喉奥まで見えるくらい大きな欠伸をしながら、ソルは聖騎士団の廊下を歩いていた。
 起きたら昼近くだったために驚いた。昨夜、飲み過ぎたかもしれない。朝礼だの訓練だの、サボり常習犯をお叱りに押しかけてくる鬱陶しい坊やが珍しく部屋に突撃してこなかったせいでもある。
 ぐう、と間抜けな音で食物を欲する腹のために、足は自然と食堂に向かった。近づくにつれて喧騒が耳に届き、怪訝に眉を寄せる。昼食にはまだ少し早いというのに、やけに騒がしかった。一歩足を踏み入れた先で、でかでかと掲げられた横幕が目に入る。
 ――Happy Birthday
 ソルは何かを考えるより先に踵を返していた。誰の誕生日だか知らないが、集団生活にいい加減辟易しているというのに、もっとも無意味な馴れ合いを目の当たりにして、どっと疲れが出る。
 あれだけの準備で祝うのだ。誰が誕生日なのかは予想がつくけれど。
「カイ様はまだ来られないのか?」
 足早に来た道を戻るソルの横を通り過ぎた団員たちの会話が耳に入り、ソルは深く溜め息を吐いた。



 空腹の代わりにはまるでならないが、煙草を咥えながらソルは喧騒から遠ざかっていた。皆あっちの準備で忙しいのか、ひと気のない中庭を通り過ぎたとき、足もとに何かが擦り寄ってくる。子猫だ。穢れの知らない純白の毛並みをなびかせたそれは、餌でもくれると思っているのか、なかなか離れてくれない。
 仕方ねぇな、とポケットに手をつっこむ。確か飴があったはずだ。戦場でひとり突っ走ることが多いために非常食として入れておいた。まあ、食べなくてもそれなりに大丈夫な身体ではあるけれど。
 自分には似つかわしくないほど可愛らしい紙に包まれたそれをぽい、と投げる。くんくん、と鼻を寄せる子猫をぼんやり眺めながら、ふいに猫にあげていいものかと疑念が過ぎった。糖分を与えるのはよくないんだっけか、と飴を拾おうとしたとき、子猫がソルの行動を阻止するように飴を咥えて飛びずさった。
 おい、と眉を顰めたソルから逃げるように駆けた猫は、ふいに止まって振り返った。もう勝手にしろ、と顎をしゃくってみせたソルに、猫はにゃあと鳴いて駆けていった。その先をぼんやり目で追っていると、猫はわずかに開かれた扉の隙間から礼拝堂に入っていったようだった。
 扉が中途半端に空いている礼拝堂に違和感を覚え、ソルは足を動かした。朝の礼拝にも一度として参加したことのない自分には縁遠い場所だ。単なる気まぐれに過ぎない。
 子猫が通れるほどだけの隙間の空いた扉から中を覗いて、わずかに目を見開く。掲げられた十字の前で跪く姿があった。ステンドグラスから入る幾筋もの陽光を浴び、敬虔に祈りを捧げる姿は、見る人が見れば美しい光景だと絶賛するのだろう。宗教画の絵画でも切り取ったようだ。だが、ソルには滑稽にしか見えなかった。祈った先に救いがあると信じられるほど、もうソルは希望を抱けないほど生きている。
 ギイ、とわざと物々しい音を立てて扉を開く。ぴく、と驚いたように跳ねた小さい肩が振り返った。

「……ソル」

 目を丸くして立ちあがった少年に、ソルは眉を顰めた。

「何してやがる」
「なにって……見ればわかるでしょう。祈ってたんです。あなたこそ、どうされたのですか? 珍しいですね。こんなところへ来るなんて」
「不法侵入者を追ってきただけだ」
「えっ」

 さっと壮年の警察官のような顔に様変わりした少年に微苦笑して、視線だけで侵入者を指し示した。

「ニャア」

 侵入者が自らいい返事を高らかにあげた。
 きょとんと目を丸くした少年は、一拍置いて、思わずといった感じで噴き出した。

「ぷっ…く、ふふ……随分と可愛らしい侵入者さんですね」

 子猫と視線を合わせるように目の前でしゃがみこんだ少年は、年相応に頬を紅潮させ口もとを緩めた。だが、決してその手は伸ばされることはなかった。ただ眺めるだけで愛でて、にこにこ笑っている。撫でようとわずかに手を伸ばし、それを躊躇うように引っ込めたのをソルは見逃さなかった。

「……意外だな」
「はい?」
「怖いのか」
「え…? あ、いえ……そうではなくて。私が触れてしまうと穢れてしまう気がして……。こんなに真っ白で綺麗なのに」
「……へぇ。坊やの手はそんなに汚れてんのか。草むしりでもしてたのか?」
「なっ、そ、そうではなくてですね……!」

 ふん、と鼻息で軽く話を流し、ソルは憎悪にも似た吐き気に顔を顰めた。
 そういう意味ではないことくらい、わかっている。何をどのように己の存在を受け止めているか知りもしないが、このクソガキはやたらと自分を貶しめているように見える。気持ち悪い。吐き気がする。

「で、いつまでこんなとこにいるんだ? 団員がテメェのこと待ってるんじゃねぇのか」
「え……?」
「誕生日なんだろ」

 びく、と薄い肩が跳ねる。心なしか、表情が色を無くしたように見えた。

「ッ……え、ええ。そうですね……行かないと」

 そう言って微笑んだ顔は無理矢理に浮かべているように歪んでいた。横を通り過ぎていく少年の細い腕をソルは無意識のうちに掴んでいた。

「、ソルっ?」

 驚いたように見上げてくる顔は、やはり蒼白い。

「……なんでそんな顔をする」
「え?」
「嫌なのか? 誕生日が」
「っ、や……!」
「おい」
「見ないでください……っ、」

 ソルが掴んだ腕を取り戻そうと躍起になった少年は、けれどびくりとも動かない手に諦めたのか、俯いてしまった。ソルの視線から逃れるように必死に表情を隠している。
 ソルは盛大に舌打ちして、空いているほうの手で強引に少年の顔をあげさせた。瞬間、見えた顔に息を呑む。そんな泣きそうに歪んだ顔など、初めて見た。

「何をそんなに怯えてやがる」
「っ、ちが……! わたし……私、は……」

 揺れた青緑がソルの肩越しに十字架を仰いだ。縋るように。

「……おめでとうって言われるのが怖いんです。……幸せだと思ってしまうから」

 意味がわからなくて、ソルは盛大に眉を寄せた。

「祝われるのはすごく嬉しいんですよ? とてもあったかい気持ちになるのは本当なんです。……でも、痛いんです。このあたりが何かに焼かれているみたいにじくじくするんです」

 このあたり、と少年は自分の胸に手を当てた。

「幸せを感じると痛むんです」

 少年はソルを見ることなく、ただ十字を必死に見つめていた。

「……この責め苦は私の罪なんです。助けられなかった命がたくさんあるから」

 ああ、とソルは苦い感情を呑み込んだ。少年は十字を見上げていたのではない。死者を、仰いでいたのだ。

「だから……祝ってくださる皆さんにも申し訳なくなって――
「馬鹿じゃねぇのか」
「え」

 こんな話をしているときでさえ微笑を浮かべた少年の言葉を遮って、ソルは鼻で嗤った。

「死者に声は出せない」
「っ……」
「全部、テメェの思い込みだ。誕生日を祝う奴らに申し訳ねぇってんなら、すぐにその思い込みを改めろ」
「でもっ、」
「っせぇなァ」
「……ソル」
「誰もンな重っ苦しい気持ちで誕生会なんかやんねぇだろ。テメェの誕生日にかこつけて騒ぎたいだけだぜ」
「…………」
「ガキはガキらしく、誕生日くらい何も考えずに喜んどけ」
「……私は子どもじゃありません」
「どう見ても子どもだろうが。ほんの数年しか生きてねぇくせに、悟ったような顔してんじゃねぇよ。気持ち悪ぃ」
「なッ……あ、あなただって、私よりちょっと年上なだけでしょう! 確か、二十歳とか言ってましたよね……!」
「……ああ」

 そうだったっけ、と本当の年齢を言えるわけもないソルはその問いを受け流し、ぐしゃぐしゃと金糸を掻き回した。

「欲しいもんはあるか、坊や」
「えっ」
「街に出るついでだ。ぬいぐるみでも絵本でも気が向いたら買ってきてやるよ」
「ッ、わ、私はそのようなものを欲しいと思うほど子どもじゃありません! それに、あなたにはまだ待機命令が出ているはずです。大体あなたは――

 ぐちぐちと説き始めた上司の言葉を深い溜め息を吐いて聞き流す。
 苦い感情が滲みそうな顔を無表情に保って、ソルは歯噛みした。適当に重い話を軽口で逸らしたが、なんて言えばいいのかわからなかった。
 幸せを感じたら痛むと言った。まだ十とちょっとのガキが、そんな馬鹿げたことを。じくじく胸が痛むというそれは、彼自身が言った通り、責め苦――罪悪感なのだろう。苦しんでいる命があるのに、幸福など感じていられないという。だが、助けてほしいと祈りを捧げる人間を片っ端から救済できる人間がこの世界のどこにいるという。そんなことができるというのなら、それはヒトじゃない。神か仏くらいだろう。いるのなら、の話だが。
 世界中の人間がこの子どもの誕生日を祝すだろう。それは純粋な喜びからじゃない。他力本願な祈りからだ。救済を求めて、祝うのだ。今の地獄のような日々から抜け出すことを夢見て。この人なら、と希望を託して。
 その祈りの重さを真正面から受け止める子どもが、まともじゃないのも道理なのかもしれない。
 馬鹿じゃねぇのか、と言った通り、馬鹿だと思った。愚かだとも。でも、誕生日を避けたいという気持ちはソルにもわかった。こんな子どもの感傷と比べるわけではないが、誕生日は忘れ去ってしまいたい感傷を呼び起こす。誰も知らなければ何でもない、普通の日。けれど、365日のそのたったの一日がソルには苦痛で仕方なかった。この何十年もの間。

「ソルは?」
「あ?」

 いつの間にか、説教は終わっていたらしい。
 聞いていなかったと気付いた少年が眉を吊り上げた。

「だから、あなたの誕生日」
「ハァ?」
「いつなんですか? あなたがぬいぐるみだの絵本だの嫌がらせをするつもりなら、私もそうさせていただきます」

 嫌がらせってなんだ。なんでそう、他人の厚意を曲解して受け取る。

「忘れた」
「え?」
「テメェの誕生日なんか覚えてねぇよ」

 低く、どこまでも冷たい拒絶だった。
 ハッとしたように目を見開いた少年は動揺したように瞳を揺らし、困ったように微笑んだ。無理に浮かべたような、気持ちの悪い微笑。

「……そうですか」

 誕生日を覚えていないというソルの言葉を、過去を語りたくないと解釈したのかもしれない。たかが誕生日の日付くらい、過去と直結するわけではないけれど。遠からず当たりではあるが、もとより団員間で出自などを聞くのはあまり良しとされない。異能者の集まりでもあるし、幸福な家庭で育った者ばかりではないからだ。特にソルにいたっては、ツキが落ちるとまで言われているのだ。不用意な発言をしたと思ったのだろう。
 俯いてしまった少年に溜め息を吐く。どうしてか、珍しく随分と気落ちしているように見えるので、柄にもなくプレゼントくらいやってもいいかと思った。手持ちにあるのは飴くらいしかないが――と思ったところで、その飴もあの子猫にあげたのが最後だったと気付く。わざわざ買ってくるのは面倒だが、どうせ街に出るのだ。誕生会で騒がしいここにいるつもりはない。

「欲しいもの……何もないのか」
「え……?」
「言ってみろよ」

 そういえばまだ腕を掴んだままだったと気付く。その手を離し、眦を擦るように促すと、驚いたように頬を微かに紅潮させた少年は、困ったように眉を下げた。

「……思いつきません」
「ああ?」
「物欲があまりないので、欲しいものとか特にないんです」
「……………」

 ソルは思わず押し黙った。
 落ちた沈黙をけたたましく鳴り響いた警鐘が大きく破いた。当然だが、敵の出没に誕生日など関係ない。化け物の来襲を告げる音を耳にした途端、年相応だった子どもの顔は機械のように無になった。

「行きましょう、ソル」

 さっと身体を離した少年が礼拝堂の扉へと踵を返していく。凶悪な顔で舌打ちしたソルを、ふいに少年が振り返った。

「……欲しいもの、」
「あ?」
「思いつきました」

 少年は人形のように無表情だった。

「ギアのいない世界が欲しいです」
――……、」

 ソルは思わず息を呑み、わずかばかり瞠目した。咄嗟に何も返せないでいたソルに、少年が無表情を崩して笑った。

「冗談です。それは自らの手で掴まなくてはならない未来ですから。だから……この戦争が終わり、争いのない世界になったら……いつか、ソルの誕生日を祝いたいな。その〝いつか〟をプレゼントにしてください」

 それだけ去っていく小さい背中をソルはただ見送るしかできなかった。
 そんな日など、訪れることはない。お前が望むバケモノのいない世界に、俺は存在しない。
 たくさんの祈りを抱えた背が見えなくなっても、その残像を追うように扉を眺めていたソルは、ふいに吐息のような嘲謔を漏らし、振り返った。

「……だってよ」

 ムカつくほど輝いている十字を仰ぐ。
 そこに、仰ぎ見たその先に、カミサマがいるというのなら。あの子どもの祈りを聞き届けてみせろ。叶えてみせろ。

――GEARを、殺してみせろよ」

 くっ、と喉を震わせて、ソルは嗤った。
 出来ねぇくせに我が物顔で居座ってんじゃねぇよ。こんなところに。
 ガンッ、と鋭い痛みが走るほど強く会衆席を蹴り上げて、ソルは踵を返した。
 何もかもが気に入らなかった。この世界も、あの馬の合わない気持ち悪い坊やも、胸中に滞留する苦味も。

 ――ハッピーバースデー、フレッド! 生まれてきてくれてありがとう。

 八つ当たりのように古びた扉を加減なしに閉めようとした刹那、ふいに耳の奥に懐かしい声が過ぎった。ソルの腕の支えを失った扉が、キィィ、と嫌な音を立ててゆっくりと閉まっていく。思わず振り返ったソルの視界に、閉じていく扉の隙間から十字が覗く。
 パタン。やけに寂しい音を立てて、扉は沈黙した。
 なぜ今、その声を思い出したのか。

「………アリア」

 呆然と呟いたそれは、随分と口にしていなかった名前だった。何度も何度も、胸の奥底で呼び続けた名前。

「……俺を責めてんのか」

 ソルは雲一つにない青空を仰いだ。
 ――いつか、ソルの誕生日を祝いたいな。その〝いつか〟をプレゼントにしてください。

「ガキの欲しいもんくらい与えてやれって?」

 ふ、とソルは吐息のような音を漏らし、口もとを歪めた。それは自嘲でも詼諧でもない、柔らかいものだった。だが、ヘッドギアの影から覗く瞳は、色濃い積憂を湛えている。
 今日この日を逃したら、きっと俺があの少年の誕生日を祝うことはない。聖騎士団を抜ければ、会うこともないかもしれない。けれど。
 いつか。あの坊やがよぼよぼの爺さんになって往生でもしようというとき、心の底から笑っていたのなら、祝ってやってもいい。あのクソ真面目で融通の利かない坊やが自らの誕生日を素直に喜べる世界なら、少しは愛せるかもしれない。このくそったれの世界を。そこで刻む化け物の鼓動を。――……ほんの少し、くらいなら。