目が覚めた。
 目蓋を開けて見えたのは見知った天井で、身体を起こして未だ明瞭でない意識を呼び起こすように軽く頭を振った。ベッドから足を降ろして立ち上がる。湧き上がる欠伸をそのまま発散させつつ、今まで何度も開けたことのある扉に手をかけた。まだ眠気の残る頭は働いてはいないのだろうが、勝手に身体は動いてくれる。二本の足は洗面所へ向かっていた。習慣である。起きれば顔を洗うという、何度も繰り返し行ってきた行動を身体が起こしているだけだ。蛇口から溢れ出す水に触れる。冷たい。そういえば今の季節は何なのだろう。そんなことを思ったことが不思議だった。冷たい水は眠気から完全に解き放たれるには丁度良かった。リビングへ向かう。深みのある芳香が鼻に届いた。コーヒーの香りだ。弟が朝食を準備しているのだろう。開かれた視界の先、ダイニングテーブルにコーヒーカップを運ぶ弟の姿が見えた。モルゲン、と口を開きかけてはたと気付く。ダイニングテーブルに用意された朝食。皿に乗せられたブレートヒェン。ナイフ、バター、ジャム。見慣れた朝食だ。カシャン。コーヒーカップがテーブルに置かれた際に音を立てた。弟はしまったという顔をする。気がどこかへ逸れていたのか、乱暴に置いてしまったが故にそんな音が鳴ったのだ。弟が椅子に座る。弟の男らしい節くれ立った手がカップを口に運ぶのを眺めながら、俺は「アア」と呻いた。――いや、呻いたつもりだった。弟は朝食を取っている。ひとりで黙々と。テーブルの上に用意された朝食は一人分であった。

 ――これは、夢だ。あの悪夢だ。そうだ。そうに違いない。

 俺は洗面所に駆け戻った。つい先ほど捻ったはずの蛇口。しかし洗面台は濡れてなどいなかった。乾いている。そこに水の残滓などありはしなかった。次に自室へと走る。いや、きっと駆けてなどいない。走る足など存在していないことを俺は知っている。扉を開ける。…ああ、開けてなどいない。扉を開ける手もありはしない。見慣れた自室。何年も使い続けた寝台には枕も布団も毛布も無かった。ベッドとしての機能を果たしていない骨組みだけがそこにはあった。アア、アア。俺は呻く。呻いたはずなのにその声が耳に届くことはない。視線を落とす。自分の手を見ようとした。しかし、己の瞳には何も映らなかった。きっと何かを映すはずの瞳さえ存在してはいなかったのだろうけど。絶望に染まる思考のまま、リビングへ戻る。朝食を食べ終えたらしい弟が新聞を広げていた。

 ――Morgen、ヴェスト。

 俺の言葉に弟が顔を上げることはない。知っている。俺の口は言葉を紡いではいないのだ。紡ぐ口など存在してはいないのだ。チャイムが鳴る。弟が顔を上げた。玄関へ向かった弟と尋ねてきただろう友人の声が聞こえた。柔らかい声。弟のかけがえのない友達の声。
「珍しく早起きだな」
「でしょでしょ! 俺がんばったんだ! ドイツ、褒めて~」
「まったくお前は…これが普通のことだぞ、イタリア」
 イタリアちゃん。そう喉を震わせたつもりだったが、やはりその声が聞こえることはなかった。俺の声は彼らに届くこともなかった。会話を弾ませる二人はすぐ傍にいる俺には気付かない。……いや、違う。
 知っている。気付かないのではない。俺は。俺、は。

 ――もう、この世界に 存 在 し な い 。

 そう思うと同時に意識が闇に飲み込まれた。
 迫りくる恐怖から逃れるように必死に何かにしがみ付いたつもりだったが、そんなことはないのだろう。だって俺はしがみ付くための腕を持ってはいないのだから。



 エゴ・イテルの



 ――付き合ってる……日本と。

 そう言った男は、まるで罪の告白でもしているようだった。
 「恋人とはどう過ごすもんなんだ?」数年前、酒の席でプロイセンは唐突にそんなことを言った。俺は目を丸くして隣に座る男をまじまじと見た。ひどく驚いたのだ。プロイセンがそんなことを言うなんて、と。戦うために生まれたというほどの男から、そんな話を聞いたのは初めてのことだった。恋などとは程遠いと思っていた。俺の恋愛譚を冷めた目で、または呆れた目で聞く男だった。「なあに、恋人でもできたの?」揶揄するように言ってやった。まさかお前が、という思いで。すると、プロイセンはこくりと頷いて言ったのだ。「付き合ってる……日本と」衝撃だ。俺はぽかんとして暫く固まったが、プロイセンの表情に瞠目した。それは慣れない恋に戸惑うのではない、甘い恋愛に浮かれているわけでもない、想い人に切なく思いを馳せるでもない、まるで聖職者に跪き、赦しを乞うために懺悔しているかのような、そんな表情だった。犯してしまった罪を告白し、罰を欲するかのような、そんな姿だった。

 それが数年前のこと。
 フランスはそのことを思い出しながら、プロイセンが付き合っていると言っていた恋人――日本をぼんやりと見ていた。たまたまだ。本当に偶然気が付いただけ。
 会議中の日本がメモを取っていた手が止まった。輪になった机のちょうど日本の正面に座っていたフランスは、何となしに遠目に見ていた日本の手が止まったのに気付いた。日本は自分の腕を見て眉を寄せた。何か痛みを感じて堪えたかのような表情だった。怪我でもしているのか、何かして筋肉痛にでもなったのかと想像していると、次の瞬間に日本が笑った。フランスは瞠目する。日本がよくするようなアルカイックスマイルでもなく、痛みに苦笑したようでもなかった。薄暗く微笑んだのだ。趣味のことならば異常なほど輝く彼の黒曜は、今は光など一縷もないかのようにただただ昏く濁っていた。それなのに笑みを浮かべる唇。ぞっとした。日本は何かに思いを馳せるかのようにうっとりとしつつも、薄暗い微笑を浮かべている。

「フランス兄ちゃん」

 ふいに聞こえた声にハッとして振り返った。まるで何かに怯えるかのような声でフランスを呼んだのはイタリアだった。いつの間にか会議は休憩に入っていたらしい。

「イタリア? どうしたのよ?」

 ちょっとこっち来て、と手を引かれるままについていく。無人の部屋まで来てようやくイタリアは足を止めた。薄暗い部屋の電気を点けて、こちらを振り返ったイタリアは泣き出しそうな顔をしていた。何かあったことは明白だ。フランスは安心させるように微笑んで、もう一度どうしたのと聞いた。

「…プロイセンと日本って恋人なんだよね?」

 フランスは目を丸くする。まさかつい先程まで思考を占めていた二人の話をこのタイミングで聞くとは思わなかった。

「プロイセンからそう聞いてるけど」
「うん。俺も日本とプロイセンがふたりでいるときに聞いたんだ。日本は少し恥ずかしそうにはにかんでた」

 へえ。そういえば、プロイセンからは聞いていたが日本からは何も聞いていなかった。プロイセンのあの罪の懺悔のような告白がフランスの胸の中では引っかかっていて、日本のことまでは頭は回らなかった。何でお前らが、と揶揄していい気がしなかったのだ。あんなプロイセンの顔を見てしまっては。
 日本も納得尽くなら何の問題もない――いや、あの薄暗い微笑が何か関係しているのだろうか。あれがプロイセンを想っての笑みだとでも?
 それにしてもイタリアが何を言いたいのかまるで見えてこない。フランスは眉を下げ、それがどうかしたのかと話を促した。

「ふたりって恋人に見える?」
「うーんと、それはお前には恋人に見えないってこと?」
「…わかんない」

 イタリアは困ったような、それでいて悲痛さを伴うような顔で首を振った。
 フランスはこの数年間を振り返る。プロイセンと日本。そもそも二人一緒にいる場面を見る機会というのがあまりないのだ。それぞれとの付き合いは多いほうだから個別ではよく会うけれど、考えてみたら二人が付き合っているような話題を本人達から聞いたことなどない気がする。そもそも二人が甘い恋バナなどするタイプではないから、イタリアに言われなければ気にもしなかったかもしれない。ただ、あのプロイセンの告白が気になっているだけで。

「言われてみれば恋人らしい何かを見たことはないけど、二人ともそういうの表に出すタイプじゃないでしょ。それで? お前は何に引っかかってるの?」
「…プロイセンって嗜虐趣味があるの?」
「……はあ?」

 突然の言葉に思わず強く聞き返してしまった。だが、イタリアは至極真面目な顔でフランスを見ている。

「さすがに俺もあいつの性癖までは知らないけど…まあ、Sっぽい気はするよね」
「恋人を縛り上げたりするかな?」
「…ねえ、ちょっと待って。お前は何が言いたいわけ?」
「……痕が」
「うん?」
「日本の手首に赤い痕がくっきりついてた」
「え……縛られた痕ってこと?」
「…わかんない。縄とかの痕には見えなかったけど、紫に変色しててすごく痛そうな痕だった」

 フランスは先の会議での日本の様子に納得した。あの上等なスーツの下には何かしらの痕があったのか。だから、メモを取っていた日本はその痛みに手を止めたのだ。

「お前はそれをプロイセンがつけたって思ったの?」

 すぐに恋人を疑うものだろうか。何か危険に巻き込まれた、とか。いや、日本の普段通りの様子からしてその可能性は低いのかもしれない。

「ドイツと日本と三人で話してたとき、プロイセンの話題が出たんだ。何てことないことだけど、ドイツが「兄さんが」って言ったとき、日本が服の上からそっと腕を撫でるように触れたから、もしかしたらって」

 なるほど。それは勘ぐってしまうかもしれない。
 けれど、プロイセンが恋人に何か痛々しい行為をするだろうか。これは単にフランスの推測でしかないが、プロイセンは大切に思う人に対してはとことん愛でるタイプではないだろうか。深く慈しみ、大切に大事に、それこそ宝物のように扱う。それは、彼の愛する弟に対する態度を見れば明らかであるし、今フランスの目の前にいるイタリアに対してだって、プロイセンは深く慈しんでいるだろう。その愛情の発露がうざいと言われるほど過剰であったとしても。だから、愛する恋人に対しても殊更大事に接するのではないかと思っていた。
 そうは思うのだけれど。でも。例えば、プロイセンに強い嗜虐趣味があって、恋人である日本がそれを知り、互いに承知の上でそのような行為を行っていたら? あの懺悔するかのようなプロイセンの告白は恋人を傷つける可能性を見出していたから、ということになるのだろうか。では、あの日本の薄暗い微笑は?

「…ねえ」

 目前のイタリアはいまだ悲痛さや恐れ、不安、そういったものを綯い交ぜにしたような表情を浮かべている。

「なに?」
「お前はプロイセンが日本を傷つけてるって思ってるの?」

 少しだけ非難するような声音になってしまった。イタリアは弾かれたように勢いよく首を振った。

「違う! 違うよ。プロイセンがそんな…日本を傷つけるようなことするなんて思わないよ。でも俺…二人が一緒にいるところ、この数年間で何回も見てきた」

 それはそうだろう。イタリアはよくドイツ宅に行くだろうし、日本を含め三人は仲が良い。ドイツと一緒に住んでいるプロイセンがその輪に加わることも多いだろう。

「でも、でもね」

 イタリアは今にも泣き出してしまいそうだ。

「幸せそうに見えないんだ」

 その言葉は衝撃だった。
 脳裏に二人の姿が過ぎる。罪を懺悔し、罰を欲するかのようなプロイセン。傷痕に触れて、薄暗い笑みを浮かべる日本。

「…プロイセンは」
「ん?」
「あいつは幸せそうには見えない」
「え…」
「日本は話してくれたんだ。プロイセンと一緒にいるのはとても幸せだって。本当に嬉しそうに言ってた」

 これまた意外だ。日本ではなく、プロイセンが幸せそうには見えないとイタリアは言う。
 どちらかといえば、プロイセンは常に幸せそうに見える奴だ。それはあの男のフェイクであるかもしれないが、楽しげに日々過ごしているという印象が強い。

「本当に愛しあっているのかな」

 小さくイタリアが零した。それはつまり、日本の一方通行だということか。
 プロイセンと日本。そうだ。この組み合わせは意外だと俺も思ったのだ。強く惹かれ合う何かを互いに持っていたのだろうか。あまり交流もなさそうなのに? それとも、何か理由があって恋人の位置に互いを置いたのだろうか。…一体何のために?

「幸せになってほしいんだ。ふたりとも簡単に自分を傷つけちゃう人だから…」
「……俺たちが推測でどうこう言ってもどうしようもないんじゃない? …こればっかりは本人に聞くしかないんだろうね」

 二人の心に土足で踏み込むようなことだ。出来ればしないほうがいいのだろうけれど。
 イタリアはこくりと頷いて、「日本と話す」と言った。幸せになってほしい。その一心からの行動だろう。気は進まないが――いや、きっと俺は何かを壊してしまうことを恐れているだけに過ぎないのかもしれないが――イタリアに倣って頷いた。

「…俺もプロイセンと話してみるよ」

 その言葉を聞いて、ようやくイタリアは安堵の表情を浮かべた。