白い。カイは見覚えのない白い景色の中に立っていた。足を踏み出す。かつ、と自分の小さい足音が耳に届く。白い壁に、白い扉。カイはゆっくりと足を動かし、誰も通らない廊下をひとり歩いた。
 突き当たりに硝子張りの扉があった。取っ手に手をかけ、扉を開く。その先には雲一つない青空が広がっていた。外へ出た途端、急に無数の騒めきが鼓膜を揺らした。たくさんの人がいる。皆、柔らかい笑顔を湛え、各々楽しそうに話に花を咲かせていた。
 碧く生い茂る緑が風に揺れる。カイは澄んだ空気を深く吸い込んだ。ふいに白が視界を掠め、揺れる白を追うように首を巡らす。
 ……白衣?
 カイはここは病院だろうかと首を傾げた。それにしては広いし、皆病気を抱えているようには見えない。
 不思議に思いながらもカイは足を動かした。黒みがかった髪が見えた。その髪が短いことに何か違和感を覚え、カイはその人物が座るベンチへと足を向けた。カイが近づくより先に銀糸を揺らす男性が男へ近づいた。長い前髪は目もとまで覆い、顔はよくわからない。それでもどこかで見たような、まったく知らないような、曖昧な感覚が沸き立ち、カイはその場に突っ立ったまま、二人の姿をぼんやり見つめた。
 何か二、三、言葉を交わし、表情の見えない男性が去っていく。ディープブラウンの髪をした男が一人ベンチに残された。今度こそ声をかけようと、今一度足を踏み出したときだった。

「フレデリック!」

 快活で明るい声が背後から聞こえた。カイが振り向くより先に、女性がカイを通り越してベンチに腰かけた男のもとへ駆けていく。アティックローズの髪を靡かせ、女性は男のもとへと踊るようにして駆けた。その女性を迎えるように男が立ちあがる。薄い唇は女性を見止めて柔らかく弧を描いた。男が女性に身体を向けたおかげで、その顔がカイの正面に見えた。その容貌を正視して、カイは大きく目を見開いた。
 シャープなフェイスライン、筋の通った鼻、下唇の厚い唇。大きく突き出た喉仏も意外と長い睫毛も、そのすべてに見覚えがある。ただひとつ、双眸を彩る色彩だけが知らないものだった。

「じゃーん、見てみて」
「んだよ」
「今流行りのデルネミのコールドカッツ・サンドイッチ! 買ってきちゃった。一緒に食べましょう?」
「普通じゃねぇか」
「でも流行ってるの」
「お前はそうやってすぐ流行りに便乗しやがる」
「いいじゃない。今この時代を生きてるって感じがして」

 その声までも聞き覚えがあった。カイは大きく見開いていた目をくしゃりと歪めた。
 聞きたくなかった。見たくなかった。さっきまで自分の意思で動いていたはずの身体が、なぜか石のようにぴくりともしない。

「フレデリックはどっち食べる?」
「あー…じゃあ俺は――

 嫌だ嫌だ嫌だ。
 カイは引き攣ったように喉を動かし、泣きそうに顔を歪めた。
 フレデリック。女性が温かい情を乗せて呼ぶ。それが堪らなく嫌だった。
 違う。その男はそんな名前じゃない。違う違うちがう……!
 どこまでも広がる青空の下、風になびく緑の自然の中、カイの目に映る男女は目を合わせ、幸せそうに微笑っていた。
 いやだ、ちがう、嫌だいやだいやだ……! その男は、そいつの名前は――…!





――っ、ソルッ……!」

 カイは悲鳴をあげるように叫び、飛び起きた。
 激しく肩を上下させ、荒い呼気を吐きながら呆然と虚空に漂わせた瞳が明瞭になっていくのを待った。何が起きたか理解できなくて、壊れた人形のように拙い動きで辺りを見渡す。そこには見知った自室の光景があった。
 段々と明瞭になっていく意識の中、乱れているシーツを無意識にさぐる。カイが意識を失う前まで己を組み敷いていたはずの男はすでにいなかった。さぐったシーツに温もりすら残さず。

「ぁ、あ……ア……」

 カイは引き攣った声をあげた。それは異常をきたした機械人形のように歪に響く。
 あんなもの、ただの夢だ。慈悲なき啓示の事件の折、カイは図らずも断片的ではあるがソルの過去を知った。だからそれを含み、カイが自分が持ち得る知識と感情で自分勝手に形作った、ただの幻想に過ぎない。それでも。

「っは、は……、」

 カイは狂ったような笑声を漏らした。強張り、蒼褪めた顔で唇を歪さませた表情は気が触れているようにも見える。

「わた、し……私はッ……!」

 カイは吐き気を催して、口もとを押さえた。
 知ってしまった。気づいてしまった。今まで知らなかった自分の感情を。
 嫌だった。どうしようもなく嫌だった。見たくなかった。聞きたくなかった。それはあの男にかけがえのない友人がいたことにではない。心の底から愛する女性がいたことでもない。

「……ァ、…ァア……」

 カイはずっと、あの男が、誰よりも残酷な運命を懸命に生きてきた男が、これ以上苦しまなければいいと思っていた。辛い思いをしなければいいと思っていた。いつか、心の底から幸せだと笑える日が来ればいいと思っていた。
 でもそんな思い、嘘っぱちだった。そんなこと本当は思ってなんかいなかったんだ。だって私は、あいつの本当の幸せを願っていない。
 カイは頭を抱え、嘆いた。自分がひどく汚らわしく、気持ちが悪く、残酷な存在に思えた。

――……ッ、」

 音にならない悲鳴をあげたカイの周りに、青白い雷が激流のようにうねり始めた。
 姿見が視界に入る。そこに映る自分の姿は当然見慣れたものだった。けれどカイにはひどく醜い化け物に見えた。ガシャン、とけたたましい音を立てて鏡が粉々になる。
 カイは嫌だったのだ。
 あいつが……『ソル』が――『フレデリック』であることが。



 尋常じゃない轟音が響いて、王の自室の外にいた衛兵は血相を変えた。

「カイ様!?」

 大声で呼びかけ激しく扉を叩いても、中から返事があることも王が出てくることもなかった。側近は失敬を承知で扉を強引に開けた。踏み込もうとした先で青白く光る何かがバチリと嫌な音を立てて息を呑む。いつも綺麗に整頓されていたはずの王の部屋はそこら中のものが散乱し、あるいは破壊され、無惨な状態になっていた。
 咄嗟に王の姿を探す。

「っ、か、カイ様……」

 王は部屋の隅で膝を折り曲げ、頭を抱えるようにして蹲っていた。薄い肩がガタガタと異常なほどに震えている。だが近寄ろうにも部屋の中にはカイの放つ法力が奔流のようにうねっていて、近づくことすら出来なかった。

「何事ですか?」

 背後から聞こえた清らかな声に衛兵は弾かれたように振り返った。

「お、奥方様……」

 カイに近しい部下にだけ存在を知らされていた王の妻が不思議そうに無垢な赤の瞳を瞬かせている。

「カイさんに何か?」

 言いながら部屋を覗き込んだ王の妻は、大きく目を見開いた。少しの間、尋常ではない光景に息を呑み固まっていたが、深い息を吐き出し、衛兵を振り返った。

「離れてください。扉を閉めて、私がいいと言うまで開けないでください」
「え? で、ですが……」
「このままでは危険です。力が暴走しています。カイさんは……王は何よりも誰かを傷つけることを怖れているはずです」

 ぐ、と押し黙った兵は素直に頷き、部屋へと入っていく王の妻の姿を見送った。


 ディズィーはゆっくりと青白い光の中を歩いた。怖くはなかった。その光が自分を傷つけないことを知っていたから。
 カイの前までたどり着き、ディズィーは隠していた二対の羽根を大きく広げた。両腕と共に震える夫の身体を優しく抱き締める。

「カイさん」
「ッ……わたし、……」

 顔をあげたカイのいつも強い光を湛えているはずの蒼碧は、闇を覗き込んだように虚ろだった。

「……わたし、は……っ、残酷で……最低な、人間なんです…」

 懺悔するように、カイは吐き出した。



「何してんだ」

 ソルは疲れ切ってぴくりとも動かずに眠っているカイに、飲み物くらいは用意しとくかと取りに行き戻ってきた王の自室の前で、気もそぞろに右往左往している兵の姿に怪訝な声を投げかけた。

「そ、ソル様……!」
「何してんだよ? カイはもう出てったのか?」

 兵はぶんぶんと異常な様子で首を振り、事の顛末を説明した。
 ソルは要領を得ない兵の言葉に眉を顰め、とりあえず扉に手をかけた。急に何があったか知らないが、とにかく様子がおかしいらしい。

「あ! お、お待ちください! 奥方様がいいと言うまで開けるなと――

 兵の制止を意に介さず扉を開けようとしたソルは、人では聞き取れないはずの室内の声にぴたりと手を止めた。人より遥かに優れた聴覚に届いた声にソルは息を呑み、その場に立ち尽くした。



「ッ私は……あいつがこれ以上苦しまなければいいと思っていた……っ、これ以上辛い思いをしなければいいと……そして、いつか幸せを掴めればいいと……でもッ、そんなこと、ただの綺麗事に過ぎなかった……気づいてしまったんだ………私は…わたし、は………あいつが、ソルがっ……『ソル・バッドガイ』でよかった、って……ッ、『ソル』じゃなきゃ嫌だって思っている……!」

 人形のように色のなかった蒼碧が激情を湛えた。

「でもソルはっ、『ソル』じゃ幸せじゃない…! あいつの本当の幸せは、『フレデリック』として人間の生を生きることです……っ、ギアに改造されることなく、大切な友人と、愛する女性と、ありふれた日常を送ることです……! 私が本当にあいつの苦しみを嘆き、幸福を望んでいるのなら、それを心の底から願うはずなのにッ…たとえそれがもう手に入らないものだとしても……そうであったらいいと思えるはずなのに……! 私はそんなこと思えない! 願えないっ……! だって『フレデリック』は――

 空の青と自然の緑がせめぎ合う瞳から、涙が溢れ、滑らかな頬を伝った。

「私と出会ってくれないッ……!」

 悲痛に塗れた、耐え難い責め苦を負っているかのような叫声だった
 例えば、過去を巻き戻すことが可能だとする。それでひとつ過去を変えていいよと言われたとする。私はソルが人ならざる何か別の生き物になることを阻止しようとは思えない。だってそうしてしまったら……――ソルが、人間だったら……私はソルと出会うことはない。私が生まれるよりずっと前にソルは寿命を終える。
 それはソルにとっては幸せなことだ。他人にはおよそ理解できないほどの大きすぎる苦しみを背負い、気が触れんばかりの長い時を生き、たくさんの命を見送り、愛する女性を自らの手にかけ、傷だらけになって、化け物になる恐怖を抱え、……そんな残酷な運命を一つも負わなくていいのだ。それが本当の幸せだ。……いや、それが本来ソルが得るはずの、誰もが当たり前に享受する〝普通〟の姿だ。
 それなのに、カイはそれを願えない。これっぽちもそれを願っていない。口では苦しまないでほしいと、助けを求めてほしいと言っておきながら、ソルの〝普通〟をほんの少しも願ってすらいなかった。

「っ、最低だ……気持ち悪い……こんなのッ、私が……わたしが本当のバケモノだ……!」

 許されない。真面な人間はこんなこと思わない。表面上いい顔をして、悪魔のような醜さを覆い隠しているだけの、最低な化け物だ。
 沈黙がおりた。カイは自分の醜さを嫌悪し、丸く弧を描いているはずの爪で血が滲むほど自身の身体を掻きむしる。どうしようもなく汚らわしい存在に思えて、自分の身体を傷つけることをやめることができなかった。その手を細く温かい手が包み込んだ。

「ッ……」
「カイさん」

 顔をあげることができなかった。愛していると思っていた人間がこんな醜い生き物だと知った彼女の顔を見ることが怖ろしくて。しかし、彼女はカイが顔をあげないことを許してくれなかった。温かい手のひらがカイの両頬を包み込む。少し強引な力でくい、と顔を上げさせられた。
 そうして見えた妻の顔は、非難するでも悪魔を見るような顔でも嫌悪するでもなかった。ただ柔らかく微笑んでいた。

「勘違いしていますよ」

 ディズィーは優しい声音で告げる。理解できないカイにさらに微笑を深めて続けた。

「カイさんがそう思うのは、あなたがソルさんを愛しているからです」
「……あ、い…?」

 カイは何か知らない言語でも聞いているような顔をして、しばらく沈黙したあと、嗤おうとして失敗したみたいな歪な表情で喉を震わせた。

「なにを…言ってるんです……私は、あいつに……苦しめ、と……辛い思いをしろと……ギアであれ、とッ……! そう思っているんですよ!?」
「違います」

 間髪入れずに否定したディズィーは言い聞かせるように続ける。

「あなたはちゃんと、ソルさんがこれ以上苦しまなければいい、辛い思いをしなければいいと、心の底から思っています」
「ちがう! 私はッ、」
「思ってます。人の気持ちは一つに集約できるものじゃない。簡単に表せるほど単純ではありません。それを私はあなたから教わりました」
「………………」
「あなたはただ、失くしたくないだけです」
「え……?」
「例え、ソルさんが苦しんでも、辛い思いをしても、哀しんでも……例え、あなたがソルさんに傷つけられようと、あなたがソルさんを傷つけようと、それでも。どんな状態であっても、ソルさんを失くしたくないと思ってる。そこに……あなたの目が届くところに在ってほしいと、そう思っているだけです」
「あ……」

 カイは呆然と目を見開いた。

「確かにそれはある一面から見れば、残酷でひどい感情です。苦しんでもいい、傷ついてもいい、悲しんでもいい、と……」
「っ、そんなものが愛のはずがないじゃないですか…!」

 ディズィーは首を横に振った。この人は綺麗な愛しか知らないのだと、無垢な清い心が、美しい愛だけを受け入れて、それ以外を拒絶している。

「その人にただ幸せになってほしい、苦しまず、哀しまず、ただ幸せに……そんな愛情には欲が一つもない。それは、神さまの愛です」
「っ…!」

 カイはハッとしたように瞠目した。

「あなたはソルさんを、天使さまのようにただ慈しんでいるわけじゃない。我が儘に、人間として、求めているんです」
「……わがままに…人間として……」
「絶対に失いたくない、そこに存在していてほしい、だから苦しんでも辛くても痛くても、お願いだからそこにいて、って……そう思ってる。それは醜くも汚らわしくもない。だってそれはつまり、」

 ディズィーは大輪の花が綻んだような笑顔を浮かべた。

「大好き! ってことです」

 呆然と見開かれた青緑は、次の瞬間には泣きそうに歪められた。
 ディズィーは堪らなくなって、カイをぎゅうっと抱き締める。

「もしあなたが醜く、残酷で、悪魔のような人間だと言うのなら、私も同じです。だって私も嫌ですよ? あなたに出逢えないのも、〝今の〟お父さんと出逢えないのも」

 腕の中から聞こえる噛み殺した小さな嗚咽にディズィーも瞳を潤ませ、抱きしめる腕にさらに力を入れた。
 天使になりきれない〝希望〟が泣いている。
 たくさんの人に純粋な祈りを込めた愛を注ぐこのひとが、我が儘で優しさを欠いて少し狂暴な、そんな愛を捧げることができる幸福に微笑む。その相手が〝人間〟ではないことはディズィーにとって眩しすぎる奇跡だった。そこにお父さんがいて、自分がいて、シンがいて。その奇跡に、ありったけの幸せを詰め込んだような顔でディズィーは微笑った。