨てたプロイセンはよっぽど社交の場とは性に合わないらしい。確かに華やかな場にいるよりは、泥臭い戦場を駆けているほうがプロイセンらしい。どこぞの貴人のように綺麗な微笑を浮かべて女性の手を引いている兄の姿を想像しようとして失敗した。思えば、そんな姿見たことがないのかもしれない。兄の隣に女性がいるという姿に違和感を覚えて、ドイツは首を傾げた。何に対する違和感なのかわからないまま、茫と兄を見上げる。
「適当にやっときゃいいんだよ、あんなのは」
「適当とはまた…難しいですね」
困ったように眉を下げた日本に溜め息を吐きながらも「だからな」と教えの姿勢に入ったプロイセンが日本の手を引こうとした。その寸前に一瞬だけ時が静止したのかような間があって、ドイツはその違和感に首を傾げた。プロイセンと日本の視線が重なっている。何もおかしなところなどないというのに、プロイセンが日本と手を重ねる間際、一拍の空白があった気がした。ドイツが何かを疑問に思うより先に、当然のように男役の姿勢を取ったプロイセンになされるがままの日本の右手とプロイセンの左手が繋がった。
「Eins, Zwei, Drei――」
プロイセンの普段より低い声がリズムを刻む。クローズドチェンジのあとのナチュラルターンでぐいっと引っ張られた日本は、踏まないようにと足もとばかりを気にしていた顔を思わず上げた。常ならばあり得ないほど間近で視線が重なる。互いの目を見ることが叶わないほど密着するはずのワルツで視線が重なったのは、縺れた日本の身体をプロイセンが咄嗟に支えたからだ。リズムを紡ぐ声の振動までもが伝わっているかと思うほどの距離。目が合ったのは一瞬で、ほぼ同時に逸れる。日本は無意識に握ったままの手に力を入れていた。硬い白の手袋を着けているプロイセンの手の温もりは伝わるはずがないというのに、やけに熱く感じる。呆気なく離れていく身体と手の感触に日本は目を伏せた。
「下手くそ」
手を離して一歩身を引いたプロイセンが鼻で笑う。
「私だって女性側でやるのは初めてなんです」
「そりゃそうだ」
ケセセセ、と独特な笑声を漏らすプロイセンと呆れたような溜め息を漏らす日本を見ながら、ドイツはふいに気が付いた。兄と女性が近くにいる様に違和感を覚えたのは、男と女が密着するような関係――ドイツにとっては語り聞かされる物語の中での知識しかないが――を兄が誰かと結ぶという想像がまったく描けないからだ。兄は物語の中の王子が姫に、姫が王子に抱くような感情を誰かに向けたことはあるのだろうか。ドイツにはまったく想像つかなかった。彼は誰よりも〝国〟らしいひとだったから。
『馬鹿なこと言ってんじゃねえよ』
どうしてか、いつかの日のプロイセンの声が耳の奥で木霊した。
『俺にとってのあいつも、あいつにとっての俺も、単なる駒の一つに過ぎない。よく見ておけ。そのうちあいつとも剣を交えるだろうよ』
師弟というよりは友人のような気安さで軽口を叩き合っているプロイセンと日本の姿を見て、ドイツは目を伏せた。あんな風に笑い合っているというのに剣を交える時が来るのだろうか。それが当たり前の世界だと兄は言う。戦い続けて生きてきたひとの理知的な双眸の奥を、多分ドイツはまだ覗き見たことはない。兄は完璧だった。軍人として。――国の化生として。兄の言うことは真実だ。だからきっと、今は微笑み合える東の果ての島国と砲口を向け合うことになることも、当然のようにあるかもしれない未来なのだろう。何だかとても哀しい気持ちになって、ドイツはそれを振り切るように首を振った。
「ヴェスト? どうした?」
「……ううん」
「そうだ、日本。ヴェストに教えてもらえよ」
「はい?」
「身長的にもちょうどいいだろ」
鼻で笑いながら言うプロイセンを日本が睥睨する。人種の違いからくる体格差や身長差を気にしている日本を知っていて揶揄っているのはわかっているが、ドイツはプロイセンの名を呼んで小さく咎めた。それを気にすることもなく、プロイセンはなおも愉快そうに口角をあげながらドイツの背を押して日本に近づける。
「ほら、ちょうどいいじゃねえか」
「……プロイセン君」
「あんだよ。お前に睨まれても怖くねえぞ。ガキにしか見えねーし」
ドイツは、額に青筋でも立てそうな日本の手を慌てて引いた。
「練習しよう、日本。俺もまだ慣れてないんだ」
「だとよ。俺様の弟はさすがだぜ。どっかの時代遅れの爺さんと違って」
「兄さん…!」
さすがに揶揄が過ぎるとドイツが強めに咎めるためプロイセンを見ると、彼は不自然に目を逸らした。ドイツからといよりは、その奥の日本からのような。プロイセンの右手が白手袋を嵌めた左手を摩っていた。怪我でもしているのかと不安になったのは一瞬で、肩にそっと触れた温もりに振り返れば日本が優しく微笑っていた。
「練習相手になってくださいますか?」
「え? うん、もちろん」
今にもステップを始めそうな日本にドイツは慌てて姿勢を正す。
「えっと…」
日本に合わせて女性側の体勢を取る。
「すみません。こんな役回りを」
「ううん」
「次は交代しましょう」
そう言ってくれる日本を見上げて、ドイツは首を傾げた。
「どうしたの?」
「はい?」
「まだ怒ってる…? さっきはちょっと不躾だったけど、兄さんを許してあげて」
今度は不思議そうに目を丸くした日本が首を傾げた。
「もう怒っていませんよ?」
「でも少し頬が赤い。だからまだ怒ってるのかと思って」
「…………」
日本は弾かれたように顔を背けてから小さく息を吐いた。
「……欲が出てしまいましたね」
「え?」
「いいえ。何でもありません」
ドイツを見てふわりと微笑った日本を不思議に思いながらも頷く。もう怒っていないならそれでいい。彼らの仲が悪くなるのは嫌だった。例え、未来で剣先を向け合うことがあるかもしれないとしても。
「じゃあ、俺様は歌でも歌おうか」
背後から聞こえた笑声交じりの声に呆れて吐息するが、眼前の日本は楽しそうにくすくすと笑った。
「それはぜひともお願いしたいですね」
「……日本、そんなこと言うと――」
兄は調子に乗って本当に歌うぞ、と続くはずの言葉は「任せろ!」と喜々としたプロイセンの声に阻まれた。だが、続くはずの兄の独特な歌声は聞こえない。怪訝に振り返ろうとすると、兄にしては随分と静かな声が耳に届いた。
「あー…やっぱこっちにするわ」
こっちとは、と疑問を口にするより先に聞き馴染んだ音色が聴こえた。
優雅で優しい旋律が室内を包み込む。明るく透明感のある音色が三拍子を刻んだ。兄が時折聴かせてくれるフルートの音色だ。
イチ、ニ、サン、と聞き慣れないリズム音と共に身体が動く。日本に合わせてステップを踏みながらも、ドイツはふいに浮かんだ怪訝に首を傾げた。確かに多少ぎこちなさはあるものの、日本はきちんと踊れている。完璧に取得しているわけではないのだろうが、ある程度はということだろう。ならば、兄に頼んでまで習練に励むほどのものではなかったのではないだろうか。
くるりと回る力に身を任せていると、密着している日本の体温がやけに熱く感じた。いや、もしかしたら熱いのは耳なのかもしれない。耳の奥に入り込んでくる音色がどうしてか直情的に胸の奥底まで届くようだった。上品で優雅な旋律だ。それなのになぜか、ひどく甘美で、ひどく情熱的で、芯の強い音が身体の奥に割って入ってくるような、そんな感覚に陥った。
ぴたり、と日本の動きが止まる。急な静止に縺れたドイツの身体を日本の細い腕が支えた。さらに近づいた身体が日本の鼓動を捉えた。ドクドク、と刻む生命の音が兄の奏でる旋律のリズムを容易く追い越している。明らかに平静ではないだろう速さだった。
「日本…?」
少し身体を離して見上げると、俯いた日本がドイツにしか届かない小さな掠れた声で言う。
「……これは」
「うん?」
少し不自然な間があったあと、日本は顔をあげた。小さな微笑を浮かべて――けれどそれはどこか切々とした色を纏っているようにも見えた――続ける。
「何という曲ですか」
ドイツは、ちら、と後ろを見やった。演奏は続いている。美しい音色を奏でているプロイセンは目を閉じていた。開かれぬ瞼の裏に何を思い描いているのだろう。
「この曲は――」
何だっけ、と頭の中の引き出しを探りだして日本を見上げる。その顔に乗る小振りな唇を茫と見ながら続けた。
「『Lippen schweigen』」
――〝唇は語らずとも〟
ああ、そうだ。このワルツは――と、ドイツはまだ自分には理解できない物語の中の男女の情念に想いを馳せた。意地を張るのをやめたダニロがハンナの手を取ってこのワルツを踊るのだ。そうして彼らは愛の二重唱を奏でる。
1、2、3――「そうですか」と頷いたあと、再びステップを踏み始めた日本に合わせて足を動かす。彼は瞼を閉じていた。甘く響く旋律に身を任せるように。見えなくともドイツはわかった。きっと、プロイセンもまだ瞼を閉じているに違いない。なぜそう思ったのかはわからない。それでもきっと間違えではないだろうと、どうしてか確信があった。
優雅で甘やかで、その実情熱を秘めた旋律は、しばらくの間ドイツの耳から離れることはなかった。
ルーネの円舞