えんえん、と少女の咽び泣く声が荒れ果てた聖堂に響いている。大丈夫、大丈夫、と喉を震わすのも億劫な身体で何度も告げた。
 仰向けになった身体はもう動きそうになかったため、投げ出されたままに天井を見上げるしかなかった。リブ・ヴォールトの天井が美しい。腥い血の臭いさえしなければ敬虔な祈りの場として感嘆していただろう。
 視界の端に映った十字架はステンドグラスから降り注いだ陽の光に照らされ、黎明のように光の筋で輝いていた。
 おお、主よ。私はもうじきあなたのもとへ。
 無意識に浮かんだ文句にはたと気づく。ああ私は死ぬのだ、と。
 腹部を押さえ続けている手は一向にぬるつく感触が払拭されることはなかった。燃えるように熱かった身体が段々温度を失くしていっているのだと理解していた。法術を展開させるだけの余力はない。敵を追って隊からも随分と離れてしまった。今さら、連絡を取ったところで救護班が駆けつけた頃にはただの肉塊と化しているだろう。
 ……連絡。そうだ、連絡しなければ。単独行動に踏み切ったことで少女を救うことができた。少女の命の代償に差し出す己が鼓動など安いものだ。生きた人間の鼓動と血の臭いに誘われて、いつまた敵が襲ってくるとも知れない。どれだけのギアが周囲にいるかは未知数だ。この少女だけでも安全な場所へ連れ出さないと。けれど、もう私は動けない。
 腹部の深い傷痕を押さえていた血塗れの手をどうにか懐に持っていく。ギアとの激しい連戦で壊れていないことを願ってメダルを手にした。



 ぐっと額を押させ、ぐらついた身体に力を入れる。強く隆起と陥没を繰り返している細胞を軋むほど自分の腕を握ることでどうにか鎮めた。化け物の死骸にまみれた周囲に鋭い視線を巡らせながらヘッドギアを拾う。
 連戦続きに疲弊した身体で荒い呼気を吐きつつ、周辺の気を読んだ。ギアの気配も人間の気配もない。怒涛の猛攻もようやく止んだらしい。
 返り血と戦塵にまみれた身体で空を仰ぐ。血と死の吐き気がするような瘴気が渦巻いた戦場の空は、その命のやり取りを嘲笑うように馬鹿みたいに晴れ渡っていた。燦燦と輝く太陽に目を細め、その眩しさにくらんでようやっと茫然としていたことに気づく。
 おもむろに手に持ったままだったヘッドギアを装着しようとしたときだった。通信の音が響いた。わずかに驚き、ぼろぼろになり肌の見えている懐をさぐる。手に取ったメダルは珍しく激しい戦闘に耐えていた。
 前々回くらいの戦場で破損したことへの小さい上司の説教がまだ耳に残っている。そう何度も壊されたら困るんです。安いものではないのですよ。早く始末書を提出しなさい。武器の破損についても詳しく説明してもらえますか。
 ぐちぐちぐちぐちと煩わしいったらありゃしない。どうせほとんど使うこともないのだ。すべての説教を無視していたが、今朝方この戦場に駆り出される間際に新しいものが支給されたのだった。どうせまたすぐ壊れるだろうと思っていたが、無事だったらしい。大方帰還の合図か何かだろう、と珍しく通信を受けて眉を寄せた。
 通話になっているはずなのに声が聞こえない。ただ、か細い呼吸音が常人より優れた耳に届いた。少し経って、掠れた声が弱々しく紡ぎ始める。

『……A地点……北西……、キロほど…先……』

 見知った声だった。だが多分に違和感があった。
 何も通信を受けたことがないわけではない。それこそ、初めのうちは一団員としてそれなりに馴染もうともしていた。ただ馴染めるほど軽易な組織ではなく、早々に諦めただけで。
 通信は作戦の切り替えや帰還命令、状況報告など、業務連絡が主だ。それ以外でソルにかかってくるのはクリフから別系統の命令か、あともう一つ。

『……教、会……生存…者…あり……保護を…』

 この声の持ち主からだけだ。その声はソルが応じるより先に必ず言う。
 ――ソル!
 そう忌々しそうに呼ぶのだ、いつも。
 ――あなたはまた勝手に…! どこにいるんです!?
 それから小言が始まる。それが面倒になって通信に出るのが億劫になった。
 だがその幼気のまだ残る、しかし裏腹に怜悧に紡がれる声はソルの名前を呼ぶことはなかった。常に凜乎としていたそれは別人かと疑うほど弱々しく、その内容は指揮系統に告げるべきものだった。
 誰でもわかる。手酷い負傷を負ったのだろうということは。だが、どうして自分に連絡を取ってきたのか、その真意はまるで理解できなかった。
 ソルは持ったままだったヘッドギアをそのままに、戦塵と血と臓物にまみれた地面を強く蹴り出した。



 小さい集落があるのは知っていた。数日前のうちに住人の避難は完了しているはずだった。廃墟と化したそこは無数の化け物が通った跡がある。
 血のにおいがする。手にしたままだったヘッドギアを装着し、そのあとを辿れば容易く小さい教会にたどり着いた。人ならざる動きで駆けてきたために荒れていた息を整え、開け放たれたままの木造の扉の向こうへ足を踏み入れた。
 短い身廊の先、祭壇の前に仰向けで横たわる痩躯が見えた。破壊されていない原形を留めたままの聖堂は、血の痕跡さえなければ神聖なる祈りの場のままだ。模様の描かれたステンドグラスの向こうから降り注ぐ太陽の光が幾筋にもなって掲げられた十字架を煌めかせている。その下の血溜まりの中に少年が横たわっていた。ぴくりとも動かない姿に死んでいるのかと思った。その傍でアガットの髪をおろした少女がえんえん、と泣いている。その紅の髪と淡雪の肌が愛する女と重なったのは一瞬で、ソルは頭を振り、少年のもとへ足を踏み出した。

「おい」

 立ったまま見下ろした先で金の睫毛が震える。徐々に覗く蒼碧が虚ろから焦点を合わせ、驚いたように大きくなった。

「…そ、る……?」

 どうして、と音にならなずに小さい唇が動いた。

「どうしてって、テメェが連絡してきたんだろ」
「わたし、が……?」

 不思議そうに白い瞼が瞬いた。
 少年の傍らに血まみれのメダルが落ちている。この様子では意識が明瞭でないままに誰かに通信を繋いだだけなのだろう。偶然、ソルにかかってきたのは幸いだ。常人ならばここまでこんな短時間で辿り着けはしない。その強運ぶりだけは確かに、人類や聖騎士共が喚くようにいかにも天使らしい、と内心嘲る。

「しっかりしろ。生存者の保護を要請してきたのはお前だろ」

 ソルは軽口のように紡ぎ、裏腹に大量の血を流す腹部に眉を寄せて片膝をついた。治癒術を展開しようと患部に手をかざす。

「…生存者は…彼女だけです……はやく…安全なところへ……」

 ぴたり、とソルの手が止まった。その手は法力の淡い光を放つことなく、拳を握った。流れていく赤と大きい切創を見つめたまま、暫しの沈黙のあとで低声を絞り出す。

「……それで?」

 虚ろに天井を漂っていた蒼碧が不思議そうにソルを見た。

「生存者は一名、それでいいのか」
「はい」

 泰然として首肯が間も置かず返ってくる。
 刹那、名状し難い感情が腹の底で黒く蜷局を巻いた。

「テメェは」

 ソルはようやくここで少年の顔を見た。

「死ぬのか」

 頑是ない子どものように蒼碧が瞬き、

――…そうですね」

 事も無げに頷く。
 ソルは思わず、十字架を仰いだ。

「……へえ。本当に天使様だったか」
「え……?」

 少年の顔はどこまでも穏やかだった。大嫌いなソルを前にしているのに、見たこともないくらい安らかな顔だった。その頬は色を失い、血色のよかった唇も気味の悪い色になりつつある。死が近づいているからだ。はたから見ても一目瞭然なそれは、本人には痛いほどわかっているだろう。
 もうすぐ死ぬかもしれないとわかっていて、そんな穏やかな顔をする人間がいるものか。ましてや自分で死を選んだわけでもなく、少女の命を救うという咄嗟の判断の結果、死に至りそうだというのに。
 肉が見えるほどの傷への肉体的苦痛すら、感じていないような顔だ。もう痛みすらどうでもいいか。未練はないのか、この世界に。今の地位も名誉も、必ず成し遂げると誓った使命も、もうどうでもいいのか。その喪失に恐れはないのか。死の向こうにある無への恐怖は欠片もないのか。
 そして、人が死を恐れる最もたる所以である精神的苦痛は。それすらまったくないというのか。親しかった人、友人、愛する女、それらからの別離はこれっぽっちも辛くはないのか。
 ……ないのならば、お前は人間なんかじゃない。事実、天使様に他ならない。
 それとも、人類を救うと豪語しておいて心の奥底では逃げたかったのか。ようやく、この残虐極まりない世界から解放されると喜んでいるのか。
 見下ろした先の少年は先までと同じように穏やかな顔のままだった。薄っすらと笑みすら刷いているように見える。

「テメェのそういうところが気に食わねんだよ」

 吐き捨てた声は嫌悪が丸出しになっていた。 
 カイは何を言われたか理解できなかったような無心の顔で目を丸くした。一拍の沈黙がおりたあと、はは、と状況にまるで似つかわしくない笑声があがった。怪訝に片眉をあげたソルを見ることなく、カイは高い天井を見つめながら笑みを浮かべている。今まで見たこともない、従前からの友人にでも気安くかけるような、そんなあどけない笑みだった。

「この期におよん、で……あなたは…そんなこと、を……」

 やけに子どもじみた顔でまた、ふふ、と笑う。

「さいご、くらい……方便で、見送ってくれても…いいのに……」
「…………………」

 不可思議だった。嘘を嫌うお前がそんなことを言うのは。だが、それを気にかけるより先に〝さいご〟とう言葉に引っかかった。さいご。それが〝最後〟ではなく、〝最期〟という意味で紡がれたのだと、この状況を見れば誰でもわかる。
 瞬間、言いようのない寂寥とした諦念に支配された。ああ本当に、こいつはもうこれから訪れる死を受け入れているのだと。失望のような落胆のような、憤懣のような、苦味の滞留するよくわからないものが湧き上がってきて気持ち悪い。
 ソルはもうさっさとこの場を離れることにした。立ちあがり、涙で溶けてしまいそうな大きい瞳の少女の手を引く。少女は、頽れたまま穏やかに微笑む命の恩人と仏頂面の男を交互に見やり、困惑の表情で最後にソルを見つめた。その零れ落ちてしまいそうな大きな瞳がソルを責め立てているように思えて、強引に少女を抱きあげる。
 カイに背を向け、一歩踏み出したはずの足はどうしてか止まった。
 こんなこと、今まで何度もあった。人間の死など山ほど見てきた。救おうと伸ばした手を振り払った奴だっていた。もういい、もう辛い、と。それに呆気なく頷き、背を向けたことだってある。今やもう、身を呈してまで誰かを救おうだなんて思うことはなくなった。もしかしたら、かつてのクリフを助けたのが最後かもしれない。あれも単なる気まぐれだった。
 今も同じ。死ぬつもりなら放っとけばいい。
 ――最期くらい方便で見送ってくれても……
 それが望みなら言ってやってもいいと思った。一緒に戦えて光栄だった、本当はいけ好かない奴だなんて思ってない、安らかに。何だっていい。だが、浮かんだ台詞のどれもがあまりにも己らしかならぬものばかりで、思わず嗤いが込み上げた。
 ソルは振り返った。最後に間抜けな顔を拝むのも悪くないと思ったからだ。だから、欠片も思っていない見送りの言葉を口にするつもりだった。本当に。振り返る、その瞬間までは。

「……と……え…」

 己の口から出たとは思えない小さい声のその意味を、自分でも理解していなかった。
 振り返った刹那、目が合う。とっくに閉じて最期の瞬間を待っていると思われた瞼ははっきりと開き、その奥の蒼碧は真っ直ぐにソルを見ていた。 

――…生きたいと、言え」

 静かに、いっそ空気すら震わしていないかのように、ソルの低声が聖堂に落ちる。かち合った瞳は互いに瞬きすらしなかった。

「死にたくないと」

 言え。
 静寂が包む。カイは何も言わなかった。何の情も持っていない人形のように透明な顔で、ただソルを見ているだけだった。
 血のにおいすら感じなくなったと思うほどの暫くの静謐のあと、ソルはふっと自嘲のような嘲罵のような吐息を漏らした。
 嫌だと言えばいいと思った。形振り構わず、大嫌いな男に縋りつき、死にたくないのだとがむしゃらに喚けばいいと思った。無様に生に執着して、必死の形相で躍起になればいい、と。それでこそ人間なのだと。でも、少年がそんなことはしないということはわかっていた。

「……ま、どうでもいいことだな」

 見つめ合ったまま、ソルは朧気な生気のないような目で言った。

「お前の命だ。俺にゃ関係ねぇ。好きに使えよ」

 ソルはもう何も言わず、背を向けた。動いた足はもう止まろうなどとは思わなかった。
 短い身廊の最終地点に辿り着こうとしたときだ。あと一歩で扉に届く、そのとき。

――……、」

 何か、聞こえた気がした。
 人間の比ではないソルの聴力にすら、ほんの微かに届くだけの。
 弾かれたように振り返る。はたしてそこにカイはいた。しかし、仰臥していたはずの痩躯が両の腕で床を突っ張っている。カイは這いつくばるようにしてソルに向かって動いていた。

「………ぃ…」

 今度こそ、はっきり聞こえた。

「生きた、い……死にたく、な……ッ!」

 ぼろぼろと堰を切ったように蒼白い頬を雫が伝っている。形振り構わず涙を流し、地に這う虫のような無様な格好で、痛苦に呻きながら血の混じる汚い声で喚いている。生きたいと。……死にたくないと!
 わからない。わからないが、なぜだか無性に胸が熱くなった。



 ソルの手に浮かんでいた淡い光がすうっと消えていく。傷は塞いでも表面的なものでしかない。中への損傷がどれだけの影響を及ぼすか知れない。
 カイの顔を覗くと、瞼を閉じてはいたがか細い呼吸音が聞こえた。色を失った頬を撫で、眉を寄せる。できるだけ急いで救護班のもとへ向かったほうがいい。何より血が足りない。
 もう少し、と生気を分け与えるように手を患部に当てたとき、ぐらりとソルの身体が傾いた。額を押さえ、どうにか体勢を保つ。まずい。大量のギアの猛攻に暴れ尽くしたのと、そのあと細胞を沸き立たせて全力疾走でここまで来たことで余力が少ない。
 歯を噛み締め、何かを振り払うように頭を振るソルを、カイの手をぎゅっと握っている少女だけが心配そうに見つめていた。
 とにかく営所でも何でも救護班がいるところへ向かうしかない。ここで連絡して待つより、ソルが駆けたほうが遥かに早いことはわかっていたが、ここは少なくとも数日前までは機能していた集落だ。ここまでの適正なルートは聖騎士団も把握している。互いに動き、途中で落ち合うのが最善だと、ソルはカイのメダルでクリフへ繋いだ。カイが重症だと団に伝われば、隊は焦って向かってくるだろう。
 傷口が開かないようにカイを抱きあげようとした瞬間、ドクンッと一際大きく心臓が脈打った。まずい……!
 ソルは咄嗟にカイを下ろし、少女と共に背を庇った。瞬時に視線を巡らせたが、獲物になるようなものはない。次の瞬間、轟音と共に爆風が襲った。
 悲鳴をあげる少女を背に土埃の中で目を開ける。入り口も会衆席も瞬く間に廃材と化したそこには、化け物が立っていた。気配は一匹ではない。

「……最悪のタイミングだな」

 ソルは咄嗟に炎の壁を作り、少女とカイを祭壇の奥へやる。ちら、と覗いたカイの瞼は開かない。気を失っているなら好都合だ。ここを動くなと少女に告げ、すぐに片を付けるためにヘッドギアに手をかけて魔獣に向かって駆け出した。



「くそっ……」

 嫌な音を立てて頽れた化け物の血を浴びながら、ソルは片膝をついた。力を使い過ぎた。目が霞む。荒い呼吸を鎮めながらヘッドギアを装着する。ソルはふらりと立ちあがり、今にも崩れてしまいそうな教会から抜け出すためにカイと少女のもとへ戻った。
 ドクドク、と宿主に命を吹き込むように細胞が活性し始めたのが気持ち悪い。吐き気を呑み込み、カイを抱きあげようとその背に手を回したときだった。

「きゃああ……ッ!」

 気が逸れていた。少女の悲鳴のおかげで上からの気配を察知する。美しいステンドグラスが粉々に割れるような音を耳に捉えながら、ソルは少女を抱き込むようにしてカイに覆いかぶさった。

「ぐッ……!」

 刹那、脇腹が燃えるように熱くなった。そこを鋭利な爪が貫いていると覚る。自分の腹を貫いているそれを動かないように掴むと、背後の化け物が困惑したように一瞬怯んだのがわかった。今だ、と反撃をしようとしたとき、腕を突っ張った先にある顔を彩る蒼碧と目が合った。意識を取り戻したのか、はたまた元より失っていなかったのか知らないが、呆然と見開かれた瞳はソルの脇腹を見つめていた。ソルは不敵な笑みを薄く浮かべ、獣のような咆吼あげて最後の一匹を滅した。
 ふらりと傾いた身体が少女とカイの上に倒れそうなのを、床についた肘を咄嗟に支えて防ぐ。ぼたぼたと重力に従って落ちる大量の血液がカイと少女に降りかかるのが、何だか途轍もなく汚らわしいことに思えて吐き気がした。
 しかし、あと少しは動けない。この数秒でわずかばかり蓄えたなけなしの余力で、傷が不自然に塞がるのを見られないようにしなければならない。このまま密着するほどカイに覆い被されば患部は見えなくなるが、ソルの体重をかけられるほどカイは回復していない。ほんのわずかな隙間だけ開けてカイに身体を近づけると、驚くほど間近に少年の花顔があることに今さら気づく。目と鼻の先でかち合った視線は、カイの瞼が閉じたとこですぐに外れた。今度こそ、本当に気を失ったらしい。好都合だ。
 しかし、もうしばらく経たないとカイを運んでいくことは不可能だった。カイの横にごろんと身体を落としてから、欠けた天井を見てここは崩れそうだったのだと気づく。重い身体をのそりと起き上がらせ、ソルはまだ恐怖に震えている少女の血まみれの顔を節くれ立った指でぐいと拭い、「行くぞ」と声をかけた。
 神妙にこくりと頷く少女を視界の端に捉えながら、ソルはカイを抱きあげた。



 *



 意識だけが身体から切り離されて浮遊しているのかと思うほど、身体は思う通りに動かず、鉛のように重かった。どうにか動いてくれた瞼を薄らと開くと、そこにリブ・ヴォールトの美しい天井はなく、見慣れた天幕の天井が広がっていた。

「……ここ、は…」
「カイ様…ッ!」

 動けないまま仰臥していたカイの視界に見知った団員の顔が入ってくる。お気づきになられましたか、本当によかった、と何度も涙声で告げられて、ようやく自分が死地を彷徨ったのだと思い出した。思い出した途端、脳裏に赤が過ぎった。ハッとして起き上がろうと肘をついたのを慌てて止められる。

「動かないでください! まだ安静に――
「……る、は…」
「え?」
「ソルはッ!?」

 自分が助かったというならば、あの男のおかげでしかない。しかし、カイの記憶には鮮明に焼きついていた。彼の脇腹から鮮血が迸ったのを。カイも重症であったが、ソルも似たようなもののはず。もしや、と嫌な考えが浮かんだカイとは裏腹に、緊迫感の欠片もない声がかかった。

「ソル様、ですか……?」

 不思議そうな団員の顔をカイは訝しげに見上げた。

「ソル様ならお休みになられているかと。随分お疲れのようでしたので。ああ、少女も無事ですよ。怪我もありません。精神的負荷は大きいでしょうが、気もしっかりしてます。強い子ですね」

 カイの身体の様子を手際よく確認しながら事も無げに話す内容に違和感があった。それはカイの思考と食い違ってるからに他ならないが、どうしようもない不安を煽った。例えばソルが重体で、それを周囲がカイに隠している、とか。そんなことをする理由などないが、一度思ってしまうと疑念が拭い切れなかった。
 その見たこともないような子どもじみたカイの不安顔に触発されてか、団員が躊躇いがちに口を開く。

「ソル様をお呼びしましょうか?」

 間髪入れず、カイは頷いていた。



「死にかけたってーのに忙しねぇ奴だな。テメェは部下を休ませる気もねぇのか」

 気を急いていたカイにあまりにも緊張感のない呆れ声が降ってきた。弾かれたように仰向けのまま顔を向けて目を見開く。そこには普段と何ら変わらないソルの姿があった。
 猫のように、くぁあ、と大きい欠伸をし、がしがしと頭を掻いている。カイを治療してくれた団員が言った通り、ただ単に休んでいただけなのだろう。その姿を上から下までまじまじと眺め、カイは困惑した。
 ソルはすでに染み一つない新しい制服に身を包んでいた。ここがどの地点かすら把握していないが、恐らくは兵站部隊の数少ない物資の中に替えがあったのだろう。眠気に潤む鋭い双眸を乱雑に拭う姿にふらつきもなく、見た限り何の怪我も負っていない様子だった。まるで、あの出来事が夢幻かのように。

「何だよ」
「え…?」
「話があるから呼んだんじゃねぇのか? こっちはテメェのおかげで疲れてんだ。少しは寝かせろ」

 仏頂面に多大な不機嫌さを滲ませて睨まれる。カイはハッとしてうまく動かない喉を震わせた。

「……けが、は」
「あ?」
「私を庇ってあなたも酷い怪我を負ったはずです」
「怪我ァ? かすり傷だぜ?」
「………………」

 嘘だ、とカイはソルの表情に注視したが、そこに何一つ変調はなく、普段と何ら変わらない興味のなさでカイを見ているだけだった。
 あれは気が遠くなるほどの手酷い怪我を負っていたカイの明瞭でない意識が勝手に作り上げた夢だったのだろうか。
 カイはソルに向けていた顔を戻し、虚ろに天井を見つめた。

 ――…生きたいと、言え。
 ――死にたくないと。

 あのとき、なにか。何か重大なことに触れた気がした。
 カイにはソルのことを欠片も理解できない。真夏の太陽が見せる陽炎のようにゆらゆらと揺らめいて、いつだってその姿は捉えられなかった。蜃気楼のように、追いかけても追いかけても遠ざかっていく。水面に映る月のように、触れようと手を伸ばせば瞬く間に形を失う。
 なぜこうも、この男だけに自分の心が波立つのかも何もわからなかった。
 それでもあのとき、ソルに、初めてソルという男に、触れた気がした。あれもカイの記憶違いだったのだろうか。 
 ふっと意識が浮上した瞬間、迸った鮮血さえも。でも確かに、覆いかぶさってきた熱を覚えている。そして、真っ赤な血の雨が降り注いだ。それは温かった。なまぬるい、命の匂いがする、雨。それはまるで――

「死にかけて朦朧とした中で妙な幻でも見たかよ」

 ソルの低い声が少しの呆れを雑ぜて言う。カイはソルを見ることなく、ただぼんやりと空を見上げたまま動かなかった。
 幻。そうか、あれは幻だったのか。
 確かに、すべての記憶が明瞭にあるわけではない。なぜか気がついたらソルがいて、どうしてと問えばお前が呼んだという。カイにはソルに通信を入れた覚えなどなかった。それでも事実はそうなのだから、よく覚えてもいないままソルのメダルにかけたのはカイなのだろう。だから、意識が朦朧としていたのは確かだ。でも。
 覆いかぶさってくる体温。迸った鮮血。命の、雨。あれは。

「……そう、か。幻だったのか…」

 虚ろに彷徨う蒼碧は、眼裏でその幻を思い描いた。
 真っ赤な血の雨。なまぬるい、命の匂いがする、雨。そのなまぬるさに包まれる様は、まるで。
 ……まるで、抱擁に似ていた。
 あれは幻想か。都合よく思い描いた、どこまでも自分勝手で、我欲にまみれた。
 ああ、あれが現実じゃないなんて。

――残念だ」


 もう話もないだろうと天幕を去ろうとしていたソルは弾かれたように振り返った。予想だにしなかった言葉に瞠目した赤茶の双眸は、気を失ったように眠るカイを映しただけだった。聞き間違いだろうか。……いや。
 酷い怪我を負ったはずだと訝るそれを、朦朧とした意識の最中の幻だと思わせた。その応えがそれなら。

「……そりゃあ俺に死んでほしかったってことかよ」

 眠りに落ち、答えるはずもない子どもに、今度こそソルは背を向けた。

 

(続く)