TOP > Guilty Gear > Sol x Ky > Novel > Unerwiderte Liebe für immer > Ⅵ
死のにおいがする。
「ソル」
血のにおい。腐臭。
「ソル」
ああ、またあの夢か。
「ソル、ソル」
うるせぇ。ソルって誰だよ。
「ソルっ……!」
とうとう身体を大きく揺さぶられて、観念するしかなかった。
「………んだよ」
地獄の底へ突き落とされるほどの諦念の中で目を開ければ、短い蜂蜜色と青空のような二つの宝玉がこちらを覗き込んでいる。
見慣れてしまった少年の顔に盛大に溜め息を吐くと、天使によく似たうざったい花顔はむっと顰められた。
「起きているなら返事してください」
その言い草に唖然とする。
あれだけ耳もとで大声出して呼びかけ、果てにはぐらぐらと身体を揺すっておいて何て言い様だ。
「起きてたんじゃねぇ。テメェが起こしたんだろ」
これ以上なく嫌悪の滲んだ顔で吐き捨てると、少年は唇を尖らせた。その少年らしかならぬ歳相応の子どもらしい表情が意外で、わずかに瞠目する。
「こんなときに呑気に寝るほうがおかしいんです。私たちは今、問題のさ中なんですよ。もっと危機感というものを――」
「ここの座標もわからなければ、メダルは両方壊れてる。この断崖絶壁は人の手では登れない。救援を待つ他にどうすればいいのか何か案があるなら言ってみろ、坊や」
ぐ、と少年が口を噤む。
「大体、誰の所為でこんな谷底に落ちたと思ってやがる」
「ッ、それはあなたがっ、勝手に一人で行動するから……!」
「お前がお仲間置いて作戦守らない俺についてくるのは勝手だがな、テメェが落ちそうになったのに俺を巻き込むんじゃねぇよ。二人して落ちるとか阿呆か。片方だけならテメェの大好きな〝助け合い〟ができただろうにな」
「なッ……た、確かにあなたの裾を掴んでしまったのは謝りますけど、そもそもあなたがちゃんと作戦を守って皆と行動していればよかったんです!」
もうこの上なく面倒だ。このキャンキャン吠える口うるさい子犬を気絶させて、さっさとこの断崖を登るべきか。だがこのどう見ても落ちたのに生きていることが奇跡――小さい上司を腹に乗せて落ちた俺の背中は盛大に肉が削げたが――の谷底を何の装備もなしで抜け出せ得る理由が思いつかない。やはり救援を待つほうがマシか。少年に通信が取れないとなれば、今頃お仲間が血眼で探しているだろう。
仰向けの身体の眼が聳える絶壁の向こうに映すのは、どこまでも抜けるような青空だった。しかし、その快晴とは裏腹に色濃い死のにおいがする。いつの間にか嗅ぎ慣れた戦場特有のにおいが纏わりついて離れない。背中の肉が再生する気色悪さに眉を寄せながら、勝手に口もとが歪んだ。
これは夢だ。俺はあの高さから落ちれば死ぬはずだし、破損した身体が再生するわけがない。戦争なんて四角い画面の向こうの世界のことだし、死のにおいなど知らない。嗅ぎ慣れるはずがない。仰臥する俺の横にちょこんと三角座りしている美貌の少年のことも知るはずがない。出逢うわけが、ない。
だから夢だ。
「ソル、」
これは夢だ。何度も繰り返した悪夢に過ぎない。
だからいい加減、その変な名前で呼ぶんじゃねぇよ。そんな奴、俺は知らない。
「ねぇ、ソル。夢でも見てたんですか?」
ゆめ。
「だって寝てるとき、幸せそうだったから」
「………………」
「あんな顔、初めて見ました。あなたはいつも機嫌悪そうに仏頂面してますから。私の前だけかもしれませんが」
「……夢じゃない」
「はい?」
「夢じゃない。あっちが――」
現実だ。
そう言おうとした喉は音を発することはなかった。魚の骨が引っかかったみたいに呆気なく喉が詰まる。
まるで駄々を捏ねるガキだ。そうであってほしいと、そうでなくてはおかしくなると、何回、何百回、何千回、何万回、そんな夜を過ごしただろう。幾度、目覚めた先の世界に絶望しただろう。
「……いつ敵襲があるかもわかんねぇんだ、お前も寝ておけ。人でも化け物でも気配は見ておく」
話を強引に逸らし、上体を起こして胡坐をかく。心情に呼応するように、再生された背中の皮膚が引き攣った。
「坊やはいい子に寝てろ」
「嫌です」
吐き捨てた荒い語気の言葉尻に重なるように、間髪入れず返ってきた否定の言葉はやけに重苦しく落ちた。
「あなたを見張らなくてはならないので」
「……見張るって何だよ。この状況じゃあどこにも行けねぇだろうが」
「夢の中に行っちゃうじゃないですか」
予想だにしなかった言葉に押し黙る。
少年はこちらを見ていなかった。行儀よく膝を抱えて座ったまま、虚ろに中空を見つめている。
「ソル」
ゆらり。幽鬼のような動きで虚ろな青緑が俺を映した。
「何度でも私が連れ戻してあげます」
意味がわからなかった。わかりたく、なかった。
「これが、現実です」
これ。
視界に入るそこら中が骨まみれだ。少年と俺の周りには溢れんばかりの骨しかない。
谷の底。ここは化け物の巣屈だ。人骨がそこら中に山をなしている。赤黒くこびりついた血の痕。吐き気を催す腐臭。原形の留めない肉片。
その地獄のような景色の中、浮いたように不釣り合いな美貌の少年は、その容姿とは裏腹に悪魔の如く惨いことを俺に突きつけた。
歪んだ頬が痙攣する。
少年はいつも正しい。正しすぎて反吐が出る。
わかっている。全部、わかっていることだ。何が夢で、何が現実かなんて。お前に連れ戻されなくても、否が応でも醒める先は現実だ。どんなに夢の世界に逃げたって、意味なんかない。夢の中で味わった幸せの分、醒めれば地獄に突き落とされるだけ。それでも見たいのだ、決して叶うことのない夢を。
お前は夢を見ることすらしないのか。夢の中でならいくらでも好きな結末に辿り着ける。こんな血と死のにおいに塗れた戦場で化け物相手に剣を振り、仲間が肉片になるのを見届け、終わりの見えない戦争を続ける必要もない。
欠片も見たことはないというのか。
ふかふかのベッドから起きると甘い香りが漂ってきて、足を向ければ母親がおはようと頬に口づける。甘い朝食に頬を緩め、新聞を広げる父親と笑顔を交わす。家から出れば友人たちと足を揃え、学校で交流を深める。遊び疲れて帰ってくれば、あたたかいハグが待っている。
お前くらいの子どもが普通に暮らす日常だ。旧時代に、化け物に、奪われた日常。お前は一度として夢見たことはないのか。欠片も思い浮かべたことはないのか。機械のように化け物を殺しているだけで満足なのか。
そうだというのなら、お前は確かに天使様か何かなんだろうよ。ただひたすらに人類のために尽くす〝人でないもの〟だ。欲ひとつ抱かない、人じゃないもの。
「……一秒くらい人間になれねぇのかよ、テメェは」
不思議そうに首を傾げた少年に向けて放った声は、まるで天使に祈る愚者のような響きで以て放たれた。
「――夢くらい、見させろよ」
金の前髪を揺らして瞬いた澄んだ蒼碧の瞳の中には、確かに現実が映っていた。色濃い闇を纏う、見知った化け物が。
Ⅵ. dream of a butterfly - 栩栩然として胡蝶なり
真っ暗だった。目を開けているはずなのに何も見えない。いや、もしかしたら開けていないのかもしれない。狭苦しくて両手を縮めてうずくまる。トクン、トクン、トクン。心地よいリズムが響く。それでも恐ろしくて仕方なかった。このまま、ここにいてはいけないと知っている。どこまでもあったかくて、やさしくて、幸せなここに。早くここから出なくちゃ。はやく、はやく、はやく。
焦る心とは裏腹に、殻は破れることはなかった。めちゃくちゃに暴れても冷たい鉄の檻の中にでもいるみたいに出ることが叶わない。
いやだ、早く出ないと。ここから出ないと。
気がつくと目の前には穴があった。化け物が大口開けているみたいな、どこまでも闇が続く大きな穴が。
いやだ。いやだ、いやだ、いやだ。
叫び声をあげているはずなのに音が聞こえない。自分の身体は他人のものにでもなったみたいに言うことを聞いてくれなかった。吸い込まれるように穴に向かって歩いている。大きな真っ暗な穴に。ぐらり。身体が揺らいだ。
ああ、ああ、アア。また失敗だ。
落ちていく、真っ逆さまに。闇の中へと。
いやだ、いやだ、いやだ……! 誰か助けて! このままでは、
――俺の人生が始まらない。
「シン……!」
「ッ!」
目を開けたと同時に、勢いよく身体を起こした。は、はっ、と浅い呼吸が漏れる。弾かれたように自分の手に視線を落とした。蒼白く浮かんだ手は情けなくも小刻みに震えている。それでも自身の手は確かにそこに存在し、自分の瞳は確かにそれを映していた。指を動かす。手は正しく頭の指示に従って動いてくれた。
――……よかった。俺は生まれてきたんだ。
「大丈夫ですか……?」
傍から聞こえた声にはっとして横を向くと、実父が眉を下げてこちらを覗き込んでいた。
「……か、カイ…」
「魘されてましたよ」
シンはぱちくりと目を瞬かせ、深く息を吐いた。
「……ゆめか」
なんだ、と安堵したと同時に首を傾げる。夢がどんな内容だったか、もう思い出せなかった。ただとても恐ろしく、ひどい不安に苛まれていた気がする。内容はまるで思い出せないが、悪夢だったということはこめかみを伝った冷や汗も証明していた。
「あー……その、ごめん。起こしちまってみたいで」
「いえ、大丈夫ですよ。まだ真夜中ですが、眠れないようならホットミルクでも用意しましょうか?」
「い、いいよ。そんなガキみてぇなことしなくても」
「あ……そう、ですよね」
途端に、カイがしゅんと落ち込んでしまった。
俯いてしまったカイを見ながらシンは唇を噛んだ。子どもなのは確かだし、自分はカイの息子だ。でも、親子として過ごした時間が短すぎた。会わない間ずっと恨んでいたわけだし、誤解がとけて、いざ親子として過ごしましょうとなっても、手放しで〝パパ〟に甘えられるほどもう幼くはなかった。
カイもカイで距離をはかりかねているし、この段階で「一緒に寝る」はハードルが高すぎたのだ。散々っぱら罵声とともに拒否したが、結局カイに押しきられて同じベッドに入ったのは間違いだった。カイは変なところで遠慮し、変なところで強引だ。
「……すみません。一緒に寝たいと我が儘を言ったのは私なのに……やっぱり居心地悪かったですよね。私の隣では、その……」
「ちがっ! べ、別にちげぇよ……。ただ悪夢を見ただけでカイの隣がどうとかじゃなくて……ま、慣れないのは確かだけど」
ぼそり、と最後に付け足した言葉が余計だった。さらに項垂れてしまったカイに慌てて話題を変える。
「か、カイは?」
「……?」
「なんか夢とか見たか? 俺は起きた途端忘れちまったけど」
きょとん、とシンを見たカイの顔はやけに幼く見えた。肩あたりまで伸びたハニーブロンドの髪が揺れ、その先でラフな寝間着をまとっていることがどこか違和感をもたらす。思えば、私服や家着に身を包んでいる姿より、正装している姿を見ることが多かった。
「……いえ、何も見てません」
「へえ。じゃあさ、カイはどんな夢見たことある?」
「私はあまり夢を見ないので……」
「ふぅん?」
「んじゃ、子どもんときとかは? 俺はよく母さんの夢とか見たぜ」
離れて暮らす母の夢はとてもあたたかくて、でも目覚めると寂しくて仕方なかった。ひどい夢もたくさん見た。カイが母を壊していく夢だとか。幼い頃、シンにとってカイは悪そのものだった。その憎しみが作用して、あんな夢を見たのかもしれない。母を助けたくて、でも幼い自分では何もできなくて、うんうん魘されていると、オヤジが少し乱暴に起こしてくれた。大きな手は不器用にぐしゃぐしゃと頭を撫でてきて、ほんの少しだけいつもより優しい低い声が「さっさと寝ちまえ」と言えば、不思議とまたすぐに眠りに落ちた。そうときの夜は決まって、もう悪い夢を見ることはなかった。
そういえば、オヤジは俺が幸せな夢を見ていると、いつもの朝みたいに乱暴に「時間だ、起きろ」と叩き起こしてくることはなかった。むしろそういう日は、寝坊しても許してくれた。もっと小さいとき、カイなんかは俺がどんなに楽しい夢を見ていても、時間通りに無理矢理起こしたのに。
『シン、おらシン、起きろ』
『んん~? うわぁ、起きちゃった……』
『起きちゃったって何だよ。もう行くぞ』
『だって、とっても幸せな夢を見てたのに。あのね、母さんがね――』
『……お前はあいつとは違うな』
『……?』
『楽しかったなら何よりだ。そろそろ起きろ。明るいうちに隣町まで行けなくなる』
『あっ、もうこんな時間……? ごめんなさい……ぼく、お寝坊しちゃった。なんで起こしてくれなかったの?』
『……あまりに幸せそうだったからな』
『? そるは優しいね。パパはいつも時間どおりにむりやり起こしたよ? ママはいっしょにおねぼうさんしましょうって言ってくれるのに。パパってひどいでしょ?』
『………あいつは――』
「……わたしは」
回想に耽っていたシンをカイの声が呼び戻す。ハッとしてカイを見ると、わずかに俯いた顔を長い前髪が覆い、表情はわからなかった。
「子どもの頃は夢を見たことがありませんでした」
顔をあげたカイが真っ直ぐにシンを見る。
「え……一度も?」
「はい」
「マジで?」
「私の記憶がある限りでは、ですが。幼い頃は見ていたかもしれませんし、覚えていないだけでいつも見ていたのかもしれませんが」
「ふぅん? そんなことってあるのか?」
夢は誰もが見るものだと思っていた。
カイって不思議生命体だな、とシンが呑気に思っていると、ほとんど音にならないほどの小さい声が落ちる。
「………わたしは……見るための夢を知らなかったんだ」
「え?」
シンは目を丸くした。
聞き取れなかったわけじゃない。人間より優れた耳は思考に陥っていても一言一句聞き取った。驚いたのは、ついさっき思い出していた記憶と重なったからだ。オヤジの声と。
――『………あいつは見るための夢を知らねぇんだろうよ。おお目に見てやれ』
「いえ、何でもありません」
聞こえなかったものと思ったのか――そもそも聞かせるために呟いたわけではなさそうだったが――カイはにこりと微笑んで首を振った。
小さい頃からそういう顔が嫌いだった。笑ってないのに笑ってる、人形みたいな顔が。
「シンは……夢を見るのが怖くないのですか?」
質問の意図がわからず、首を傾げる。
間接照明だけが点いた真夜中の部屋は薄暗く、カイの抜けるように白い肌に影を落としている。それが妙に生気を感じさせないことが、不安のような恐怖のような、落ち着かない気持ちにさせる。
「……なんで? カイは怖いのか?」
「そう、ですね……。怖いです。恐ろしい夢なんて見たくないじゃないですか」
「でも楽しい夢かもしんねーじゃん。俺なんてこの間、オヤジがカーニバルでサンバ踊ってる夢見て爆笑したぜ?」
想像したのだろう。ぷっ、と噴き出したカイがくすくす喉を鳴らした。
「っ、ふふ……それ、ソルに言っちゃだめですよ」
「あー……起きた途端言ったわ。んで、盛大にボコられた」
「ぼこっ……だ、大丈夫だったのか?」
「え? うん。いつものことだし」
「いつも……?」
低い声が聞こえたと思ったら、カイは据わった目で「あいつ、なんてことを……」とつらつらと恨みがましく零していた。シンは聞かなかったことにして話を続ける。
「何も悪い夢ばかり見るわけじゃねぇしさ。夢を見ないなんてもったいなくね? スゲェ楽しい夢かもしんないし、最高にエキサイティングかもしんねぇし。幸せな夢かもしれない。……夢の中でなら動いてる母さんとだって会えるし」
封印の中、ぴくりとも動かない母を見上げるだけの現実なんかより、もっと幸せな夢が瞼の裏で上映される日だってある。
寂しそうに目を伏せたシンの手にカイの雪のように白い手が重なる。その手はびっくりするくらい冷たかった。
「………私はそれが一番恐ろしいんです」
静かな声が宵闇に落ちる。
「え?」
「だって、」
生気を、感じなかった。恐ろしいほどに。
カイは虚ろな瞳を宙に漂わせ、人形みたいな顔で言った。
「幸せな夢を見てしまったら――」
***
「シン」
肩を揺すられ、弾かれたように身体を起こした。
「――……っ、」
「そんな体勢で寝ては身体を痛めます。お父さんは私が看ているから部屋で休んで」
「母さん……」
顔を覗き込んでくる母の姿に意識が明瞭になり、はっとしてカイを見る。カイは大きい寝台に横たわったまま、ぴくりとも動かない。
「どうしたの?」
「……思い出した」
シンはいつかの記憶をはっきりと思い出していた。
「前にカイが夢を見るのが怖いって言ってた。……悪い夢より、幸せな夢を見るほうが怖いって」
あの日感じた言いようのない恐怖が蘇る。
薄暗い部屋。月明かりすら射し込まない部屋で間接照明に照らされた真っ白な肌。今より短い蜂蜜色が風に煽られたわけでもないのに揺れた。長い金の睫毛の先で、常なら強い意志を孕み、真摯に貫く蒼碧が虚ろに揺れていた。一切の光もなく。生気のない人形みたいな顔は、まるで幽霊でも相手にしているかのようだった。
カイは言った。
――幸せな夢を見てしまったら………
「幸せな夢を見たら、」
――現実に戻ってこられなくなるでしょう?
「現実に戻ってこられなくなるから」
あの瞬間、もしかしたら目の前にいるカイは偽物なんじゃないかと思った。もう本物のカイは夢の中の世界にいて、眼前にいる男は抜け殻なのではないか、と。そんな馬鹿げたことを本気で思った。
「カイは目覚めたくないのかもしれない」
息を呑んだディズィーを、シンの平素より低い声が貫いた。
***
「でもどんなに幸せな夢を見ても、ちゃんと現実に戻ってきてくださいね」
カイはそんなことを言った。事も無げに、ドアはノックしてから開けてくださいね、とか、その攻撃は隙が大きいですよ、とか、そんな些細な注意をするみたいな、まるで日常の中にある普通の会話のような軽さで。
意味が、わからなかった。
夢は夢で、現実は現実だ。俺という生き物が勝手に創り上げた〝何か〟を寝ている間に見ているだけで、戻ってくるとかこないとか、そんな話ではないはずなのに。どうしてこんなにも不安になるのだろう。
――あのときと同じような気持ちだ。
いつかの記憶が唐突に蘇り、シンはハッとして一つの眼を瞬かせた。
『そる、そる! 起きて! ねぇ起きてよ!』
『………るせぇ』
『そる? そる起きた!』
『……もう少し寝かせろよ』
『もう少しって、もう夜だよ? そる寝すぎだよ……揺すっても全然起きないから…っ、ぼく怖くて……ッ』
『……泣くな』
『ないてない…っ! なんでそんなに寝るの……? とうみん? そるクマさんなの?』
『ざけんな』
『じゃあなんで?』
『………蝶になりたいから』
『ちょうちょ? どうして?』
『……そうだな…ひらひら自由に飛んでて綺麗だからってことにしとけ』
『でもちょうちょになってもソルはソルだよ? 羽があってふわふわ飛べても、ソルはソルだから、ぼくは今のそるといっしょにいたいよ? だからはやく起きて』
ソルは息を呑み、滅多に変化のない切れ長の目をわずかに見開いた。大きい手が赤い額当てを覆い、そこから飛び出た長い前髪をくしゃりと潰す。
『………どう足掻いてもバケモノ は バケモノってか』
節くれ立った指先の間から覗く表情は、見たこともないくらい心許無く揺れていた。くしゃりと頭を撫でられ、自然と俯いた所為でソルを見ることが叶わなくなる。
『……やっぱりテメェはあいつにそっくりだよ』
――夢くらい、見させろよ。
そう続いた言葉の意味の半分ほども、シンは理解できなかった。
ぎゅうっと繋がれたままの手を握られて、弾かれたように意識を戻す。
「シン。……あなたはあいつに似てますね」
オヤジと似たようなことをカイが言う。今さら、オヤジの言う〝あいつ〟がカイのことだったのだと気づいた。
じゃあ結局、俺はどっちに似てんだよ、とシンが突っ込む前に、カイが優しく、それはもう天使のように綺麗に微笑んだ。
「でも大丈夫です。私が何度でも連れ戻してあげますから」
どこから? どこに?
そう聞くだけの余裕がシンにはなかった。
聖母のような微笑みとは裏腹に、ぎゅうっと握ってくるカイの手は悲鳴をあげたくなるほど強くて、とても痛くて、どうしてか怖ろしくて仕方なかったから。
(続く)