恐怖からくる激しい鼓動の音が耳鳴りのように響いていた。背後で聞こえたぐちゃりとした音を聞いたとき、絶望でおかしくなそうだった。手にしていた銃は弾丸切れ。ナイフも敵の体液塗れで武器としての機能を果たしそうもなかった。はぁはぁと速い鼓動と共に呼吸ではない息が漏れて苦しかった。
 振り向く間もなく、何か鋭利なもので貫かれた自分の身体からは大量の血が噴き出す。人形のようにされるがまま、無様に地面に転がった己の身体はもう動かしようがなかった。
 死を悟った。
 その瞬間、頭に浮かんだのは愛しい人の顔だった。俺が死んだら悲しんでくれるだろうか。悲しむのだろうな。あの男は優しいから。友人の死を悼んで、その想いを抱えたまま生きてくれるのだろう。
 好きだ、と伝えたい。そう思ったのは初めてだった。死ぬ間際にそんなこと思ったって遅いのに。三度ほど、あの大きな手に触れた。一度目は初めて会って握手をしたとき。二度目は恐怖と苦しみに苛まれた俺を抱き寄せてくれたとき。三度目は自分から彼に触れた。その三度目のときだ。男に惚れたのは。
 男の名を何度も呼んだ。声はもう出そうになかったから、心の中で何度も。
 死にたくない、怖い、怖い、会いたい、クリス。

「た…すけ、て…」

 漏れた声は無様なほど震えて微かに空気を揺らしただけだった。
 涙が溢れてきた。恐怖からか懇願からかはわからない。動かない身体をどうにか無理に動かして胸ポケットからパスケースを取り出した。そこに挟まれた写真をどうにか視界に収めた。涙でぼやけた先に快活な笑みを浮かべるクリスがいた。その隣に似た笑みを浮かべるクレアがいて。そしてその横に少し恥ずかしげに笑う自分がいた。結構昔のことだったから皆それぞれ若かった。
 クレアの紹介でクリスと初めて会ったときに三人で撮った写真だった。クレアがせっかくだから記念に撮りましょ、と言いだして何の記念だよと渋る俺に無理矢理に腕を絡めてきたのを覚えている。
 この写真をクレアから貰ったのは写真を撮ってから何年も後のことだった。彼女と久しぶりに会ったときにこれあげるわと唐突に渡された。彼女とも、それからクリスともなかなか会う機会などなかった。それぞれ忙しくて、それでも合間を縫ってたまに会ったりした。
 懐かしいな、と笑った俺につられてクレアも笑った。

 若いわよね、特にあなた。
 俺
 ええ、だって細いじゃない。
 ひょろっこくて悪かったな。
 ふふ、随分と逞しくなったわね。
 鍛えたんだよ。

 思えば、クリスよりクレアと会うことのほうが多かった。クリスは任務で特に忙しかったし、同じ地獄を生き抜いた者同士として彼女と一緒に過ごすのはどこか安心した。
 なぜあの日、唐突にあの写真を渡されたのかわからなかった。けどもしかしたら気づいていたのかもしれない。彼女は聡いから、俺のクリスへの気持ちを知ってしまったのかもしれない。俺はよくクリスのことを彼女に聞き出していたから。近況から昔の話からいろんなことを。

 涙と痛みで歪む視界の先のクリスの頬を撫でた。写真でしかないのに人の温かみを感じたのは、きっと自分の中の記憶がクリスの熱を再現したからだ。
 別の組織、別の道でも目指していたものは同じだった。クリスという男は優しいから、ウィルスの脅威がなくなるまで戦い抜くのだろう。本当は俺もそうしたかった。でももう無理そうだ。痛みがなくなってきた。麻痺してきたのだろう。もうすぐ息もできなくなる。
 今さら、本当に今さら気づいてしまった。俺が悪夢に苛まれていたように彼だってそうなのではないか。ウィルスとの戦いが始まったあの日から悪夢の中にいるのではないか。俺はあんたに助けられたけど、あんたはどうなんだ。クレアが、大事な妹が救ってくれた それとも生涯を誓った結婚相手でもいるのかな。
 もしも今もまだ悪夢の中で孤独に恐怖を抱えているなら、俺が助けたかった。そう思うのはやはり傲慢でしかないのだろうけれど。

 会いたい、クリス。
 あんたとまた会える可能性を考えたら、ここじゃないどこかの世界で会うしかないんだ。生まれ変わるとか、または平行世界とか。馬鹿みたいだろそんな非現実的なこと。でも最期だから、柄にもないこと願ってもいいかな。
 もしも。もしも、また会えるのだとしたら、そのときは全てを伝えたい。好きだというこの想いも何もかも全部。あんたのおかげで救われたと。

 ふと目の前に影が落ちた。あんたが来てくれたのかと思った。それが死の迎えだったのだとしてもどこか温かく優しい匂いがしたから。
 俺が死んだら悲しむのだろうな。あの優しい男にまた人の死を背負わせてしまう。それが堪らなく悲しかった。ごめん、ごめんなさい。先に逝く俺をどうか赦してくれ。あとはただあんたの幸せを祈るから。
 i pray…


***


 けたたましく鳴り響くアラームの音に眉を寄せて叩きつけるように音を止めた。これでまた寝られると毛布にくるまると、はぁ…と呆れたような溜め息が頭上で吐かれる。

「レオン、おいレオン」

 ゆさゆさと身体を揺さぶられ、嫌がるようにその手を払う。それに対して「こら、」と怒るようにこつんと額を叩かれた。んー、と言葉にならない声を発しながら薄らと目を開ければ、そこには保護者が呆れた顔で俺を覗き込んでいた。

「起きたか本当におまえは朝が弱いな」
「ん…」

 もたもたと上半身を起き上がらせた俺の髪をくしゃりと撫でて、俺の保護者は少し可笑しげに笑った。

「おまえももう子どもじゃないんだから、一人で起きろ」

 そう言うくせにあんたは俺を子ども扱いする。ほら、まただ。またそうやってことあるごとに俺の髪をくしゃりと撫でるんだ。けどその温もりを感じたくてわざとあんたが起こしにくるまでベッドの中にいるんだけど。
 ようやく覚めた頭で目を開けて目の前の男を見た。彼は俺の視線に気づき笑うと「朝食にしよう」と背を向けて部屋を出て行く。その背を見つめながら、胸に湧き上がる感情の波をどうにか鎮めようと深く息を吐いた。
 男を見ていると嬉しくて幸せで、でも切なくて苦しくて、堪らなくなる。すぐ手が届く距離にいるあんたに伝えるはずだった言葉を俺はまだ言えないでいた。
 その男――クリス・レッドフィールドは俺の保護者だった。
 遠い記憶、いや記憶と呼べるか定かではない、ここではないどこかの世界で俺が好いた男だった。