気分が悪かった。養い子が仕合いしてくれと言うから、珍しくその誘いに乗ってこてんぱんに伸してやったが、多少暴れたところで気が晴れるわけもなく、気分は下がっていくばかりだった。
 こんなところにいるのが悪いのだ、とソルは豪奢な王城の長い廊下を歩きながら眉を顰めた。さっさとこんなところを出て酒場にでも繰り出そう。久しぶりに女でも買って朝まで過ごせばいい。そんなことを思いながら多少早い足取りで歩いていると、背後から静かな声が呼びかけた。

「お父さん」

 思わず盛大に眉が寄ったが、瞬時にいつもの仏頂面に戻して振り向く。

「お出かけですか?」
「……ああ」
「やめたほうがいいと思います」
「あ?」
「雨、降りそうですよ」
「…………」

 そんなこと関係ないと顔を顰め、ソルは娘の顔を見やった。口もとが緩んでいるように見えるが、目もとは微笑っていない。どこか歪な無表情に似た顔が変な違和感をもたらした。だが、見間違いかとも思えるそんな些事など、気にかけている余裕がなかった。一刻も早く、ここから抜け出したかった。この王の妻の前からも。針で刺すような後ろめたさが向き合っている内にどんどん肥大していっている。
 あの一夜に後ろめたさを感じる必要はないはずなのに。あのときはまだ、カイは独り身だった。何より、カイは不義を働くような人間ではない。あの日、あいつが俺に抱いていた感情はとっくに消えたはずだ。

「『雨の日がよかった』」

 何の脈絡もなくふいに降ってきた声に、ソルは訝しげに目を細めた。

「『雨はこの先も必ず降るから』」
「……何の話だ」
「この本、カイさんに届けてくれませんか」
「…出かけるつもりだと言ったはずだ。自分で持ってけ」
「シンと約束しているんです。早く行かないと」

 ディズィーは無理矢理ソルに本を押し付けた。反射的に受け取ってしまい、大きく顔を顰めたソルが文句を言うより先に、黄色いリボンがふわりと揺れて彼女は身をひるがえしていた。
 深く溜め息を吐き、がしがしと頭を掻く。彼女のお願いを聞き届ける理由はない。このまま街へ繰り出してしまえばいい話だ。だが――
 ぽつ、ぽつ。耳障りな音が窓をノックするように叩いた。それは次第に回数を増し、気が付けば窓の向こうはどしゃ降りに変わっていた。
 雨は嫌いだった。思い出したくもないものを思い出させるから。
 二度目の深い溜め息を吐き、踵を返す。重い足取りの最中、ふいに横目に見えた窓に足を止める。静かだったはずの夜は雨音に掻き消され、嫌な音が響き続けている。激しい雨の降る宵闇を映す窓には、自分の顔が鏡のように浮かび上がっていた。大昔のメロドラマにでてくる女みたいに、無様な顔が。



 王の自室の扉に手をかけ、ソルは眉を寄せた。鍵がかかっているだけならまだしも、わざわざ法力錠まで施されている意味がわからない。そこまでして人を寄せつかせたくないなら仕方ないとばかりに身を翻そうとして、ふいにやめた。
 耳の奥で残響し続ける雨音が思考を鈍らせている。あのパリの夜の情景が鮮明に眼裏に浮かび上がり、まるで目前の扉がその過去へ繋がっている気さえした。愚かな幻想……いや、願望か。それを自嘲する先に、ソルは術式を解き明かし、解呪を唱えていた。
 足を一歩踏み入れた先には、当然のようにあの日とは違う光景が広がっていた。帰って寝るだけを目的にしたようなシンプルな調度品ではなく、豪奢な装飾の施された華やかな色彩。だがそれらは暗闇に埋もれている。灯りの点かない部屋は、大きい寝台の横に佇むランプだけが灯っており、間接照明の淡い暖色が広がっているだけだった。部屋の主は見当たらない。
 ソルは怪訝に目を細め、足を進めた。部屋の奥、大きいカーテンが揺れている。バルコニーに続く窓が開いていた。夜に、ましてや叩きつけるような雨が降っている中、何の用があるというのか。不審に思うあまり、無意識に気配を消して近づいた先で見えた光景にソルは目を見開いた。
 月さえ出ない暗闇の中、カイは横殴りの雨粒に晒され、びしょ濡れのまま空を見上げていた。まるでシャワーでも浴びているような仕草で上向いたカイの瞳がゆっくりと開かれる。閉じられていた瞼の先で長い金の睫毛が揺れたあと、蒼碧の宝玉が覗いた。小ぶりな唇がわずかに緩み、瞳が細まる。花も眩むような美しい微笑は、名状し難い幸福を湛えていた。まるで、永遠に続く幸福の海の中で泳いでいるかのような。
 持ち上がった細い腕が自身の髪へ伸びる。頭上で括っている髪を解き、雨を吸った長い金糸が重く落ちる。宵闇に浮かび上がるような白い手はケープに向かい、自らの手で剥いでいった。無雑作に放り投げられた衣類がびちゃりと不快な音を立てて落ちる。剥き出しの肩を雨が濡らすのを喜ぶように笑みを深めたカイは、上衣の釦に手をかけた。
 それが意味することをわからなかったわけではない。ただ、宵闇のバルコニー、どしゃ降りの雨、至上の幸福の滲む顔。そのすべてがあまりにも異様で、狂気じみていて、幻想的で、そして見覚えがあった。
 するり、と布が落ちていく。ゆっくりと、けれど確実に見えてくる抜けるような白い肌を雨が滑り落ちていく。
 一枚一枚剥がされていった着衣は、ついに最後の布まで雨の中に落とされた。何も纏わない白い痩躯が微かに震えた。細い両腕が伸ばされる。何もない、ただ闇の向こうへ。薄く開かれた唇がわずかに動く。音にはなっていなかった。それでもソルにはわかった。彼が紡いだ言葉が。

 ――……私をお前のものに。

 これっぽっちも音にならなかったのに、ソルの耳には鮮明に彼の声を伴って再生された。あの日と同じ言葉が。
 中空へ伸ばされた両腕が何かに触れているかのように動いた。小さい顔を傾け、カイは瞼を閉じた。その眦から伝う雫が雨なのか、別のものなのかわからない。けれど、ソルの眼裏に焼け付いたあの日の場景とまったく同じように伝った気がした。
 今一度開かれた蒼碧に歓喜と悲嘆が綯い交ぜになって浮かんでいる。宙に浮いたままの手が何かを握るように拳を作った。
 同じだった。ソルの記憶と眼前の光景がおかしいくらいに一致した。カイの前にはただ雨の降る闇が広がっているだけだ。けれど、そこに一人の男が幻のように浮かぶ。雨に降られ、びしょ濡れになった着衣を自ら剥いだ裸身の痩躯を引き寄せ、薄桃の唇に噛みつく男。歓喜と悲嘆の交じった瞳が細められ、その端っこから伝う雫をじっと見ている。胸もとに置かれたカイの手が喰い込むほどに強く縋りつくのを感じながら。
 ソルの見知ったあの雨の一夜が目の前に広がっている。
 長い金糸の睫毛が震えた。開かれた瞼の向こう、青と緑のせめぎ合う瞳が中空を見つめた。誰もいないはずの闇を、じっと。形のいい唇が薄く開かれる。何もない闇を見つめて、カイが微笑む。その唇が形作った声なき音を拾って、ソルは衝動的に動いていた。
 持っていた本を放り投げる。ごとり、と鳴った鈍い音に気付いたカイが弾かれたように室内を見たのと同時に、ソルは細い腕を掴んでいた。力任せに引っ張り上げ、加減など考える余裕もないままに押し倒す。
 剥き出しの腕を縫い止められたカイが呆然とソルを見上げた。何が起きたか時間をかけて呑み込んだカイの顔が、先までの幸せの海を漂っていたものと一変して絶望に染まるのをソルは恨みがましく見返し、睨みつけるように鋭い目を細めた。憎しみにも似た怒りがこみ上げてくる。
 ふざけるな。何年だ。あれから何年経ったと思ってる。
 お前は確かに言った。何もない、誰もいない、闇をぼんやり見つめて。この世のすべての幸せを詰め込んだみたいに微笑って、言った。――ソル、と。



 ディズィーは背後の気配が踵を返すのを感じ取ってから、ゆっくりと振り返った。遠ざかっていくダークブラウンの尻尾が揺れる大きい背中を見つめ、小さく微笑む。
 激しくなっていく雨音に吸い寄せられるように窓に近づき、どしゃ降りの雨が降る暗闇を見つめた。

「『雨の日がよかった』」

 世界で一番大好きな人は、耐え難い痛みをじっと堪えているかのような顔でそう告げた。
 罪を犯したんです。懺悔から始まった告白もちょうど今みたいにどしゃ降りの雨が降っていた。激しく窓を叩く雨をぼんやり眺めながら、彼は身を焼く炎に苛まれ続けていた。

『嫌だった、どうしても。いつか、あいつの姿を見失ってしまうのが』

 窓に映る自分の顔に彼の顔が重なる。その瞳は揺らぎ、自嘲の笑みを小さく零した。

『私とあいつに繋がりなんてありはしないから。どんなに追いかけても見つけられなくなる日が来るかもしれない。それは今日かもしれない、明日かもしれない。時を経るごとに不安が増した。だから独りよがりに縋りついたんです』

 鮮明に蘇る彼の声は、記憶の中でも溢れ出る情動を湛えている。

『雨の日がよかった。雨はこの先も必ず降るから』

 雨が降っている。ざあざあ、と。激しく。
 天から溢れる雫を見るたびに、それは彼の涙に見えた。

『一時でよかった。たった一度だけで。あいつと身体だけでも繋がって、体温を感じて。あの日、私は永遠の幸福を手に入れてしまった』

 宙に伸ばされた白い手が何かの輪郭を撫でるように揺らめいた。そこには何もない。誰もいないのに。

『こんなふうにどしゃ降りの雨の夜。あいつは私のもとに来てくれる』

 細い腕が力無く重力に従い落ちる。伏せた目を上げ、振り返った彼の頬に罪を湛えた雫が一筋伝った。

『……だからお願いです。こんな雨の夜は私を見ないでください。……私は現実にいないから』

 軽蔑しましたか、と聞かれたから、いいえ、と答えた。本心だった。
 人の数の分だけ、想いの形はある。だから、その想いの形の分だけ、関係があってもいいと思った。ただ、儚い微笑を浮かべる姿が切なくて、どうしようもなく愛しくて、我慢できずに抱きついた。
 できることなら、そこから救い出してあげたかった。眼裏に焼きつけた一夜の情景を永遠に繰り返すことを幸せと思えてしまうこの人を助けてあげたかった。その幻想が自分に与えられた幸せで、それに浸ることを罪だと思っている人を。
 でも彼を幻想の世界から救い出せるのはひとりしかいなかった。そのひとの気持ちはそのひとのものだから、カイさんを想ってくれるかはわからない。それでも願っていた。いつの日か、繰り返すだけの夢想の幸せを壊してくれることを。


「母さん?」

 ふいに聞こえた息子の声に振り返る。随分と大きくなった身体で駆けてくるのを見て頬を緩めた。
 カイさんと愛し合った証が目の前にある。かけがえのない唯一の命。
 ――私とあいつに繋がりなんてありはしないから。
 ディズィーは近寄ってきた息子を力いっぱい抱きしめた。

「うわっ……な、なに? 何かいいことでもあったのか?」

 くすくすと喉を鳴らしながらじゃれつくように抱きついてきた母の身体を、シンは戸惑いつつも反射的に抱き返した。

「ええ。とてもいいことがあったんです」

 なになに、と目を輝かせるシンにディズィーは幸せいっぱいの笑顔を浮かべた。
 この子はカイさんとあのひとの繋がりになってくれた。この子がいる限り、きっとカイさんはあのひとを見失うことはない。私たちは家族だから。
 それを世界で一番好きなひとに与えることができた幸福に、ディズィーは清福に彩られた美しい微笑を浮かべた。