シンはおやつの催促をするために母の姿を探していた。長い廊下を軽快な足取りで歩くシンは、遠くから歩いてくる人物に目を輝かせた。

「オヤジ……!」

 養父に向かって勢いよく駆け出したシンは、ソルの前できゅっと止まり、むぅっと唇を尖らせる。

「オヤジ、昨日どこにいたんだよ? 探したのに全っ然見つからねぇし……あ、そういやカイも見当たらなくてさー」

 もしやオヤジとカイは一緒にいたのでは、と思い至ったシンは仲間外れにされたような気持ちになって、さらにむくれて不満を露わにした。そこでふいに何の反応も示さないソルを不思議に思い、首を傾げる。

「オヤジ?」

 俯き加減のソルの顔はヘッドギアの影に隠れて、その鋭い双眸は見えない。ただいつもふてぶてしく歪んでいる唇は、きゅっと子どもみたいに引き結ばれていて、その不自然さにシンは目を瞬いた。

「オヤジ? 何かあったのか?」

 一言も発さないソルにいよいよシンの不安が爆発しようとしたとき、ぐしゃぐしゃと乱暴に頭を掻き回される。
 いつも盛大に殴られている頭に違う行動をされて呆然としていたシンが我を取り戻したときには、すでにソルは背を向け、歩き去っていくところだった。

「……何だったんだ?」

 ぽかんとソルの大きい背を見送ったシンはしばらく不思議そうに首を傾げていたが、視界に入った姿に弾かれたように駆け出した。

「母さん…!」

 母の柔らかい笑みに温かさを感じながら、ふいに去り際に見えたソルの顔を思い出した。何か、今にも泣き出してしまいそうな……とそこまで思ってシンは笑った。まさか、と否定しながら、おやつを求めて母にお腹の虫を聞かせた。




 無意識に釦を外していたことにカイはハッとして手を止めた。まだ廊下だというのに、仕事を終えて自室に向かっているという安堵感から服を脱ごうとしていた。誰か部下に見咎められたら、廊下で着替えようとする王と遭遇するという、ちょっとした惨状になるところだった。
 凝った肩を自分で揉みながら自室の扉を開けたカイは、部屋へ足を踏み入れた途端に信じられないほど強い力で何かに引っ張られた。

「うわっ、」

 飛んだかと思うほど勢いよく引っ張られて、思わず間抜けな声をあげて目を白黒させる。カイが状況を理解するより先に、なにか熱いものに包まれた。鼻孔をくすぐった嗅ぎ慣れた匂いに瞬時に状況を理解したカイは、思い切り眉を顰めた。

「……ソル。またなのか? 昨夜も散々したばかりだろう。今日はすごく疲れてて――ッ…、」

 カイは息を詰めた。カイを包み込んでいた太い腕が、加減などまったくしていないのかと思うほど強く力を込めたからだ。

「いッ……いた…ちょっ、と……なに……!」

 呼吸も儘ならないほどの圧迫感の中、カイはどうにか声をあげる。ぎゅうぎゅう、と抱き締められているというより、もはや締め上げられているというような状態に、カイは非難の声をあげる。
 ソルは何も言わない。ただ蛇のように絡まった太い腕がカイを力任せに閉じ込めている。
 そろそろ本当に殺されると思い、バシバシと遠慮なく腕を叩く。ギブギブ、と白旗を上げたカイにようやく腕が緩んだ。カイは勢いよく肺に酸素を送り、ゼイゼイと荒い呼吸を何度か繰り返す。やっと息が調ったカイは眉を逆立て、ひとを締め上げてきた張本人を見上げた。
 しかし、怒声がカイの口から放たれることはなかった。見上げた瞬間、怒声を放つはずだった唇が塞がれた。
(…………え?)
 カイは状況を理解できずにぽかんとしたまま固まる。見開いた瞳には、閉じられた瞼の先で震える長い睫毛とか、なにか見知ったものがドアップで映っていて、そのあり得ない光景にカイの混乱はさらに極まった。
(な、な、な……なに……なんで……)
 そうだ。わけを聞こう。べろんべろんに酔っ払ってるとか、何かの勝負で与えられた罰ゲームとか、ファウスト先生に危ない薬投与されとか、たぶんそんなとこだろう。
 ぐっと加減なしに押した肩はびくともしなかった。離れようとするカイの身体は逞しい腕にいとも容易く押さえられ、疑問を音にできるはずの唇も依然塞がれたままだ。

「んーっ!」

 仕方なしに塞がれた状態で言葉にならない非難の音をあげるが、男はまったく反応しなかった。
 ………よし。とにかく落ちつけ。私が。
 意外とめちゃくちゃ柔らかいとか、あったかいとか、本当そんな馬鹿げたこと考えるな。はやく。はやく、離れないと。
 だめだだめだ、と念ずるように胸中で呟く。はやく離れないとだめなのだ。このままでは、この腕を広い背に回し、この踵を上げ、この身体を寄せ、この唇を押し付けてしまいそうだから。
 おかしいのに。この男が、ソルが、こんなことするはずないのに。
 カイはきゅっと眉を寄せた。鼻の奥がつんと痛い。目の奥が熱くなる。気を抜けば子どものようにしゃくりあげてしまいそうだった。
 はやくはやくと唱えていたそれがようやく叶う。ソルの身体が離れ、カイは思い出したように呼吸をした。ただ押し付けられ、唇が触れ合っていただけの接触なのに、息をすることも忘れていた。
 カイはバクバクと痛いほど早鐘を打つ心臓に震えながら、何事か問いただそうとソルを見た。………が、次の瞬間にはまた締め上げられていた。ぎゅうっと強く力が込められた腕がカイの身体を掻き抱く。

「っ、くるしッ……そるっ…! いた、い……」
「ああ」

 やっと聞こえた声に、カイは結構な間抜けな顔をした。
 言うに事欠いて、「ああ」ってなに。
 こっちが今どんな気持ちでいるかも知らないで、と沸々と湧き出した苛立ちにカイは息苦しい中、声を張り上げる。

「だか、らッ…! いたッ…いって、――んぅッ!?」

 カイの非難にようやく離れたと思った身体はまたしても近づき、今度はがぶりと包み込むように唇を塞がれた。
 だから一体何なんだ、と今度こそ突き放そうとしたカイは間近で合った目に息を呑み、ぴたりと抵抗をやめた。強い意志を孕み、熱情を湛えたレッドベリルが真っ直ぐにカイを見ている。カイを、映している。

「ぁ……そる…」

 一瞬触れ合っただけで離れた唇で、茫然と名前を呼ぶ。絶対に失えない男の名を。

「カイ」
「ッ、」

 息がかかるほど近くで名前を呼ばれた。ともすれば抑揚のない、無感情な呼びかけに聞こえた。それでも、そのたったの二音は、今まで何度も聞いた同じ言葉より、熱くて、あったかくて、切なくて、愛しくて、泣きたくなるような響きだった。
 カイは衝動のままにソルに抱きついた。勢いよく飛び込んだカイの身体を難なく受け止めたソルの腕は、今度は優しくカイを包み込んだ。今までにないくらい近くで視線が重なる。近づいてきた顔にカイはゆっくりと目を閉じた。その眦から万感の想いがこもった涙が一筋伝う。
 位置を変え、角度を変え、何度も何度も重なる唇は、夜が明け、王を呼びに部下が訪れるまで離れることはなかった。

 

 End.Humain en forme d'ange =〈仏〉天使の姿をした人間)
 2017.9.24