TOP > Guilty Gear > Sol x Ky > Novel > Piove che Dio la manda > 02
「ソル? 口に合わなかったか?」
「あ……?」
いつかの過去をふいに思い出していたソルを呼び戻したのは、思い起こした過去より歳を取ったカイだった。あのときの家よりも広い部屋、華やかな装飾、美しい色彩。王が住むには十分の豪華さに囲まれて、ソルはティータイムなどという、およそ似つかわしくないことに参加していた。
「えー、オヤジありえねぇ! 母さんの作った菓子がまずいとか」
「違うの、シン。これはカイさんが作ったんです」
「ええっ!? マジ!? カイ、菓子作れんのかよ……!」
「え、ええ。忙しくてなかなか作る機会はないけどね」
ソルは目の前で繰り広げられる親子の会話に口を挟むことなく、盛り付けられたカヌレに手を伸ばした。口に合わないわけではないことを言外に告げる行動に、カイの顔は安堵と共に柔らかく綻んだ。それを何とも言えない気持ちで見やってから、口に広がる甘さに少しだけ眉を寄せる。その甘さを緩和するために、当たり前のようにソルの前に置かれたコーヒーを一口含んだが、今度は甘さを欠片も残すことなく奪った苦味に顔を顰めた。
甘いものなど好まないはずなのに、どうしてかこの菓子の甘さが消え去るのが嫌で、もう一度王お手製の菓子に手を伸ばした。親子の会話を続けながらもそれを見とめたカイの口もとが緩む。
いい顔をするようになったと思う。ソルのよく知っている彼の顔は、怒っている顔か、化け物を無心で殺しているときの顔か、不満そうにしているか、無表情だった。その顔が愛する妻と息子に囲まれ、まるで永遠に続く幸福の中にいるような顔で微笑んでいる。万人を愛し、守ってきた男が手に入れた唯一無二の愛するものに囲まれて、幸せじゃないはずがない。
あのときの儚い微笑より、よっぽどいい……と思ったところで、ソルは盛大に顔を顰めた。思い出したくもないし、記憶から抹殺したはずの過去の情景がやけに鮮明に瞼の裏に浮かびあがった。
雨が降っていた。ひどい雨だ。土砂降りの雨。窓を叩きつける雨の音だけが響いていて、まるでこの世界に二人しかいないと思わせるほど、外の世界から遮断されていた。法力の灯りに浮かんだ白い肢体。布一つ纏わない裸体がソルへ縋った。ソルだけを見て、ソルだけを感じ、微笑んだ。ほんの一瞬の、たった一時の、幸せを得たとばかりに。一掬の幸せにようやく手が届いたかのような顔で、世界で一番幸せだと思わせるような笑顔を浮かべた。
ソルは、妻からお気に入りのティーカップに紅茶を注いでもらっているカイの姿を茫と見て愕然とした。あまりに鮮明に、ありありと浮かんだ過去の場景。もう何年も前の、たった一夜の記憶。すべて、だ。この目に映ったものも、あの日感じた匂いも、耳に届いた音も、この身体が感じた感触も、まるで昨日の出来事のように鮮明に思い出せる。
あんなこと、ソルにとっては単なる性処理と変わらなかったはずだ。縋られ、乞われて、仕方なしに抱いた。あんな行為、その辺で商売女を買うのと変わらないはずなのに。商売女の顔など覚えているものか。行為の記憶など、残るものか。ただ腰をゆすって出すだけの、そんな作業めいた行為など。
あの行為が単なる肉欲ではない意味を持つのは、心を満たせる相手としたときだけだ。遥か昔にソルが絶対に失いたくないと思った愛する女性のことを、どんなに長い歳月を経ても、これっぽっちも忘れなかったように。
ソルはもう、気が触れてしまいそうだった。あの一夜が鮮明に瞼の裏に浮かぶ理由に思い至り、吐き気すら感じる。
ソルの目の前では男が一人微笑っている。愛する妻と息子の隣で、お気に入りのティーカップを傾けて笑っている。それはソルの眼裏に焼け付いたあの微笑みとはまったく違った。あのたった一瞬の幸福に手が届いたかのような儚いものではない。まるで、おとぎ話の最後の文句の横に添えられた挿絵のような笑顔を浮かべている。そして彼らはいつまでも幸せに暮らしましたとさ。そんな未来永劫必ず続くと約束された幸福の中にいるように。
ぐ、と唇を噛んだソルは唐突に腰をあげた。突然、席を立ったソルを六つの眼が同時に見る。ソルは無表情を貫き、低い声を発した。
「用事を思い出した」
「え……?」
え、と呟いた声はカイのものだった。しかし、ソルはちらとディズィーとシンを見ただけで、カイに視線を向けることなく背を向けた。
最悪だ。こんな気持ち悪い思いを抱えたままでいろというのか。
去っていく背後で行われている家族のティータイムの光景の中に、自分がいるということが耐えられなかった。王が作った菓子みたいに甘い幸福を、俺は壊すだけだから。
*
執務室へと向かう最中、中庭に見えた姿にカイは足を止めた。愛しい息子が養父に何か大きい身振りで訴えている。育ての親は嫌そうな顔をしながらも話を聞いているようだった。思わず口もとを緩めながらぼんやりその姿を眺める。
幸せな光景だなぁ、と心の底から思う。すべてが順調だと手放しで言えるわけではないが、それでも幾度も訪れた脅威を何とか退けることが出来た。かつて、カイを脅して王位の座を突き付けた権力も今や蛻の殻だ。息子との不和もすっかり解け、愛する妻も封印から解放された。味方となってくれるギアもいるのだと、理解してくれる同僚も得た。新しい家族も増えた。こんなにも幸福に囲まれている。
カイは見下ろす先の中庭で、面倒そうに首を鳴らす友人を見つめて寂しく微笑った。わかっている。王となることを決意したときから十分に理解している。もう、簡単にその背を追うことが出来る立場ではない。四角い椅子の役目は、カイをこの城へ縛り付ける。今に不満があるわけではない。王の務めを果たし、人々に希望を、安らかな幸せを与えたいということに嘘偽りはない。けれど。
(……わたしは…)
ふいに光が陰った。厚い雲に覆われた空を見る。予報では夜には雨になると言っていた。強い雨が降ると。
太陽の隠れた空を見上げたカイの瞳は、ゆっくりと瞬いたあと、常にない濁りを宿していた。
(……ああ、今日はきっとお前に会える)
形の整った唇が撓む。光の消えた双眸と相俟って、それはぞっとするような歪な表情だった。
「カイさん」
背後からかかった声に弾かれたようにカイは振り向いた。一瞬にして、いつもの顔に戻ったカイは愛する妻を見とめて微笑んだ。
「ディズィー」
いつかの日とは違い、すっかり母の顔になった妻がカイを真っ直ぐに見つめている。
「羨ましいって顔してます」
一瞬、その言葉の意味を理解できなかった。カイはディズィーが中庭へと目を向けるのを見て頷いた。
「え? ああ、それは、まあ…羨ましいですよ。シンとのわだかまりはもうありませんが、あの子はソルにはいたく懐いていますからね。いつか私にもあんなふうに接してくれればいいのですが」
困ったように笑って言えば、ディズィーは眉尻を下げて首を横に振った。
「違います」
「……え?」
「カイさんはソルさんに嫉妬しているのではないでしょう?」
カイは息を呑み、真っ直ぐで穢れのない瞳で見つめてくる彼女を見返した。彼女は柔らかい声音で、カイには優しくない真実を突き立てる。
「シンが羨ましいのでしょう」
少しの沈黙が落ちた。カイは何も返せず、目を伏せた。彼女には敵わない。そっと手を取られる。カイの右手をディズィーが両手で優しく包み込んだ。
「本当はあなたがソルさんの傍にいたいんですよね」
教会の聖母像のような慈愛の満ちた表情に、カイはいたたまれず顔を逸らした。不義だ、と思う。
「カイさん、」
柔らかく温かい手のひらがカイの頬を包み込むようにして、視線を合わせてと促してくる。今一度真っ直ぐに向き合うと、彼女は困ったように微笑った。
「責めているわけではありません」
「……ええ」
温かく頬を包んでくる手に己の手を重ねる。
ディズィーはすべてを知っている。カイが話したのだ。纏まらない内容を躊躇いつつ散漫に話すカイに、一晩かかっても彼女はただ黙って聞いてくれた。それは二人が恋人となる前夜のことだった。
「……私はただ、子どものような夢を抱いているだけです」
「子どものような夢?」
「はい。叶わないと知りながら未来を思い描いて夢想に浸っているだけの……そんな幼い夢です」
遠くへ遠ざかっていく大きい背を離れないように必死に追いかけてついていく。その先に何があるのかなんて考えもせず、ただ我が儘に。離れていくのが嫌だから、ただそれだけの理由で。見えなくなるほど遠くに行ってしまうのが嫌だから。そこにソルの感情も事情も何一つ考慮されていない。ソルがどう思っていようと関係ない。ただ、自分の身勝手で、我が儘だけを詰めた、そんな夢。それは願いでない。夢だ。思うだけならば自由な、例え叶わなくたって、勝手に思い描いても許される、夢。
「いい加減、お守り離れすべきですね」
苦く喉を鳴らしてから、それでも綺麗な微笑を浮かべたカイにディズィーは寂しげにルビーの瞳を揺らした。
「『人は生きていくために、迷惑をかけてもいいんです』」
「え……?」
「カイさんはもっと迷惑をかけるべきです」
いつかのカイの言葉を投げかけたディズィーにしばらく目を瞬かせていたカイだったが、ふっと微苦笑して困ったように眉を下げた。
「……何を言っているんです。私はあいつがいなくたって生きていけますよ」
毅然と言い放って、今一度中庭に目を向けたカイの表情は何の悲哀も嘆きも憂苦もなく、ただいつものように未来を宿した希望の顔だった。
「仕事に戻りますね」と微笑って去っていった背中を、ディズィーは見えなくなるまで見送ってから恨みがましく眉を寄せた。そうして唇をむぅっと尖らせて、子どものように吐き捨てる。
「うそつき」
嘘は吐かない、秘密も作らない。そんな夫婦の約束を破った夫にどうお仕置きしようかとディズィーは思案して、中庭の父親のもとへ視線を向けた。