TOP > Guilty Gear > Sol x Ky > Novel > Humain en forme d'ange > 03
あまり品のよくない酒場に入ると、複数の視線がカイを捉えた。目深に被ったフードのおかげで顔は見られていないと思うが多少警戒を強めたとき、視線に入った人物にすべての物事が頭から消えた。思考を占めるのは、ただ一人の男だけだ。
「見つけた」
カイがそう喉を震わせると、カウンター席に腰かけていた男の肩がぴく、と大袈裟に反応した。「彼と同じものを」とマスターへ伝えてから男の隣に座る。男は決してこちらを見ようとはしなかった。
「驚いたか? 休暇を貰ってな。誰かさんの所為で、私があまりにも落ち込んでいたから城から追い出されてしまった」
男はまだ何も言わない。
「知ってるだろう? 私はお前を見つけるのが得意なんだ。まあ、正直本当に見つけられるとは思ってなかったけど。シンはどうした? 宿にいるのか?」
カイは眼前に置かれたショットグラスをちびりと口にして顔を顰めた。とても美味しいとは思えなかった。何か薬でも飲んでいるみたいだ。ほとんど酒を嗜まないカイには進んで口に運ぼうとは思えなかった。
よくこんなものが飲めるな、と思いながら横の男を見たが、カイの存在など目に映らないとでもいうかのように何の動作も起こさなかった。
ぐ、と唇を噛み締める。グラスを持つ手が微かに震えていることが情けない。覚悟を持って来たつもりだった。見つけたと嘯いたけれど、何てことはない。シンからの連絡で男の居場所を知っただけだ。
あのとき、シンが「俺のことも迷惑だってことか」と叫んだとき、男が肯定するまでに少しの間があった。あの一瞬、機械のように表情のない男の顔が微かに歪んだのをカイは見逃さなかった。
この男は何も言わない。だからカイも何も聞かなかった。気にはなっていたけど、とても聞くことなんて出来なかった。ギアの刻印を額に刻む男は、いつも前だけを見ていた。辛いとも苦しいとも哀しいとも、表情にすら出さないで、たった独り、前だけを見つめて生きていた。その赤茶の瞳に色濃く根付く悠久の孤独を、自分ごときが癒せるとは思っていない。どう足掻いても付き纏う種の違いで、カイは男の孤独を絶対的に癒せない。でも、ディズィーやシンがいる。自分は無理でも、彼らならば。
カイはぐっと拳を握り締め、深く息を吐いた。カイが彼にできることなど一つくらいしかない。かつて、教会で項垂れていたカイに男がしてくれたように。
「戦え、ソル」
何の算用もなしに、ぶつかってきてほしい。それが鬱憤晴らしだろうが、憎しみだろうが構わない。それで少しでも気が晴れるなら。また真っ直ぐに前を向けるなら。戦いばかりに明け暮れてきた私たちは、それで十分なはずだ。何も聞かなくても、何ひとつわからなくても、刃を交えれば心緒が伝わる。その胸懐の明細までわからなくても、また真っ直ぐに互いに向き合えるはずだから。
男はようやくカイを見た。その双眸が微かに揺れたことに驚く。
「やめろ」
静かに、けれど有無を言わせないほど強い響きだった。代金を置いて立ち上がったソルが背を向ける。
拒絶されたことに息が詰まる。けれど、その拒絶が酷薄な否定ではなく、「やめてくれ」と願っているようにカイには聞こえた。
「もうテメェの顔なんざ見たくねぇんだよ」
「ッ待て、ソル!」
去っていこうとするソルの腕を反射的に掴む。
「触んなって言ってんだ…!」
空を切る音が聞こえるほど勢いよく振り払われて、じんと手が痛んだ。だがカイはその痛みよりも触れた体温に驚いて目を限界まで見開く。熱い。体温が異常なほど熱かった。
「……ソル、どうして」
気づかれた、と苦虫を噛み潰したような顔をしたソルの形の整った唇から覗いた犬歯が異様に鋭く見える。まるで、牙……みたいな。
カイはひどい不安に苛まれながらもソルの顔に手を伸ばした。だが手が届くより先にソルは背を向け、去っていく。慌てて追いかける。
店の外に出たとき、ソルの姿はもうどこにも見当たらなかった。それでも微かに残るソルの気配を追う。ソルは本来なら完全に気配を消すことが可能なはずだ。もし、それすら制御できない何かに苛まれているのだとしたら。
炎の気配を追って路地裏に入ったときだった。ドクンと大きく心臓が跳ねた。
「ッ、え……な、に……」
急に力が入らなくなって、カイはその場にかくんと崩れ落ちる。視界が霞む。状況を把握しようにも全く見当がつかない。
崩れ落ちたカイのもとへ数人の足音が近寄ってきた。顔を隠すために深く被っていたフードを取られる。抵抗しようにも碌に身体は動いてくれなかった。
ひゅう、と誰かが口笛を吹いた。
「マスター、まじかよ」
「ああ。まさか護衛もつけずにいるとは思わなかったがな」
……マスター?
ぶれる視界の中、どうにか捉えた人物は酒場のカウンターの中にいた男だった。まさか、とカイは鈍くなっていく思考の中で苦く歯を噛み締めた。あのとき出された酒に何か混ざっていたのかもしれない。迂闊だった。
「っ…、」
ぐっと強く髪を引っ張られ、無理矢理顔を仰がされる。
「おー、まじで連王様だぜ」
「画面越しで見るよりいい面してんじゃねぇか」
下卑た笑声があがった。肩あたりまで伸びた金糸を浅黒い節くれ立った指先が絡め、下品な動きで弄ぶ。する、と首筋を撫でられて、その気持ち悪さに悪寒が走った。ぱち、と青白い光がカイの周りを駆ける。驚いたように騒めいた男へ法力を浴びせようとしたが、鈍った思考と動かない身体に調整が利かなそうだった。いくらよろしくない連中であったとしても命は奪えない。
カイが躊躇っているうちに、何も起こらないと判断した男たちがまた手を伸ばしてきた。普段身に着けている仰々しい装束ではない私服は、容易く破かれた。カイは動かない身体をだらりと投げ出しながら、湧き上がってくる怒りの衝動に支配されかけていた。
なんで、どうして、と子どものように胸中で喚く。戦争はとっくに終わった。あのそこら中に息をしない身体が転がっている悲惨さはもうない。恐怖で気がおかしくなりそうな中、必死に魔獣から逃げる必要はない。息を殺して隠れる必要も、また。あの頃に比べれば世界は大分平和になった。それなのにどうして、誰かを傷つけようだなんて思う。人はどうして過ちを繰り返す。
『……業だ』
いつかの、ソルの声が答える。ギアがある限り終わることがないと彼は言った。
違う。これが業ならば、ギアがある限りではない。〝人間がいる限り〟だ。私はもう知っている。今眼前にいる人間たちより、人を傷つけることを怖れる優しいギアを。
(……ソル。お前が化け物だと言うのなら、人間のほうがよっぽど――)
「何してやがる」
獣が唸るような声だった。誰が発したのか理解するより先に、ぶわりと熱い空気が辺りを迸る。
「っ、だめだッ…!!」
強力な法力の気配を察知して、カイは反射的に動かない手をどうにか宙に翳した。次の瞬間には辺りを埋め尽くすように強大な炎の柱が立ち昇った。
肌を突き刺すような熱風の中で目を開ける。カイが男たちの命を守ろうと反射的に展開した結界は、しかし役目を果たしてはいなかった。男たちに向かったと思った炎は、ぎりぎりのところで横へ逸れていた。無機物の焦げた臭いと熱風があたりを漂っていたが、それは誰も傷つけてはいなかった。
よかったと安堵したのも束の間、目の前で腰を抜かして異常なほどに震えあがっている男たちを訝しげに見やったカイは、彼らの視線の先を追って目を見開いた。
「ぐ、が……うあ、アア……」
炎を放った男がそこにはいた。人とは思えない獣のような呻きが夜の路地裏に響く。
「……そる」
ソルだ。ソルはカイを助けようとしてくれた。でもソルがカイを見つけた最初の瞬間から様子がおかしいことには咄嗟に気付いていた。助けるにしても、普段のソルならば法力を使うまでもない。その武力をもって容易く伸すことが可能なはずだ。それでも辺りを漂う熱風の出処は間違いなくソルだった。
カイは呆然とソルを見上げた。月明かりに照らされた男は、何かから逃れるように喉を掻きむしって暴れている。その腕の所々が硬化していた。いつも額を覆っているヘッドギアは千切れて無惨な形で地に落ちている。長いブラウンの前髪から覗く額には赤い刻印が煌々と光っていた。
「ウ…アア……グ、ガアア…!」
ソルは左手で今方炎を放った右手を押さえていた。……ソルは必死に炎の行く先を逸らしたのだ。男たちの命を奪わないために。
硬化の進む右手の先が鋭く尖る。熱風がうねる。徐々に赤黒く硬い皮膚の範囲が広がっていく。額から角のようなものが覗く。頭部から二対の羽根のようなものが生えた。
「ひぃっ」
現実離れした光景に思考がやっと追いついた男が短い悲鳴をあげた。それにつられるようにして恐怖に慄く叫声が続く。
「うわああああ!!」
「っ、バケモノだッ…!!」
男たちはつんのめるようにしてその場から逃げ出した。その姿をカイは無感動な瞳で見やった。
……なんで。どうして。彼を化け物だと思えるのだ。
「グアア……う、う…やめ、ろ……ウ、ガア、ア…」
カイの視界は唐突にぼやけた。堰を切って溢れた涙が頬を濡らす。
徐々にソルの姿が変貌していく。大きく頭を振り、血が滲むほど歯を噛み締め、己の身体を掻きむしるソルにカイは心臓が焼き切れてしまいそうな悲痛を感じた。
ソルは必死に抗っている。迸る衝動に飲み込まれまいと。
その姿のどこが化け物だというのか。気が触れそうな衝動の中、必死に他者を守ろうとした彼の、どこが。
カイはいまだ薬で痺れている身体をどうにか動かした。這いつくばる無様な体勢でソルへと近づく。ようやくたどり着いたソルの足もとで彼の姿を仰ぎ見る。足はすでに鋭い爪が生えた獣のような形になっていて、筋肉が隆起した足も肌色ではなくなっている。赤く光る足にカイは必死にしがみついた。
「ソル、ソルっ…!」
叫ぶように呼びかけた。ソルの意識が呑み込まれないように。戻って来られるように。涙で滲む視界で掠れた声を必死に張り上げ続けた。
どれくらいの時間が経ったかはわからない。長かったのか短かったのかすら。ただ急に肌を刺すような熱さを感じたと思った次の瞬間には、自分の身体が宙に浮いていた。
「ぐっ…ぅ、」
背中を強く壁に打ち付けた。重力に従った身体がずるずると地にずり落ちていく。そこでようやくソルに突き飛ばされたのだと気付く。
「ウォォオオオオ!!」
劈くような咆哮があがって、痛みに呻いていたカイは弾かれたように顔を上げた。黄金に光る瞳と目が合った気がした。完全に姿を変えたソルが後ずさったと思ったら、カイから背くように踵を返した。
「っ、ソルッ…!」
咄嗟に叫んだカイの声にソルの足がぴたりと止まった。
さっき突き飛ばされた意味に気付いたカイは、もう止まりそうにない涙をさらに溢れさせた。ソルはカイを遠ざけたのだ。自分から守るために。最近カイに冷たくしていたのも同じなのだろう。強くなっていくギアの衝動に気付いて、遠ざけようとしたのだ。こんなふうになる前に。
「いやだ」
カイは突き飛ばされ、地面にずり落ちたままの姿勢で涙に濡れる声をあげた。
「いやだ、そる」
赤黒く光る背中を見つめて震えた声を投げかける。
「私はっ…お前が言うように融通が利かなくて、頑固だし、こうだと思ったら突き進むことしか知らないし、いまだにお前に子ども扱いされるくらいには大人になれていないし、自分の息子ひとり上手く愛せないし、嫌われてしまうし、守ると誓った妻を危険に晒すし、国民どころか家族すら守れなくてお前を頼ってしまうし……勝手に好敵手にして、勝手に恨んで、勝手に追いかけて……ッお前にとっては本当に迷惑かもしれないけど…っ、けどもういやだ……! お前の苦しみひとつ……痛みひとつにも気づけないわたしなんて頼れるわけないだろうけど……でも、もういやなんだ……お前がひとりで苦しむのはッ…! もういやだよ、そる……」
カイはふらつく足でソルに近づき、熱い気が渦巻く身体に躊躇いなく抱きついた。びく、とソルの身体が揺れる。
「何でもするから……辛いって、痛いって、苦しいって……ッ、たすけてって言ってくれ……!」
そのカイの行動は無意識の衝動だった。身体を離してソルを強引に振り向かせ、鋭い牙が覗くところへ唇を押し付けた。硬い皮膚がカイの温もりすら跳ね返しているかのようで、どうか伝わってくれと炎を感じる熱いそこから唇を離さなかった。
ぐっと背中に太い腕が回る。少しだけ身体を離されたと思ったら、カイの眼前に闇へ誘うような大きい口があった。ぬちゃ、と多量の唾液が垂れる獣のようなそこは鋭利な刃に似た歯列を湛えている。
「――ッうあああ゛……!!」
カイの絶叫が夜の街に谺した。
肉の裂ける音が聞こえる。ドクドクと流れる血の感覚に意識が段々と薄れていく。カイはだらりと落ちた左手をどうにか動かした。ほとんど音にならない声で詠唱する。
理性をなくした獣の金色が無感情にカイを見ている。魔力を纏っているかのように赤く光る身体と周りを漂う炎がゆらりと動いた。
ぽつぽつ、と音が聞こえたと思ったら冷たい雫が空から降ってきた。カイの白い肌を彩っていた赤が雨によって流されていく。貼り付く前髪の間から見えた魔獣の硬い皮膚は、雫を少しも吸い取ることなく流れていた。痛みに震える手のひらで硬い頬を包み込む。金の瞳の眦をそっと撫でた。赤黒い肌を滑り落ちていく雨は、涙のように見えた。
大丈夫。おまえのこの姿は誰にも見せない。これは。これ、は……わたしの、もの。
カイは狂気に似た思考の中、展開した結界の中の二人だけの世界でうっそりと目を閉じた。