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Daydream play:10
人目のつかないところならどこでもよかった。手を引いて入ったホテルの一室の入り口まで来て、いやこれはないだろとようやく頭が働き始めた。
――やっぱりちゃんと伝えるべきだよ。プロイセンとして。
フランスの言葉が脳裏を過ぎる。それを聞いたときは、ちゃんと話をしようと思っていた。でも当然、話をするだけならわざわざこんな場所に連れてこなくたっていいのだ。俺は話をしようだなんて欠片も思っちゃいない。どうせ拒絶されるのなら、この男を傷つけることしかならないのなら、そんなことしなくていい。そうなるくらいなら、〝ギルベルト〟のままで〝本田菊〟と触れ合いたかった。その目先の幸福があまりにも眩しかった。
掴んでいる腕が熱い。何も言わず、手を引かれるままついてきた背後の男が何を思っているのかわからなかった。
入り口で佇んだまま、この先どうすればいいのかと逡巡する。掴んでいる腕が動いた。ギルベルトの手を離れようとする動きが嫌で、けれどこれ以上拘束するのはもっと嫌で、こちらから手を離す。離れた体温に寂寞と悲哀が浮かんだのは一瞬ですぐに再び熱が灯った。菊がギルベルトの腕を掴み直したのだ。驚いて振り向くと、ぐっと強い力で引っ張られて慌てて片手をドアにつけて菊にぶつかるのを阻止した。ドアとギルベルトに挟まれて見上げてきた菊の目もとは赤くなっていて、その瞳が夜の海のように揺らめいていることに動揺した。両手が下から伸びてくる。ギルベルトの頬を包むようにして触れて、今にも溶けてしまいそうな瞳で、けれど安堵のような吐息と共に言う。
「よかった…」
先と同じことを男は言った。何のことだと問うより先に男の言葉が続く。
「わたし、まだ壊れなくていいんですね」
涙の跡を新しい雫が滑る。それとは裏腹に男は笑っていた。いや、笑っていると言っていいのかわからないような、歪な表情だった。それこそ、まるで壊れてしまって歪んでいる人形のような顔で。
息が止まった気がした。気管が圧迫されたように苦しい。見開いた己の瞼は瞬きすることすら忘れた。その奥に構える瞳に映る男が精巧な人形のように微笑む。
違う。違うんだ。俺はお前にそんな顔をしてほしかったんじゃない。その仮面を外してやりたかった。心のままに笑って、怒って、拗ねて、泣いて、そんなふうにしていいんだぞって、そう言ってやりたかった。気に病むことはない、恐れることはない。傍にいるから、ずっと。お前がひとりぼっちになることはないから、と。そう言ってやりたかった。幸せにしてやりたかった。
でもそれが不可能ならば壊れてしまえ、と。そう思ったのも事実で。それでもやっぱり、
(……嫌、だなあ)
この男が傷つくのは、嫌だ。
行ったり来たりと忙しなく変わる矛盾した感情におかしくなりそうだった。それでも俺は優等生ぶりたい。いい男ぶりたい。俺の隣なんかじゃなくたっていいから幸せになってくれと、そう嘯いたっていいだろう? そのほうが格好いいに決まっている。
傷つけたい、傷つけたくない。その相反する感情の落としどころは、やはり後者だろう。どうして、もうすぐ跡形もなく消え去る男のためにあいつが傷つく必要がある。やっぱり俺は嫌だ。いつまでも尾を引いて、あの男を傷つけ続けるのは。どうせ、その傷を癒してやることなんて出来ないのだから。存在を失った世界では。
お前にお似合いなのは、やっぱり立場的にアメリカだろうか。引っ込み思案なお前には、あれくらいマイペースで自由な奴がいいんじゃないか。いや、意外と頑固なお前と頑なに自分を貫くあいつでは衝突してしまうだろうか。では、仲が良さそうなイギリスだろうか。あいつもお前も寂しがりで面倒くさい島国同士お似合いじゃないか。相棒と称して互いだけを見つめていた頃もあったんだから。それでも、あいつはお前を大切に大切に、それこそアメリカにするみたいに扱いそうだな。お前は甘えたなくせに妙に冷めてるから、鬱陶しく思ったりしちまうのかな。じゃあ、フランスはどうだろう。勿論、あいつが愛の対象を一人に絞ることが前提だけどな。きっと、お前が空想の中で憧れるような、それこそ映画みたいなラブロマンスを与えてくれるんじゃないか。ああでも、あいつはこっちでは年長者のほうだったから珍しい年上の恋人には甘えてしまうかもしれない。お前は甘やかすのも大好きだが、甘えたがりでもあるよな。自分を蔑ろにしちまうかな。それに、あいつが演出する完璧な恋人に応えようと躍起になって自分を失ってしまうかもしれない。
いや、やっぱりお前には女性体の化身が似合う。温かくて柔らかくて包み込んでくれるような。ハンガリー…には坊ちゃんがいるし、…それに凶暴だから論外か。いや、それは俺限定だっけ。あいつ、お前にはやけに優しいよな。…ああ、いるじゃないか。お前にぴったりな女。近いし、お前のことをよく理解しているだろう。俺はあんまり交流がないからわかんねえけど、台湾とかどうだよ。うん、ぴったりだと思うぜ。二人並び合う姿とか想像すると、なんつーか…微笑ましいな。お前ん家に置いてあった少女漫画の一幕みてえ。ああいうちっこい可愛い女は甘やかしたくなるよな。こう、頭ぐしゃぐしゃーって撫で回したくなる。でも案外気が強そうだし、仕事漬けで休まないお前をぶっ叩いてでも強制休憩させてくれそうじゃねえか。
ギリギリと歪な音を立てんばかりに痛む胸を無視して、そんなことをつらつらと考える。ぐ、と首に回った腕に驚いて思考を中断すると、見下ろした先の男が切々とした顔で何かを言おうとしていた。薄桃の唇が何度も開いたり閉じたりするのを見て、なんだ、と問おうとした瞬間、唇を塞がれた。
下から突き上げるようにして触れた唇に目を見開く。懸命に見上げてくる夜色と視線が重なった瞬間、衝動的に目前の小さい身体を掻き抱いた。
俺以外の奴と? 幸せに? 馬っ鹿じゃねえの。俺はいつから聖人君子になったんだ。この俗世で何百年と生きてきたくせに。列挙した誰一人お前に相応しい奴なんていねえんだよ。そして俺が一番…――相応しくねえんだって、わかっている。
痛い。どうしようもなく苦しい。心から笑ってくれ、傷つけ、幸せになれ、俺を想って一生苦しめ。まるで心の中に別人格の自分が二人いるみたいだ。どっちの感情が正しいのか、まったくわかりゃしない。
そんなことを考える頭など置き去りに身体は心のままに勝手に動いていた。この男を愛したいと、それだけを願って。どんどん深くなる口づけを角度を変えつつ何度も重ねながら、情けないことに泣きそうだった。心臓がうるさいくらいに悲鳴をあげていて、胸も腹の奥底も身体中が痛くて仕方なかった。
もう少しだけ許してくれないか。あと数時間でいい。そうしたら、ちゃんと律せられるから。自分の欲望を。なんてことのない顔で笑うことが出来るから。
『そもそも誰かをそういった意味で好きになるわけがないじゃないですか』
『あなたもそうでしょう?』
『――〝国〟なんですから』
いつかの日、何でもないことのように仮面でもつけたみたいな面をしてそう言ったお前に俺は否定しなかった。何言ってんだ、って言い返してやることが出来なかった。国は恋などしない、そんなものとんだ屁理屈だ。国の意思とは関係なしに俺たちは楽しむし、喜ぶし、悲しむし、苦しむし、痛みに嘆くだろう。天気がいいから明日は出かけようってわくわくするだろう。美味しいお菓子を食べて頬を緩めるだろう。料理をしていてうっかり切っちまった手が痛いと思うだろう。明日の仕事行きたくないなって駄々を捏ねたくなったりもするだろう。恨まなければならない敵を見て哀しいって思うだろう。ひとりぼっちで寂しいって泣きたくなる日だってあるだろう。心がなくちゃそんなの一切感じやしない。心があれば、恋くらいいくらでもする。情がヒトと同じように湧くんだから。
俺はそうやって言い返すことが出来なかった。踏み込まないでくれって、闇色の瞳が怯えたように俺から逃げるから。
別にあのときは想いを告げようだなんてこれっぽっちも思っていなかった。俺だって国としての責務で一杯一杯だったし、お前だって恋情にかまけていられる状況じゃなかっただろう。俺もお前も不器用だから、国の意思と個人の心情をはっきり分けて己の生を謳歌しようだなんて思えないってこともわかっていた。ただ俺はあのときお前に全否定されたような気がして、どうしようもなく哀しかった。この辛いけど哀しいけど、それでも温かい慕情をそんなものあるはずがないのだと、存在すら否定されたみたいで。
お前は自分で言いながら苦しげだった。俺を見て唇を歪ませた。言ったはずだ。瞳を見ればわかる。お前だって少なからず俺を想ってくれていた。その情の種類とか大きさはよくわからなかったけれど。
恋をするのは辛かった。あれからずっと想い続けるのは辛かった。絶対に振り向いてくれることはない、そもそも俺の気持ちすら認めない男を想い続けるのは辛かった。深い深い穴に突き落とされたみたいだった。どんなに助けを叫んでも、その呼び声に応えてくれる唯一のひとは絶対に聞いてくれない。出口のない暗闇の中ひとりぼっち、穴の底から上を見上げてはその深さに嘆く。穴の深さはきっと想いの深さだ。俺は自力でよじ登れないほどの深いところでひとり膝を抱えるしかなかった。きっとお前もこんな思いをするのが嫌だったんだろう。
命の終わりが見え始めた俺ですら、こんなに辛いんだ。まだまだ愛する民の繁栄を邁進するお前にとって、長い時の中をそんな辛い想いをするのなんて嫌だったのだろう。男は俺も知らないほどの長い長い時の中、孤独に狂っていたのかもしれない。国のためならどんな責め苦の中だろうと果敢に飛び込むお前も、個人的に浸る孤独には堪えられなかったのかもしれない。
どうして俺は、お前のことを幸せには出来ないんだろうな。救ってやりたかった。守ってやりたかった。ひとりじゃないぞって言ってやれたらよかった。お前の命が尽きるまで傍にいてやると誓ってやれたらよかった。
無力だ。俺は何も出来ない。いつかのように何かを与えられることなんて出来やしない。こうやってお前を苦しめることくらいしか。
(続く)