TOP > APH > Gilbert x Kiku > Short > 現實に結ぶ夢 > 04
日本は熱くなった頬を両手で小さく叩いて深く息を吐いた。各国の要人や秘書のためにそれぞれ用意されている控室に入る。
無意識だった。襟元を軽く引っ張ってからネクタイを整える。身に纏った生地の感触を確かめるように何度も指先で撫でながら、もう一方の手を資料へと伸ばした。
タブレットを操作しながら、その様子をちらと見やった秘書がおもむろに口を開いた。
「休暇はいかがでしたか」
そう問われて、日本は目を丸くしてから苦笑した。
「突然の休暇を頂いてしまい申し訳ありませんでした」
「多忙を極め、祖国のお身体に負担をかけてしまったのは我々です」
大きく頭を振った秘書が深く頭を下げる。それに、と続いた言葉に首を傾げた。
「そろそろだと思っておりました」
と困ったように眉を下げて言われるのに、実は私も期待していたんですよ、だなんてことはとても口に出来ず、小さい微笑を返した。
「あの方から連絡があると、いつも背筋が伸びる思いです」
微苦笑した秘書が続ける。
「遠く離れた地におられるのに祖国のことを理解されておられるのだなぁと、毎度のことながら感心いたします。先生とお呼びしたいくらいです」
そう言った秘書に日本は目を瞬かせてから、堪らず声を立てて笑った。
珍しい日本の様子に目を丸くした秘書はぽかんとしたまま茫然と「どうされましたか」と問う。日本は切なさの入り混じった笑みを浮かべたまま言った。
「いえ…。懐かしいことを思い出したもので」
昔を振り返るのは怖かった。その中のどれもが大切な記憶であったはずなのに。
もうあれは百五十年近く前である。明治維新の元勲として後の世でも語り継がれる男は、峻厳で無口な人だった。彼は使節団の一員として滞欧中、西洋との繁栄の差を目の当たりにして、自らを木偶人に斉しと自嘲し嘆き、沈鬱としていた。アメリカ、イギリス、フランスでの調査を終えて猶、それらの国との差異に悲壮感を強めていた。しかし、帰国の直前に訪れたドイツにおいて、ドイツ帝国立国の英雄に接した彼はそれまでの憂慮を払拭したのだった。
無口で厳格な男は意志の宿った瞳で語った。
『彼の国は他の欧州諸国とは風俗や人柄が異なり、純朴であり、我が国と近いものがあると感じました。大先生を生んだ彼の国に我が国の未来を見出せるのではないかという気持ちでございます。彼の国は益々力をつけ、このうえ一層の強国となることでありましょう。陸軍の調練も見学致しましたが、その整粛さと厳行さには只々感服したものでございます』
国力を高め、独立を保つには何をなさねばならぬのか。彼の国の首相を大先生と称した男は結論を出すことが出来たらしい。そして、国のかたちを求めて日本はその足を進めることとなる。
『我が祖国よ』
男が呼ぶ。
『日本も今日の普魯西のようになりうると、私はそう思うのでございます』
希望の燈る表情だった。そうであったらいい、と切に願った。そうなるのだ、と全身全霊を懸けて邁進することを誓った。
やがて対面した彼の国の化身に抱く感情が、熱を孕んだものに変わるなんて思いもしていなかった。けれど、最初からあった強い憧憬がそれに成り果てたに過ぎないのかもしれない。彼の背を追えば未来が見えた。あの瞬間の感銘を彼は知らないだろう。魂が震えるほどの昂奮は深く胸に刻まれて、宝物のように大事に仕舞っておいたはずだった。いつでも、どんなときだって、思い出せるように。そうして前へ進めるように、と。
いい時代だったなど、とても言えない。何千年も刻んできた時のほんの少しのたったのあの百年があまりにも長かった。辛かった。苦しかった。痛かった。哀しかった。それでも、あの人との思い出は揺るぎない清福だった。今思い出したって、あの激動の時代を生き抜いたのだと知らしめてくれる、忘れ得ない大切な記憶であった。
日本は、目の前の秘書に視線を滑らす。日本人然とした身体と色彩。彼は先人が必死に積み上げた歴史の上に立っているのだ。
「History repeats itself.」
「え?」
歴史は繰り返すと云うが、この言葉をこんなにも愉快な気持ちで紡ぐことなど中々ないだろう。
『――…先生。プロイセン先生』
いつかの記憶が蘇る。歴史の教科書には載っていないだろう、一日本人たちが国の化身であるあの人をそう呼んでいた。
「ぜひとも先生と呼んであげてくださいな」
戸惑い、困惑する秘書に笑う。
どこか晴れ晴れとした気分だった。
『何かを得たいと望むなら力をつけろ。赤裸々な力でいい。出来るなら、誰よりも圧倒的な力だ。そして大事なもんは手に入れろ。それがお前にとって必要不可欠だと思うなら。奪い取ってでも』
昔の、師であったあの人の言葉が唐突に脳裏を過ぎった。どうして思い出そうとしなかったのだろう。その勇気をあと少しでも出さなかったのだろう。
何も言わないのはお互い様で、すべてではなくても互いを理解はしていたのだろう。でもあと一歩のところは互いに踏み出せずにいた。踏み出そうとしなかった。あなたは大事な人なのに。こんなにもこの胸を引っ掻き回す唯一の存在なのに。
私にとって必要不可欠ならば、奪い取ってでも手に入れろ。その通りだ。あなたの心情を理解しようとすることに必死で、自分の心情を置き去りにしていた。
そっと左手首に纏う時計を撫でる。これを貰ったとき、彼の色を纏うことの喜びがどれだけ大きかったか、彼は知らないだろう。私はあなたのものでいたいと強く願った。この心は何があろうとあなただけのものだと。あのあとすぐに腕時計を買った。高級ブランドの高級腕時計だ。シルバーのメタルベルトに黒と紺青の文字盤。あなたにぴったりの色。本当は私の色を纏わせたかったけれど、少し入っている黒で我慢することにした。太陽の色はあなた自身がもうその瞳に持っているから。けれど、その腕時計は渡せずにいた。それこそ彼は上等なものをすでに身に着けていたし、私が時計を渡す意味を理解したら受け取ってくれないのかもしれないと思った。
同じ時を刻んでほしい。ずっと、ふたり一緒に。どんな関係だっていい。ただ同じ時を生きてほしい、と。そして同じ時を、昔を共に思い出せたなら嬉しい。共に過ごした日々を。あんな時を止めた一時の夢の中だけではなく、現実を共に生きたかった。これは、あなたと生きていくという覚悟そのものだった。
ずっと鞄に入れておいたそれを取り出して、上等な箱を秘書に差し出す。
「〝先生〟に渡していただけませんか?」
「えっ!? 私がですか!?」
「はい。ちゃんと先生とお呼びしてくださいね」
「で、でも、もうすぐ会議が…」
「今なら間に合います」
「終わってからでは、」
「駄目です」
今がちょうどいい。国の化身であるからこそ集まる世界会議で。ほとんどの国が集まっているであろう今が。
自分の手で渡さないのはあなたも覚悟してほしいからだ。私はもう覚悟した。傷つくことも傷つけることも。どんな未来が訪れようとあなたを想って生きていく。だから、あなたから動いてほしい。どんなしがらみも捨てて、誰の目も憚ることなく、私をあなたのものにしてほしい。これを渡せば、聡いあなたはきっと私の心を理解する。理解して、そして奪ってほしい。私を。必要不可欠だと思ってほしい。何が何でも必要だからと奪い取ってほしい。
一時の夢だけではなく、現実でもあなたが欲しい。
引き攣った顔をする秘書ににこりと微笑めば、困ったように眉を下げながらも頷いてくれた。
「ああ、休暇はどうだったかという質問の答えですが」
「はい?」
「有意義な最高の休暇でしたよ」
それを聞いて秘書の顔は真っ赤になった。
ああ、ばれてますよ、プロイセン君。ふたりだけが知り得る関係。確かにそうだった。けれどもこの何十年、あなたが強制的鎖国を実施するたび、仕事に支障をきたさぬようにと連絡を取ってきた私の仕事仲間はなんとなく関係を悟っていたみたいです。そりゃそうですよ。──遠く離れた地におられるのに祖国のことを理解されておられるのだなぁと。彼はそう言ったんですよ。何の関係もないあなたがわざわざ私の心情や体調を慮り、さらには仕事をないがしろにしないようにと配慮までするんです。どんな関係なんだと疑うのが道理です。
何を想像したのかはわからないが、頬を染めた秘書は「…それはよかったです」と蚊の鳴くような声で言って、ぎこちない動きで扉に向かった。
部屋を出る彼の背を追う。会議室との距離が縮まっていくほど、緊張で身体が硬くなった。それは秘書もだろうけれど。
会議室の扉を開ける。思った通り、ほとんどの化身たちが集まっていた。私は入り口で立ち止まる。不安そうに振り返った秘書に頷くと、彼はおずおずとプロイセンのもとへ歩みを進めた。
「せ、先生っ…!」
顔を真っ赤にしながら言った秘書の一声によって会議室はしん、と静まり返った。日本は思わず笑ってしまいそうだった。緊張していたからだろう、秘書の声はあまりにも大きく室内に響き渡った。
ぽかんとしたプロイセンがきょろりと周りを見渡す。目の前に立っているのだから、自分に向けられた言葉なのだろうが、言葉の意味をすぐに理解できなかったのだろう。自分じゃない誰かに声をかけたのかと確認していた。
「せん…? え? なに、おま…日本とこの――」
プロイセンの視線が入り口に佇む日本を捉える。緊張する表情筋をどうにか動かして、にこりと笑ってやった。
「プロイセン大先生」
視線を外したプロイセンの注意を引くように、もう一度秘書が口を開いた。
日本は思わず小さく噴き出す。大までつけましたか、と。プロイセンの隣に座るフランスが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして固まっていることもまた面白かった。
「だいせん…え?」
プロイセンが首を傾げる。眉を寄せたかと思うと、何かを思い出したのか目をぱちりと瞬かせた。
『――…先生。プロイセン先生』
呼ばれ慣れぬ敬称付きの名前に一瞬思考が止まる。自分が呼ばれたのだと理解して振り返った。
『お、おう。何だよ』
振り返った先には一人の日本人がいた。留学生だろう。小柄で髪も目を真っ黒で、少し不似合な洋装を纏っている。プロイセンに声をかけるとは中々の度胸だと思った。
『呼びとめてしまい、申し訳ありません』
深々と頭を下げる所作は未だ見慣れない。
『いや、問題ないぜ。で、どうした?』
『教範をいくつかお借りしたいのです。明日の朝までにはお返ししますので、どうか書庫に立ち入る許可をいただけませんか?』
『明日の朝って…もう夜だぞ。なんなら明日貸してやるから今日はもう休めよ』
『ですが…!』
日本人ってのはこんなのばっかりのなのか、とプロイセンは片眉をあげた。
あいつもそうだ。休みなんて碌に取ろうとしねぇ。それでぶっ倒れでもしてベッドで過ごす羽目になったら、元も子もねーじゃんか。
『あのな…その勤勉さはいいことだが効率が重要なんだよ。睡眠は必須だ。わかったらおとなしく部屋に戻れ』
男は不満そうな顔で何か言いたげにプロイセンを見上げる。彼が口を開いたところで、第三者の声がそれを遮った。
『そうです。プロイセン殿の言う通りですよ』
『祖国様…!』
現れたのは日本国の化身だった。
お前が言えた義理じゃねぇだろ、と突っ込みたいところだったがその言葉は飲み込む。
『〝先生〟の言うことはしっかり聞かなくては。そうでしょう?』
『…はい。すみません』
男は頷き、頭を下げた。
『では、ゆっくりお休みくださいね。明日からまた頑張りましょう』
『はい。お休みなさい』
男が日本からプロイセンへ視線を移す。
『プロイセン先生』
『…おう』
『無理を言ってすみませんでした。ご忠告有難うございます』
男は「お先に失礼します」としっかりとプロイセンの目を見て言った。そして、「Gute Nacht.」と続ける。プロイセンも挨拶を返すと、彼は踵を返した。
『…おい』
『はい?』
『何なんだよ、あれ』
残った化身に問う。
『申し訳ありません。ご迷惑を――』
『違ぇ。そうじゃねぇ』
まぁ、いち留学生が堂々と話しかけてくるのにはびっくりしたが。
『何なんだよ…〝先生〟って』
目を丸くして瞬かせた日本が口を開く。
『ご不快でしたか?』
『別に…そんなことはねぇけど』
そんなふうに呼ばれることなんてなかったから。
『ある方が、貴方の上司を〝大先生〟と呼んでおりましてね。みなそれに倣っているというか…いつの間にやら先生呼びが定着していたようです』
プロイセンは知らないだろう。彼らが「プロイセン先生をお見かけしたぞ」「プロイセン先生が視察に来てくださるそうだ」そんな会話をしていることを。
『あの子たちにとって貴方は〝先生〟なんですよ』
国の化身をそう呼ぶとは、我が民ながらどうなんだと日本は思ってもいたが、結局日本人らしいということだろう。一度信頼を向けてしまうと傾倒するものなのだ、と。
プロイセンは何も言うことなく、さきの留学生が去っていった先をぼんやりと見ていた。そのプロイセンの背を一歩後ろで眺めていた日本は目を細める。大きく、逞しい背だ。足が縺れてでも、這い蹲ってでも追いかけないとならない背中。
――日本も今日の普魯西のようになりうると…
貴方を目指すことが未来に繋がる。そう信じた者がいた。
『あなたの…』
『あ…?』
日本の小さな声にプロイセンが振り返る。
『あなたの先には未来が見える』
目を見張るプロイセンに日本は泣きそうな顔で微笑った。
絶望していた。海の繭を飛び出した世界は恐ろしくて仕方なかった。世界を知れば知るほど希望が潰えていくような、そんな感覚だった。立ち向かわなければならない国々との差異が恐怖を煽り、一縷の光さえ見えないと思ったこともあった。けれど、成り上がれる。それを示してくれる唯一の人がいた。軍隊が国を持った、そう言われる通り血腥い雰囲気を纏う。血と土の匂いがする。粗野で荒々しい。けれど威厳を纏い、静粛で己を厳しく律する人だった。そうかと思えば、少年じみた言動をしてヒトのように感情に揺れ動く人だった。豪奢さを感じない素朴な強さを身に纏い、自信に溢れた顔で晴れやかに笑う人だった。特別優しく接せられたわけではない。他国同様いい出逢いなんかでも決してなかった。それでも、彼は、彼の国は、絶望や諦観を覆してくれる存在だった。前を向かせてくれる人だった。覚悟することができた。血反吐を吐いてでも一日でも多くの明日を生き抜こうと。
プロイセンは日本を見下ろしながら、ぐっと拳を握り締めた。何かしらの感情が溢れ出してきたのを抑えるために。能面みたいな顔で建て前ばっかで話すような奴が、泣きそうな微笑を浮かべている。その表情は本音を中々言わない彼の、確かに本物の心情の吐露なのだと、なぜかそう思えた。
特別に気にかける存在ではなかった。今にも踏み荒らされそうなお前など、俺には関係なかった。欧米各国を巡っているという視察の中で、到頭この国へ降り立ったこいつは絶望に瞳を濁らせていた。いつかのように、クリスマスツリーを見上げてその瞳を星空のように煌めかせた、そんな輝きはもうなかった。哀れだと思った。同時に小さな苛立ちもあった。お前もどうせ立ち向かいもしないで哀れな餌食となるんだろう、と。しかし、そうならない為にと男は俺のもとへ来た。勤勉だった。忍耐強く、頑固だった。根性があって、努力家だった。そして、矜持が高い。建て前で覆い隠してそれを見せないくせに、海よりも深い矜持を持っている。そんなお前が変わることを厭わず、がむしゃらに知識を蓄え、力を求めていた。泥臭く這い蹲るような、血反吐を吐くような、そんな姿だった。自分の培ってきたものを捨ててでも平安を壊した国々を真似る。傍から見れば見苦しい。滑稽だ。けれど、そんな姿を嘲笑うなんてことは俺にはとても出来なかった。
『お前なら大丈夫だ』
口を衝いて出た言葉だった。何の根拠もない、慰めにすらなり得ないような薄っぺらい言葉。
プロイセンにはこの男の国の未来など関係ない。蹂躙されるならそれまでだし、大国になる未来は別段見えもしなかった。それなのにどうして、こんな言葉を口走ってしまったのだろう。なぜ、この男は未来が見えるなど――俺の、先に――見えるなど、そんな大それたことを言うのだろう。
日本の表情がまざまざと変わるのにプロイセンは目を見開いた。彼は瞠目したあと、頬を上気させて笑った。仮面の微笑なんかではない、本物の笑顔だった。こんなどうしようもない言葉に、それでも日本は明らかな喜色を浮かべた。
プロイセンは心とは裏腹に快活な笑い声をわざとあげた。ぐしゃぐしゃと目の前の小さい頭を撫で回しながら目を伏せる。この男の行く先は果てしなく困難で、辛苦と悲歎に塗れていることだろう。そんなこと俺には関係ない。関係なのに。少しだけ…ほんの少しだけ、哀しかった。
ありありと脳裏に蘇った記憶に、プロイセンは弾かれたように日本を見た。プロイセンと日本の視線が重なる。きっと同じ瞬間を思い出している。日本の夜色の瞳が細まって、真っ直ぐにプロイセンを貫いていた。その瞳に切なげな色を見出す。その記憶を思い出すと同時にその後の時の流れも付随されて蘇る。いい時代だったとは、とても言えないだろう。日本にとっては特に、苦しみの始まりを意味するのだ。俺だって、これから己の存在の薄まりを感じようとしている頃だ。それでも大切な弟が出来た幸せな時代でもある。
今まで特段思い出すような記憶ではなかった。長く生きている俺たちからすれば、ほんの一瞬、刹那の日常でしかなかった。それでもその記憶は確かに自分の中にあった。その光景が瞼の裏に鮮明に蘇るほどに。どうして思い出そうとしなかったのだろう。
「先生」
今一度そう呼ばれる。目の前にいる日本の秘書が記憶の中の留学生と重なった。
「祖国から先生にと」
そう言って渡されたのは小さい箱だった。何だよこれ、という視線を日本に向けても微笑むだけだった。訝りながらもそっと箱を開ける。目に飛び込んできた銀と紺青と黒に目を見開いた。ゆっくりとそれを手に取る。ひやりとした感触と少しの重みに手が震えた。箱の内側に小さいメッセージカードが貼り付けられている。その内容に視線を滑らせて息を呑んだ。
『細石が大きな岩になって苔が生えるほどまで、千代に八千代にあなたと共に時を刻む』
かち、かち、と秒針が時を刻んでいる。プロイセンは時計を持っていないほうの手で口許を覆った。震える唇を噛み締めた。大きく揺れ動く感情が溢れ出してしまいそうだった。
こんな言葉は狡い。ひどい。お前の一生を、命が尽きるまでを、俺と時を刻むというのか。そこに俺がいなくなったって、覚悟を決めたお前は最期のときまで俺を想い続けるに違いない。その覚悟をしたんだと、そう訴えるその文字が辛かった。こんなの、酷すぎる。
ああ、そうだよ。俺は、俺たちは逃げていたんだ。ああやって熱に浮かされていれば現実なんて気にする余裕なんてなくなる。ただ荒々しく重なり合って目を逸らしていたに過ぎない。慰め合うにしては醜く、滑稽なものだった。あのあまりにも大きく、どろどろとして掴みどころのない、矛盾も抱えた感情を現実にまで持ってくるのには覚悟が足りなかった。夢の中なら、どんなに無様でも滑稽でも取り返しが効くと、そう思っていたんだろう。
俺はこの現実でお前と共にいようとはどうしても思えなかった。取り残された世界で、いつ時を止めてしまうかわからない俺がお前と共に歩みたいなんて、そんなことをどうして思えるというんだ。俺は未来に進んでいくお前の背をただ見ていることしか出来ないのに。だから夢でよかった。の一時だけでもお前とどろどろになって溶け合うように熱に沈み込むことが出来るのなら、それだけでよかった。十分だと思っていた。思おうとしていた。
顔をあげて日本を見る。夜空の瞳が微かに揺れている。硬くなっているその表情に緊張が滲んでいた。この場でお前はこれを渡した。直接ではないのは、秘書の言動で昔を思い出せと言いたいに違いない。現実を見ろ、確かに生きてきた現実を。そして覚悟を決めろ、と。
無様だった。あの頃の日本は決して高潔だとか、清らかだとか、そんなふうに見えはしなかった。滑稽だった。見苦しかった。必死に、誰も作らなかった道をひとりで切り拓いて、泥に塗れて、血を浴びて、生に執着して。でも俺はそんなお前の姿を自分に重ねた。戦って、戦って、戦って。必死に生き抜いてきた過去の姿に。
「……馬鹿野郎」
これがお前のメッセージか。俺に無様になれというのか。足が縺れてでも、泥臭く這い蹲ってでも、血反吐を吐いてでも、どんなに滑稽でも、歩みを止めるなと、この世界にしがみつけと、そう言うのか。ひどい奴。小鳥のように格好いい俺様に不様になれ、だなど。
「Scheiße…!」喉から絞り出すように言って、くしゃりと前髪を掴んだ。口汚くも出た言葉は、プロイセンが発するにしては小さい声だった。日本は、暗黙のうちに築いた二人の世界を壊そうとしている。
隣に座っていたフランスは驚きに固まっていた状態から浮上したらしい。今はプロイセンの表情を見て心配げな色を孕んでいた。会議室の中の誰もが何も言葉を発さなかった。先生呼びが衝撃ではあったが、ただならぬ空気を誰もが感じていて、成り行きを見守っていた。
――大事なもんは手に入れろ。それがお前にとって必要不可欠だと思うなら。奪い取ってでも。
ああ、そんなことを言った覚えがある。それが俺にとって必要不可欠だと思うなら、奪い取ってでも。
プロイセンはガタッと大袈裟な音を立てて椅子から立ち上がった。周辺の国も、目前の日本の秘書もびくりと肩を揺らす。
元々着けていた右手の腕時計を乱暴な手つきで外す。微かに震える手で渡された腕時計をつける。震えていたからか、焦っていたからか、中々上手く出来ない。少し緩いがもういい。
プロイセンは大股で会議室の入り口へ向かった。そこに佇む日本の腕を引く。
わかった。もう勘弁してやる。お前がその覚悟なら、俺も。
交わった互いの全く違う色の瞳が恐怖に揺れていた。
ああ、怖いさ。とてつもなく。なあ、お前もそうだろう。でもお前と一緒ならって、俺は思う。
「覚悟、決めたぜ」
まるで甘い睦言を囁くような声音だったのがおかしかった。そんなの、俺たちにはまるで似合わなくて。
見開かれた宵色の瞳に己の顔が映るのを見つめながら、強引にひいた腕をさらに引き寄せて薄い唇を自分のそれで塞いだ。思わずといった感じで「んっ…!」と漏れた声に喉奥で笑う。見つめ合ったままの口づけ。日本の瞳がじっと俺を見つめて、泣きそうに細まった。それと同時に強く背に腕が回される。背広がぐしゃりと歪むほど強く握られる。そんなことをする男の頭を掻き抱いて、さらに深く口づけ合った。苦しいのか、僅かに開いたそこに舌を潜り込ませる。そうすれば、堪えきれないといった感じですぐにそれは絡み合った。どちらのものかわからない唾液が輪郭を伝って日本の新調したばかりの高級スーツへと染み込むが、そんなことは気にならなかった。
熱に浮かされた頭はいつもの二人きりの世界にいるかのような錯覚を起こした。あの夢の中だと。けれど、そうではないことを会議室中に響く悲鳴とも歓声ともつかない絶叫が証明していた。
俺たちは今、慥かに現実で互いの手を取り合って強く握り締めていた。その両の腕からは共に刻むと誓った時計の秒針が確実に現実の時を刻んでいる。
End.
2016.9.19