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とん、とん、とん……
数週間前と似たような光景の中、カイは懸命に声を漏らさぬよう手もとだけを見つめていた。ソファに座る男はこの間と違い、英字新聞を広げてくつろいでいる。テーブルには酒瓶、そのすぐ傍で節くれ立った指先が音を鳴らしていた。
カイは勉学に励むことを苦に思ったことはない。少しの時間があれば、可変長符号化された文字コードも頭に入る。
頭に叩き込んだ文字コードと照らし合わせた文字を手もとの資料の隅に走り書きする。その歪な文字を見やって、カイは唇を噛み締めた。
何ヵ国語もの文字コードを習得した自身を馬鹿だと思っていた。仕事の合間を縫って何をそんなに死に物狂いで、と。あまりにも馬鹿げている。それでも気がついたら必死に頭に叩き込んでいた。
それが功を奏したといえばそうなのだが、先から打鍵されるそれが見知った言語だということに眩暈がする。
とん、とん、とん……
あなたが光に満ちた手の上に
心頽れた額を伏せているとき
私の愛があなたの祈りの中に
満たされた願いのように届きますように
Le jardin clos――『閉ざされた庭』の一曲目『Exaucement』。フォーレの歌曲だ。その優しく包み込むような旋律を知っている。その上で流れるフランス語も。
男にはあまりに不似合いだ。ロマン派音楽など聴きそうにもない。それでも確かに彼の指先がかき鳴らす音の意味は、美しい詩から引用されている。
もしかしたら、とカイは泣きそうな蒼碧を揺らした。
カイは知らない。男が一体どんな環境で生き、何に感動し、何に笑い、何を愛したか。もしかたら、彼は自分が見知っているよりよっぽど普通の人間なのではないか。
当たり前のように花を愛で、当たり前のように鳥を愛で、そして、不器用ながらに人に愛を語る、そんな男だったのではないか。この世界で生きる大多数の人間と同じように。
彼に関わった多くの人は、彼が皆が寄って立つための誰よりも強い生き物であることを求め続けはしなかったか。
カイもそうだった。彼に強く在ることを求めたのだ。幾度も、幾度も。まだカイが少年だった頃、怪我など知りもしないとでもいうかのように帰還する姿に希望を見いだした。戦争の終結が現実味を帯びた。何か重大な事件が起きるたび、その姿を探しはしなかったか。人類の味方であると確信したくて、求めはしなかったか。
相変わらず、男は仏頂面だ。至極つまらなそうに新聞に視線を滑らせている。そりゃそうだろう。以前と同じように待たされていい気はしないはずだ。とっくに片付けるべき仕事など終えている。それでもカイは席を立つことも口を開くこともできないでいた。浅ましくも知りたいのだ。彼が紡ぐ決して口にすることはない甘い囁きを。
とん、とん、とん……
また、鳴った。
一体これまで何度取りこぼしたのだろう。彼から与えられる声にならない言の葉を。きっとカイが知らないうちにその秘密はひそやかに紡がれていたに違いない。この間はドイツ語だった。今日はフランス語。彼の母国語でも謳ってくれただろうか。いつの日か、彼の好むロックでも奏でてくれただろうか。公用語ではどうだろう。
骨ばった武骨な指先が打鍵する。
あなたの魂がその優しい意志のうちに
喜びと安らぎを見出せますように
途中が抜けているぞ、と内心揶揄い、けれど耐えきれず、カイはくしゃりと顔を歪ませた。
この曲の詩を理解するのは難しい。ある者は秘めた恋を歌っているといい、ある者は宗教性を見出す。でもこれはきっと。
ふいに男の長い睫毛が伏せられた。ぴたり、と止まった指先を折り畳み、拳を握った男がその手で酒瓶を掴む。それに口をつける間際の彼の表情を、カイは生涯忘れはしないだろう。
あまりにも優しく、柔らかく弧を描いた唇。睫毛を震わせ、細まった美しい瞳は愛おしさに満ちていた。
たった一瞬だったその表情に目を奪われていたカイの耳に信号が届く。
――カイ。
本当にただ無意識に手遊びをしたかのような動きだった。ただテーブルが鳴っただけなのに、カイの耳には確かに聞こえた。男の低く精悍な声が己の名を呼ぶのを。
ああ、あの詩はきっとあたたかく優しい愛をうたっていたのだ。何かを求めるわけではなく、ただただ愛する魂を想う切なくも優しい愛を。
ゴトッ、と鈍い音が鳴る。酒瓶が乱暴にテーブルに置かれた音だった。
「おい、まだ終わら――」
ねぇのか。そう続くはずだったソルの言葉は不自然に途切れた。先までの表情が嘘のように面倒そうな仏頂面を晒した男は、数十分ぶりに首を巡らせて見た王の顔にぎょっとした。
カイの双眸からは音もなく静かに涙が零れていた。まるでそうあることが当たり前かのように、白い頬を上から下へと流れ続けている。
固まった空気の中、カイはおもむろに立ちあがった。
気づいたと知られたら、きっともう二度とその甘い囁きを捉えることはできない。それでも。
カイはようやく気づいた。愛されたかったんじゃない。愛したかったのだ。この誰よりも惨い道のりを孤独に歩いてきた男がほんの少しでも安らぎを得られるように。そして、強くならなければ生きてこれなかった彼の、その表には決して出すことのない哀しいまでの優しい想いに応えたかった。それは叶えられる望みなのだと。
緩慢な足取りでようやくたどり着いた男の前でなお、カイは涙を流し続けていた。仕方がない。一向に止められそうにないのだから。
いつも見上げている顔が下にあるのは不思議な気分だった。カイは少し腰を屈め、火に焼けた頬に手を伸ばした。男は弾くことも叩くこともせず、ぴくりとも動かなかった。
深く落ちていた沈黙を破る。
詩人の恋のように哀しい結末を迎えさせないために。
「私の薔薇、」
レディッシュブラウンの瞳が大きく見開かれた。
「私の百合、」
人差し指の背で零れ落ちそうな瞳の下を撫でる。
「私の鳩、」
頬を包み込んだ手で顎を捉え、上向かせる。
「そして――」
震える唇をそっと押しつけた。ほんの一瞬だけ重なった熱に痛いほど心臓が跳ねる。
「私の太陽」
吐息の触れる距離で囁いた甘い告白は、ソルの熱い唇へ呑み込まれた。
強引に頭を引き寄せてきた腕とは裏腹に、あまりにも柔らかく重なった唇に涙が加速する。
ああ、この男はこういうふうにキスをするのだと、想像とはまるで違う優しい口づけが堪らなく愛おしかった。
泣くな、と小さく落とされた声が聞いたことなどないほど優しくて、気管を圧迫されるような苦しさの中、カイは余計に雫を溢れさせた。
困ったように眉尻を下げるのが堪らなくて、太い首に腕を回して抱きつく。幼子のようなその仕草に文句ひとつ言わず、ソルは逞しい腕でカイの身体をすくい上げた。膝に乗り上げるような体勢になると、ソルが首を伸ばして目もとに唇を落とす。涙を拭うように柔らかく滑る唇に瞼を閉じて、カイはぎゅっとソルの頭を抱えた。
知らないと、思った。
こんな男は知らない。こんなふうに柔らかく熱を伝える男を。知らないことばかりであると思い知らされて嘆くが、そんな姿を見せてくれたのが嬉しくて堪らなかった。それなのに、どうしてこんなにも切ないのだろう。
心臓が焼き切れそうだ。胸に少しの隙間もないのだと思うような苦しさの中、それでもカイは浅ましく欲していた。その優しい唇をもっと強く強引に奪ってしまおうか、と思ったところで己の卑しさに辟易する。
「……私ばかりだな」
「あ?」
眦から唇を離したソルが長い睫毛を瞬かせる。
「私ばかり、卑しく求めてる」
ソルの男らしい薄い唇を撫でて、カイは微苦笑した。
だって仕方ない。カイに都合のいい想像の中では、彼はもっと荒々しく唇を奪う男だったのだ。現実に戻ればただ虚しくなるだけの哀れな夢想を一体何度繰り返しただろう。夢の中の男は決して、あんな柔らかい表情などしなかった。あんな優しい口づけなどしなかった。
「馬鹿かよ」
熱い吐息がかかる。こんなにも近くにいると認識しただけで、心臓が痛いくらい大きく跳ねた。
「我慢してるに決まってんだろ」
アイロニカルに唇を歪ませて言ったソルに目を丸くする。その酷薄げな笑みと、呆れたような温度の低い眸がよく見知ったソルそのもので、名状し難い安堵と共に残酷にも歓喜した。
気づいてしまったのだ。もし彼があの柔らかい表情や優しい口づけや、ロマンチックな愛の囁きしか知らないままだったのなら、私は彼と出逢うことはなかったのだと。
その事実はあまりにも惨たらしく、けれど何よりも尊かった。見下げ果てた歓びを感じる私を許してくれとは言わない。でもどうか、お前と出逢えたことを幸福と思うことだけは許してほしい。
耐え難い責め苦にでも晒されているかのように泣きそうに歪んだカイの頭を、ソルがぐっと強引に引き寄せる。これから口づけをしようとしているとは思えないほど口を開いたソルが、がぶっと獣のようにカイの唇を塞いだ。
互いの唇を挟みあい、めちゃくちゃに舌を絡めて唾液を飲み干し、何度も角度を変える。飽くことなく唇を重ねていると、そんなはずはないのにその存在すべてを理解したかのような心地になった。まるで、まったく同じ生き物になったみたいに。
荒々しい口づけの中、滅茶苦茶に掻き抱かれて、その熱に身を投げ出す。カイは瞼を閉じ、誰にともなく祈った。
惨痛にまみれ懸命に生きてきたその高潔な魂が、優しい意志のうちに喜びと安らぎを見出せるよう。そして叶うのなら、私の愛があなたの祈りに力を与えますように、と。
End.
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『Dichterliebe(詩人の恋)』
第三曲「Der Rose, die Lilie, die Taube, die Sonne(ばらに百合に鳩に太陽)」
ハインリヒ・ハイネ 詩, ロベルト・シューマン 曲
『Le jardin clos(閉ざされた庭)』
第一曲「Exaucement(かなえられる願い )」
ヴァン・レルベルグ 詩, ガブリエル・フォーレ 曲
2018.7.4