「明日……いや、明後日までにはケリをつける。第七地区だな?」

 ソファで気怠そうに煙草をふかしながらパラダイムとチェスに興じるソルは、テーブルの上にコーヒーを置いたカイに礼を言うどころか視線すら寄こさず答えた。反対にパラダイムは「すまんな、連王」としっかり礼を告げてくれる。

「気が早いな。もう少し待っててくれれば場所の詳細までたどり着くのに」
「テメェで探したほうが早ぇ」
「どうだか」
「謝肉祭が始める前に出てぇんだよ」
「ああ、なるほど。せっかくなんだからお前も仮装でもして楽しめばいいのに。騎士なんてぴったりじゃないか? 白馬でも調達しようか」
「突っ込む気にもなれねぇ。とにかくクソうぜぇパレードが始まる前には終わらせる。報酬はきっちり払えよ」
「まったく……身も蓋もないな。シンだって楽しみたいかもしれないのに」

 と、カイが本人を見やる。珍しく一切口を挟まなかったシンがじっと自分を見ていることに気づいて首を傾げた。

「シン? 私の顔に何かついてるか?」
「目」
「へ?」

 穴があくんじゃないかというくらいの視線を崩さず答えたシンに間抜けな声が漏れる。これはどう返したらいいんだろう。

「阿呆だ阿呆だと思ってたが、さすがテメェのガキだな」
「どういう意味だ」
「言葉のまんまだ、坊や・・

 人ばかりか息子まで貶す男は相も変わらずこちらをちらりとも見ず、ゲームを続けている。
 カイは苛立ちのまま奥歯を噛み締め、人がわざわざ淹れてあげた珈琲にありがたみの一欠けらも持たず、カップを傾けている男を睨みつけた。

「知らないのか? 子の性格は育て方ひとつで変わるんだ。さぞかし育て親が酷かったんだろうな」

 ようやくヘッドギアの影にある赤茶がぎろりとカイを見た。常人ならば竦みあがるほどの睥睨を澄ました顔で見下ろす。

「そりゃあ、テメェの息子が〝酷い〟と自覚してるってーことだな」
「っ……」

 しまった。売り言葉に買い言葉だったが、完全にはめられた。
 ぐ、と押し黙ったカイに勝ち誇ったようにほくそ笑む顔が頭にくる。

「チェックメイトだ、フレデリック」
「あ?」

 弾かれたようにチェス盤を見たソルが忌々しそうに舌打ちした。
 顰められた顔に幾分か溜飲を下げたカイは、常ならばすぐに突っかかってくるはずの明るい声がないことに首を捻る。ソルの隣に腰かけた息子に見やれば、いまだにじーっとカイの顔を見上げていた。

「シン?」

 一体何なのだろう。ここまで見つめられると流石に居心地が悪い。
 自分が登場したはずのソルやカイの会話に一切混ざってこなかったのは、内容からして聞こえていなかったからに違いない。会話が耳からすり抜けるほど一体何に夢中になっているのか、まるでわからなかった。

「シン…? シーン?」

 呼びかけても無反応だ。

「思春期なんだろ」

 助けを求めてソルを見ると、第二戦に突入したチェスに集中したままで、やはりこちらに視線一つ寄こさないで的外れな返答を寄こした。
 カイはむっとしてソルを睨みつける。

「人の息子の異変を何でもかんでも思春期で片付けるな」

 ソルに過去子育て経験があるかないかなど知りもしないが、この調子では今までもシンのちょっとした異変を〝思春期〟で片付けてたのではないか。やはり、今一度教育方針をじっくり話し合わなければならない。
 溜め息を吐いたカイの顔にはいまだ視線が突き刺さったままだった。相変わらずの強い視線にシンの肩を叩こうと身を屈めるより先に、唐突にシンが立ち上がる。驚いてわずかに跳ねたカイの肩を、シンが両手でがしっと掴んだ。

「っ……」

 ぐっと顔が近づけられた。目と鼻の先に迫った息子の顔に息を呑む。額同士が触れ合うのではないかと思うくらいの近さに目を白黒させるばかりだ。
 さらに、くいっと顎を取られて上向かされて瞠目する。行動だけ見れば、まるで口づけの直前のような状態だった。
 近い。近すぎる。シンの一つの青の中に自分の顔が映っているのが見えた。

「と、止めんでいいのか、フレデリック。本当に思春期――
「っせぇよ。あいつら親子だろ。おらさっさとしろ、テメェの番だ」

 第二戦は白熱している。シンの行動にぎょっとするパラダイムと、依然チェス盤に視線をやったままのソルの会話はカイの耳には届いていなかった。

「やっぱり」

 ぽつり、とシンが零す。その吐息がかかってびくりと身を震わせたカイから呆気なくシンが離れていった。
 何だったんだ。やっぱりって何が。
 なぁ、とシンがソルとパラダイムを振り返る。

「目の色が変わるってことあんのか?」
「光の加減によっちゃあるだろ」

 連王のスキャンダルを見ずに済んだパラダイムは安堵の息を零し、ソルの短い返答を説明するように口を開いた。

「色を感じるのは人の脳だ。反射されたさまざまな波長の光が網膜の奥にある視細胞を刺激し、電気信号に変換され、視神経を通じて脳に伝わる。そこで初めて物体の形や色を認識する。つまり、物体、光、見る者の状況によって知覚する色は決まるということだ」

 カイに背を向けたシンは、答えたパラダイムを見下ろしてぽかんと首を傾げた。

「何語しゃべってるんだ?」
「………………」

 静寂が落ちる。
 三者の深い沈黙を育て親が破った。

「見ようによっては色は変わるっつーことだ」
「ふぅん? もっとこう物理的に変わったりしねぇ?」
「何が言いたい」
「あー…じゃあ目の真ん中の黒いところは変わるのか?」
「瞳孔は誰でも黒だろうが。変わるわけねぇだろ」
「大きさは?」
「色の話してたんじゃねぇのかよ」
「色は黒いとこの周りの話だぜ」
「…………………」

 噛み合わない会話にソルは返すのも忘れ、深い溜め息を吐いてシンの向こうのカイを仰ぎ見た。その赤茶に宿る憐憫にカイは頬を引き攣らせる。育てたのはお前だろう、と睨みつけると舌打ちが鳴った。

「瞳孔は光量で変化するんだよ。明るければ小さくなり、暗ければ大きくなる」

 面倒そうに簡潔に答えたソルにシンは相槌を打ったが、次の瞬間には首を捻っていた。

「それだけ?」
「あ?」
「明るさと関係なしに大きくなったりしねぇのか?」

 こつ、とパラダイムがチェスピースを動かす音がしてソルがテーブルに向き直る。代わりにといった感じでパラダイムがシンの問いに答えた。

「無意識的行動を規制する自律神経系が感情的能力と関係しているとも言われている。つまり、感情の変化によっては不随意的に瞳孔が膨張や縮小する可能性があるということだ」
「………うん?」
「暗いところで瞳孔が開くのはより多くの光を取り込むためだ。それで物をはっきり認識しようとする。即ち、明瞭に物を見ようとすると瞳孔は大きくなるわけだが、それが感情から繋がっているとすると興味や興奮、好意、緊張、性的欲求で瞳孔が開くという一説がある。まぁ、真正かどうかはわからんが」
「オヤジ、ヘルプ」
「明るさによってだけでなく、好きなもんを見て興奮や緊張をしても瞳孔は開くかもってーことだ」

 なるほどなー、とうんうん頷いているシンの背を見て、カイはどうにか無表情を保ちながら内心狼狽していた。
 まずい。正直にいって今、非常に危機的状況にある。シンはカイの目をじっと見ていたのだ。今の話の行きつく先などわかってる。自分の瞳の変化などわかろうはずもないが、当然シンはカイの眼が変化したように見えたからそんな疑問を抱いたのだろう。自分の瞳孔が大きくなったのか小さくなったのか知らないが、とんでもない結論が待っている予感がする。手遅れになる前にこの場から脱出したい。

「色は変わんないのか?」
「聞いたことねぇな」
「いや、そういう説もなくはない……興味や興奮や好意で瞳孔が開き、より多くの光を取り入れて色が明るくなるという主張を聞いたことがあるが、どうにも真偽はわからん」

 ソルは少し興味を抱いたのか、わずかに口角をあげた。

「へぇ。目を輝かせる、目の色を変えるってーのはあながち比喩でもねぇってわけか」
「正しければそういうことになるな」

 知らなかったな、とカイも内心関心していたが、はっとしてこの場からの脱出方法を思案する。
 不自然なく退出するには……と考えているとテーブルの上のカップが目に入った。パラダイムのほうはまだ入っているが、ソルのほうは空だ。これだと思い、カイは片付ける態でカップを手に取った。そのまま退出しようとしたカイの目論見はシンの言葉に粉々に打ち砕かれることになる。

「ふぅん。じゃあ、カイはオヤジを見ると興奮すんのか」

 ぱりんっ。ぶはっ。がしゃん。
 爆弾を落とした張本人以外が盛大な音を立て続けに放つ。
 カイが手に持ったカップは床に落ちて罅が入り、パラダイムは丁度含んだ珈琲を盛大に噴き出し、ルークを手にしたソルの一手はチェスボードをぐちゃぐちゃにした。

「前から不思議だったんだよなー。場所が違えば明るさも違うし、ずっと気のせいかと思ってたけど、さっき観察してたらやっぱ変わんだよ、カイの眼。いつ変わんのか今見ててやっとわかったぜ。――オヤジだ。オヤジを見ると、黒いとこが大きくなって青が明るくなんだよ」

 シン以外、もう誰も言葉を発せる状態ではなかった。

「つーことは、だ」

 びしっと人差し指を突き出し、シンは得意顔でメガデス級の爆弾を放った。

「カイはオヤジに興味か興奮か好意か、あと何だっけ? 緊張? と、せいてき――んぐっ!」
「……シン。もう勘弁してください……」

 背後から手を伸ばしてシンの口を塞いだカイは、発火してしまいそうな熱い身体からどうにか声を振り絞った。




「弁明があるなら聞くが」

 しん、とおりた沈黙を破ったのはソルだった。
 ぐちゃぐちゃになったチェスボードの上を緩慢な手先でもとに戻しながら零れた声は、情念を無理矢理押さえ込んだかのように歪な抑揚で発された。
 パラダイムがぎこちなくシンを連れ出したおかげで二人きりになったリビングルームはやけに広く感じる。カイは俯いていた顔をあげ、ダイニングテーブルの縁にとん、と腰を当てた。深呼吸をし、どうにか狂いそうな鼓動を押さえ込んで低声を発した。

「……欲しいと」
「あ?」
「欲しいと言ったのはお前だろう」

 ぴた、とキングを持っていたソルの指先が時が止まったかのように動きをなくす。横向いた先に佇むカイは、真っ直ぐにソルを見つめていた。狼狽えなど欠片もない、真摯で一点の濁りもない澄んだ青がソルを映している。青い、眼が。

 ――欲しい。
 ――その青い眼が、欲しい。

 いいですよ、とかつて少年は答えた。

「……死んだら、と言ってなかったか」

 チェスピースを放り投げ、腰をあげてカイを見据えると、わずかに眉尻が下がった。しかし、花顔に乗る薄桃の唇は微かに弧を描いている。随分と大人びたものだと、記憶の中の子どもとの違いが表情ひとつで明瞭に浮かび上がった。
 わからないことが増えた。坊や、と嘲弄混じりに呼んでいた頃は手に取るようにわかっていたのに。馬鹿正直で融通が利かなく、ソルの前ではいやに直情的だった。しかし、もうその表情の意味の真意すら読めない。
 ソファの前で立ちあがったソルと、ダイニングテーブルを背にしているカイの間には距離がある。それでも重なった視線は少しも外れることはなかった。瞬きもしない青い眼がソルを貫いている。

「抉り取らなければ満足がいかないか? でもドクターも言っていただろう、これは不随意的な動作だ。お前がいらないというのなら、私はお前をこの目に映すこともできないな」 

 ほんの少し含み笑いの交じった声で言って、カイはゆっくり瞼を下ろした。長い金の睫毛が震えて青が完全に見えなくなるのをソルはぞっとしない心地で見つめていた。
 その目に映るのが嫌だった。嫌だった、はずなのに。いつの間にこんなにも甘ったれになってしまったのだろう。お前が俺をその目に映さなければ、俺はまたバケモノに逆戻りだと、お前は知っているのか。あの胸くそ悪い未練を無くしてしまうのだと知っているのか。知っていて、こんな意地の悪いことをするのか。
 ソルは歯噛みし、わざと大袈裟な足音を立ててカイに近づいた。音も気配も感じていないはずはないのに、カイはぴくりとも動かず、瞼を震わすこともない。

「……見ろ」

 ソルは憎しみにも似た激情のまま細い顎を乱暴に掴み、上向かせた。

「俺を見ろ……!」

 ゆっくりと開かれた真っ白い瞼の先で青が覗く。徐々に焦点が合わさり、ソルをはっきりと認識した瞬間、青が鮮やかになり、中心の黒が大きくなった。
 アア、と気を緩めていたら無様に呻くところだった。
 親指の腹で目もとをなぞる。急所のすぐ下を捉えられているというのに、カイは瞬き一つしなかった。
 これは、この鮮やかな青は、膨張する黒は、この青い眼は、俺の、俺だけのものなのか。
 ふいに、過去の場景が脳裏を掠めた。その眼の変化を見たことがあることに唐突に思い至る。過去、たった一度だけ、この男を腕に抱いたことがあった。馬鹿みたいに晴れた空と血と死のにおい。流れ続ける赤。呼吸を細くしていく腕の中のあのときの子どもの青と同じだった。
 思わぬ事実に愕然と見開いたソルのレディッシュブラウンに映るカイの顔が切なく歪む。

「……ソル」

 聞いてはならないと思うような、重苦しい情念の篭った声だった。
 カイ、と。無意識に漏らした吐息のような応えが空気を震わせたとき、何かが弾けるように互いの腕が身体に絡みついた。
 唇が重なる。止まることを知らない心臓がひとつ大きな脈を打つのを聞いた。
 ソルは、この身体になって初めて人間の鼓動を感じた気がした。



 まぶたの薔薇はいまも




 隣で横になる鼓動が深く一定のリズムを刻むのを聞き、カイはゆるりと瞼を上げた。まだ腹の中にソルがいるような感覚が抜けきらない怠い身体を音を立てずに起こし、安らかに寝息を立てている男を見下ろす。
 宵闇に浮かぶ真っ白い指先が男の精悍な目もとに触れようとして、やめた。

「……私もお前を見ていると吐き気がする」

 自分がいかに醜く、罪深い生き物であるか、自覚するから。

 ――だって、私はお前の瞳が紅い・・ことが嬉しいのだから。

 ああ、本当に私はなんて残酷なのだろう。この男の今まで抱いてきた惨痛が、愛おしくて仕方ない。その苦しみが大切で、その厳酷な歳月が大事で。愛しくて愛しくて堪らない。
 このあまりに残酷で醜い心はとても人間が抱くものとは思えない。それでもこの感情を止めることは出来なかった。私はお前の不幸を悦んでいる。
 気管を圧迫するような苦しさに瞳を揺らすと、青くない・・・・眼から雫が一滴男の頬に落ちた。
 焼けつくような惨たらしい罪悪を湛える心を隠すように瞼を閉じると、その眼裏には会ったことも見たこともない、この時代を生きるはずのなかった男の嘆く姿が過ぎった気がした。



 End. (title by : afaik 様)
 2018.3.3