とん、とん、とん、とん……

 不規則に聞こえる音に、カイは書類に落としていた顔をあげた。眼鏡の位置を調整したところで、見える光景は数分前と何ら変わっていない。
 顔をあげた先には、いかにもつまらなそうな顔で文庫本を片手に読む男がいる。屈強な身体を柔らかいソファに沈め、若干前のめりな姿勢で左手に持った本に視線を滑らせている。
 あ、とカイは内心声をあげた。空いている右手の指先が動いた。とん、とん。テーブルの隅を節くれ立った指先が叩く。これで四度目だった。
 一度目は仕事に集中していた意識に割って入ってきた小さな音に気が散ったことで気づいた。注意するより先に指先が動かなくなり、しかし、しばらく経ってからまた小さな音が届く。気が散る、と注意しようとしたが、彼を退屈させているのは他でもない自分なのだと気づき、口を噤んだ。
 情報のやり取りの為に彼を呼んだのはこちらのほうだし、この仕事だけ先に片付けさせてくれと願い出たのもこっちだ。男は面倒そうな顔をしたが、おとなしくソファに腰を沈めて文句を口にすることはなかった。
 短い音を奏でる指先の持ち主は、いっそその本は読まなければいいのにと言いたくなるほど退屈そうな顔をしている。手持ち無沙汰なのか、単なる手慰みなのか、はたまた苛立ちなのか、武骨な指先がテーブルの隅を叩く。
 三度目のときだった。あれ、と少しの引っかかりがあった。
 そして、先ほどの四度目でほとんど確信に変わる。その小さな音はすべて同じリズムでテーブルの隅を鳴らしていた。それだけなら、彼の頭の中で何かしらのメロディーが流れていてリズムを取っていただけだと気にもしなかっただろう。けれど、そのテーブルを叩く音と長短が繰り返されたリズムをいつの日か聞いたことがある気がして、カイは首を捻った。思い出そうにも、材料が少なすぎてわからない。小さく溜め息を吐き、カイは手もとの書類にサインをした。

「ソル」

 ぴた。あがっていた人差し指がテーブルを叩く前に止まった。本を閉じたソルが顔をあげる。カイの視線がひとえに右手の指先に注がれているのに気づいたソルがハッとしたようにさっと右手を引いたのを怪訝な面持ちで見つめた。

「終わったのか?」

 思い出せない何かを必死に手繰り寄せようとしていた所為で反応が遅れる。

「おい」
「あ、ああ」

 弾かれたようにソルの顔を見れば、いつもと変わらない仏頂面があった。
 カイが何か言うより先に、早くそっちの情報を寄こせとソルが話を進める。カイが何か――手遊びしていた指先のこととか――を問うより先に強引に用件に進んだ気もしなくもない。そうされると余計に気になってしまって、あまり話に集中できなかった。


 ギルドにあったなけなしの情報では事足りず、ソル自身とカイの部下たちが調べた情報を共有した結果、その組織は危惧した通り麻薬カルテルだと判明した。

「この国に根を下ろされては困る。今のうちに潰しておかないと」
「いや、たぶん新組織じゃねェ」
「え?」
「前にテメェがこてんぱんにやられた麻薬組織の系統だ。潰し切れてなかったみてぇだな」
「は……?」

 こてんぱんにやられた、の皮肉げな言い方に悪意を感じて頭に血が上る。しかし、文句を放とうとした口をはたと止めて、カイは蘇った記憶に蒼碧を微かに揺らした。

「……お前が助けてくれたときのか」
「何の話だ」 

 ソルはいかにも嫌そうな顔をした。
 そんなに嫌なら、あの時もわざわざ優しさを発揮しなくてもよかったのに。カイは筋違いにも内心でソルを責めて、ふっと口もとを緩めた。
 あれがただの気まぐれだろうと、どんなに彼が認めなかろうと、助けられたのは事実だ。あのときソルが助けてくれなければ、カイはここにはいなかったかもしれない。


 あれはまだカイが警察機構の長官を務めていたときだった。肥大する麻薬組織の根城を突き止めたはいいが、歴史があるらしいその組織のほうが上手だった。警官はことごとく罠に嵌り、カイも部下を庇った拍子に怪我を負った。目が霞み、耳鳴りがし、身体を支える筋力さえ衰えていくのを感じた。薬が塗られていたと気づいたときにはもうほとんど身体は動かなかった。精神力だけで立っていた身体が頽れた瞬間、遠のく意識の先で炎の気配を確かに感じていた。
 次に目を覚ましたときは病院だった。付き添ってくれていた同僚に伝えられた事の次第はまったく不可解で、第二部隊が駆けつけたときにアジトにいたのは倒れた仲間たちと麻薬組織の構成員の死体だったという。カイ様には治癒術が施されていました、と聞いたとき、思い出したのだ。
 病院で目覚める前、一度短く意識を浮上させたのだと。
 ピッピッと規則的に鳴る機械音。病院特有の消毒液のような匂い。これっぽっちも動かない身体は目を開けることは叶わなかった。それでも傍にある見知った気配を確かに感じた。
 とん、とん、とん……。テーブルかベッドの手すりか、何かを叩くようなリズムが聞こえた。まるで可愛らしい小鳥が木でもつついているかのように、柔らかく鳴る音が。


――! あっ……」

 カイが驚いたように発した短い音にソルが片眉をあげる。

「なんだよ」
「い、いや」

 何でもないと首を振り、別にずれてもいないのに眼鏡を押し上げた。
 思い出した。あのときのリズムだ。そうだ。カイの記憶が確かならば、同じだった。ほとんど沈んだ意識の中で聞いた音と、先まで数度鳴っていた音は。
 だからといって何なんだ、という話だけれど。
 思い出したことで上昇した気分は、すぐに右肩上がりに落ちていった。
 いや、聞けばいいことなのだ。
 カイはぼんやりと骨ばったソルの指先を見つめた。その指先の動きには何か意味があるのか、と。しかし、あの日のことをソルが認めたことはなく、今さらそんな何年も前のことをソルが覚えているとは思えなかった。


 第三者の介入により、麻薬組織は潰えた。その第三者が彼であると確信していた。なぜなら、間違えるはずもない気配と、それから何より、ソルはあの病院にいたからだ。
 もちろん色々と訊ねたが、俺も追っていたがテメェらに先を越されたと愚痴が返ってきただけだった。酷い怪我をしたんだってな、坊や。揶揄まじりに続く。何で病院にいるのかと聞けば、テメェの部下に委細を聞きにきたという。お前らの所為で賞金になる首が手に入らなかったから、組織に漏れがないか確かめに来たと事も無げに答えた。警察が余所者に情報を漏らすものかと突っかかれば、それなりに脅したに決まってんだろと返ってくる。カイはむっとしてそれ以上何も言わなかった。
 ――カイ様には治癒術が施されていました。
 そういった同僚の言葉に何ひとつ期待をしなかったかといえば嘘になる。
 彼にとっては単なる気まぐれだったのかもしれない。じゃなければ、昔のよしみでも発揮したのか。
 久方ぶりに会った男は、何も変わっていなかった。カイが会えない間に積もらせた想いなど知りもしないで、いかにも面倒そうな顔で、カイなどまるで眼中にないかのようにそっけない態度で去っていった。
 ありがとう、と伝えるつもりだった。気まずいし、そんなことを言うのは大変憚ることだが、でも助けてくれたことへの感謝をきちんと告げて、巴里にいる間の宿くらい提供してやるとそんな体で家に誘おうと思っていた。
 しかし、去っていく大きい背を見ながら、いくら無償の宿だとしても彼がカイの家に来るなんてことはあるはずもないか、と自嘲したものだ。
 その日、何度目か知れない心をカイは封じ込めた。報われることはないと知っていて、何度も蘇る忌まわしい恋慕を。


 あの頃は、まさかソルとこうして向かい合うときが来ようなどとは思っていなかった。不満そうにしながらも文句は言わず、カイの仕事が片づくまで同じ部屋にいるなんて、改めて考えると不思議なものだ。

「あとはこっちでやるから手ェ出すなよ」

 話は終わりだと、ソルが立ちあがる。賞金首を狩りにいくのだろう。
 慌てて、お茶でも、と言おうとした口から音が鳴ることはなかった。
 シンが待ってる。一言告げて、ソルはさっさと出ていってしまった。パタン、と虚しく閉じた扉を見つめながら、カイは切なく自嘲した。
 お茶でも、って何だ。昔より随分と近づいた距離だったが、そんなことを言う仲ではなかった、決して。
 カイの視線は無意識に、無人のソファを彷徨った。

「……もうすこし、」

 男の残像を求めるように気がついたら席を立っていた。
 ソファに腰かける。まだ残留している体温を乞うように深く腰を沈めて、カイはソルと同じように指先で打鍵していみた。とん、とん、とん……。
 同じ行動を取ったところで、少しも彼に近づくことなどないと知っていながら。

 もう少し、いてくれてもいいのに。

 口に出すにはあまりにも虚しく、結局最後まで音になることはなかった。



 *



『……カイ』

 突然、低く呼ばれたことにカイは目を丸くした。
 会合までの日程が決まったとの連絡がレオからあったのはつい先程のことだ。それから一つ二つ、緊急を要するわけではない仕事の話をぽつりぽつりと交わしていた、その最中だ。不自然な間を置いて低い声が呼ぶ。

「レオ?」
『何かあったのか?』
「え?」
『いや……その、変わりないか』

 歯切れの悪い様子はレオには不釣り合いだった。

「別に何もないが……レオこそ、どうかしたのか?」

 不安になり、そう返すが「……いや」とまたしても微妙な返しがあるだけだった。

「レオ?」
『本当に何もないんだな?』
「? ああ」
『……勘違いか。ならいい』
「ちょっと…! わかるように言ってくれ」
『暗号かと思ったんだ。早とちりだったようだがな』
「は…? どういうことだ」
『お前、何か机たたいてないか?』

 カイはそこでようやく自身の指先が動いていたことに気づいた。生白い己の指先はテーブルの隅を叩いていた。無意識だ。弾かれたようにぴたりと手を止め、ひとり恥じ入る。顔が見えていないことが幸いだ。頬っぺたが燃えるように熱かった。
 無意識だったことが余計羞恥を煽り、平常心が揺らいだが、少し冷静な頭が戻ってくるとレオの言葉に疑問が湧く。

「これ、何か意味があるのか?」
『は?』
「暗号とか言ってたけど」
『お前がやってたんだろうが』
「いや、ソ――

 ソルがやってた、と言うには、あの日の虚しさが蘇って口に出せなかった。

「……知り合いがこういうことをしているのを何度か聞いて耳についてしまったみたいだ。とにかく、意味があるなら教えてくれ」
『何だ、おまえ知らないのか』

 途端にニヤついた声にむっとする。ここぞとばかりに馬鹿にされている気がするが、それでも知りたい気持ちが勝って文句を言うのはとどまった。

『色信号の前身みたいなものだ。昔の電信システムの応用で、短点と長点の組み合わせで符号化された文字コードだな』
「君は意味がわかるのか?」
『無線による通信手段の原型のようなもんだからな。知っていたところで今じゃ無意味だぞ』
「……わからないんだな」
『わからないとは言ってないだろう! コード表があればわかる。ちょっと待ってろ』
「何でそんなもの持ってるんだ」
『こういうのにハマる年頃があるだろ』

 そうだろうか、とカイが全く共感できないでいる間に『やってみろ』と催促される。その対応の早さに、通信を始めてすぐにコード表とやらを用意していたのかもしれない。カイが無意識に指先を動かしていたときから。
 何か火急の事件かと焦らせてしまったらしいことに、今さら申し訳なく思った。これはただの未練がましい男の虚しい手すさびでしかない。覚えてしまったリズムを無意識に繰り返していただけだ。恥ずかしいことに。

『おい?』

 呼びかけられ、ハッとして指先を動かした。よく聞こえるように強めにテーブルを叩く。
 しばらく無言の通信が続いた。

『あ? あー……は?』

 終えると、言葉になっていない奇妙な声が発される。
 ものすごい不審げな声でもう一回と言われ、繰り返してみせた。
 共用語じゃないのか、とか聞こえたが何がなんだかわからないので、おとなしく黙っておく。

『……おまえ、どこぞの貴族に見初められでもしたのか。会談後の懇親会だろうが式典だろうが、誰彼構わず愛想振り撒く必要はないだろ』
「……はぁ?」
『えらくロマンチックだな。ハイネだぞ、こりゃあ。ドイツ語だ』
「わかるように説明してくれないか」
『Dichterliebe――詩人の恋、だったか』
「え?」
『その三曲目だ、これは』

 押し寄せてくる理解不能の情報にカイは目を白黒させるばかりだった。
 ハイネ。確か、十八世紀かそこらの昔の詩人の名前だったような。

『Der Rose, die Lilie, die Taube, die Sonne――薔薇に百合に鳩に太陽』

 少しの間、聞き慣れない言語が続いた。それからレオの低い声が見知った言語で内容を伝えてくる。

  薔薇や百合、鳩、そして太陽
  かつて私はすべてこの上なく好きだった
  でも今はもはや好きではない 私が好きなのはただ一つ
  その人こそ この上ない愛の幸福
  私の薔薇、私の百合、私の鳩、そして私の太陽

 痛いほどの沈黙が支配した。長い時間をかけて、ようやく脳に理解が追いつき、カイは顔を真っ赤にした。

「なッ……!」
『小っ恥ずかしいもん朗読させやがって』

 恥ずかしかったのか、ぶっきらぼうな声でレオの小言が続いたが、カイはそれどころではなかった。
 言葉を失い、ぱくぱくと金魚のように口を開閉し、結局いろいろと容量オーバーを起こして机に突っ伏した。
 だって。薔薇も百合も鳩も。覚えがあるのだ。
 期待に逸る鼓動が速足すぎて呼吸が荒くなる。

『おい? 聞いてるのか? カイ――

 今声を出したら、酷い有り様になる。カイは唇を噛み締め、潤む瞳に隠しきれない熱を宿した。



 * * *



 ピッピッと規則的に鳴る機械音。病院特有の消毒液のような匂い。動かない身体。開かない目。ぼんやり霞んだ意識の中、それでも傍にある気配を捉えた。知っている。この炎の気配を。
 とん、とん、とん。テーブルかベッドの手すりか、何かを叩くようなリズムが聞こえる。まるで可愛らしい小鳥が木でもつついているかのように、柔らかく鳴る音が。
 それが子守歌かのように意識が微睡んでいく。その最中、花の匂いがした気がした。



 同僚に伝えられた事の有り様に唸る。こんな怪我を負って情けないことだと病院のベッドの自省しつつ今後の方針を見当しているとき、花の匂いがしたのを唐突に思い出した。 
 ハッとして同僚の横にあるサイドテーブルを見る。そこに置かれた花瓶には薔薇と百合がささっていた。

「これは?」
「病院のものではないですか?」

 小首を傾げた同僚が何を不思議に思うこともなくそう答えた。
 しかし、それはどうだろうとカイは不審に思った。訝しいのは、あまりに無雑作であるということだ。そもそも、どちらも単品でとても華やかな種類の花だ。それが数本、特に合わせを考えたわけでもないとでもいうかのように、細身の花瓶にささっていた。茎の長さもまちまちで、花瓶には隙間も空いている。病室にささやかな華やかさでもと思うのなら、もうちょっとちゃんとするだろうし、花屋にでも頼むだろう。
 不可思議なカイの表情を読み取ったのか、同僚が微苦笑した。

「部下がさしたかもしれませんね。もうすでに病院のほうにも菓子やら花やら届いているみたいですし」

 さすがカイ様ですね、と続いた言葉に曖昧に微笑って、カイは一つのありえない可能性に頭をいっぱいにしていた。まさか、と首を振る。思い出す気配は、確かにかのひとだった。いや、でも。
 やはりありえないことだと行きつく。警察機構ですら手こずったあの組織を潰した第三者が彼であるとは思ったが、これだけは、花だけはありえないと思う。でも。
 ――カイ様には治癒術が施されていました。
 いや、そんな、まさか。
 ありえない、と口の中だけで呟き、カイはもう見たくないと目を閉ざした。期待するにしては、あまりにも。あまりにも虚しくて。
 しかし、瞼を閉ざしてなお、沸き立つような花の香りは高揚するカイを嘲笑うように強く漂っていた。



 その姿を見つけて、咄嗟に翻そうとしたカイの身体を押しとどめたのは、その珍しさからだった。
 病室の窓から見える中庭に何度も眼裏に思い描いた男の姿があった。やっぱり病院に来ていた! と逸る気持ちで男のもとへ行こうと身を翻そうとして、けれどそれは叶わなかった。
 緑の咲き誇る美しい中庭には患者の姿がちらほらとある。その中にいる場違いな男がふいに腰を屈めた。屈強な身体を小さくしゃがめ、武骨な指先をゆらりと伸ばす。その先にいたのは鳩だった。
 餌でも与えたのか、地面をつつく鳩を男はぼんやり眺めている。その横顔に息が止まった。見たこともないほど、柔らかい色を纏った赤茶の双眸に心臓が焼き切れそうだった。
 知らないと、思った。そんな顔、知らない。そんな姿、知らない。
 ああ、と嘆く。そりゃそうだ。カイは男のことを何も知らない。その暗く澱む瞳の理由も、その額当ての下にある刻印の理由も、何も知らない。何が好きで、何が嫌いで、誕生日とか、年齢とか、……本当の名前すら。
 鳥が好きなのだろうか。羽根を羽ばたかせ、自由に空を飛ぶ姿は男に似ている。
 ふいに鳩が羽をはためかせ、勢いよく飛び立った。それを見つめながら空を仰いだ男が太陽の眩しさに目を細め、そして微笑った。カイの知らない、柔らかさで。
 ふいに男が三階の窓から覗くカイの姿に気づいた。刹那、ヘッドギアの影にある双眸は途端に色をなくした。次いで、いつものような面倒くささで嫌そうにカイから目を逸らす。
 気を抜けば、幼子のように泣き出してしまいそうな心地だった。それでもカイは必死に駆けた。こちらに気づいた男がさっさと去ってしまう前に、何でもいいから言葉を交わしたくて。着慣れない病院服をなびかせ、中庭に辿り着いたとき、はたして彼はそこにいた。
 しかし結局、事件のこともカイの救出も何もかもはぐらかされただけだった。ありがとうを言う暇もなく、男は去っていく。
 その背を見ながら、幾度目かの恋情を墓に埋めた。あんな態度を取られて、なお焦がれる自分に自嘲しながら。