シンを王城まで迎えに来たソルは、養い子の隣に立つカイの姿を見て思い切り顔を顰めた。それにシンが片眉を上げるのと同時に、カイはわざとらしい笑顔をにこりと作り、首を傾げる。

「なんだ、その顔は」

 仏頂面に凶悪な不機嫌を乗せたソルの表情に、カイは尻込みしそうになるのをどうにか抑えて毅然とソルを見据えた。

「言いたいことがあるならはっきり言え。……私が何かしたのか?」

 ソルは少しの間を置いて、「……いや」と首を振った。

「じゃあ何なんだ。その態度は」
「何でもねぇよ。…シン、行くぞ」

 それだけ言って踵を返したソルに、慌てて腕を掴む。このままでいるのは嫌だった。ソルが何も言ってくれなければ原因すらわからない。そんな不甲斐なさと拒絶されているかのような状態にカイは焦っていた。

「っ、触んじゃねぇッ…!」

 掴んだ腕は次の瞬間には勢いよく振り払われた。叩きつけられるような怒声が響く。そのあまりの剣幕にカイは息を呑み、押し黙った。様子を見守っていたシンもびくりと肩を揺らし、目を見開く。
 沈黙が場を支配する。それを破ったのはソルだった。

「シン」

 ソルはカイを一切見なかった。ただシンにだけ呼びかけ、行くぞと促す。
 まるで、ここにカイなんていないかのようなその態度に息を詰めていたカイは、呼吸することすら忘れたように顔を蒼白にした。
 ソルは何も言わない。早くカイの傍から離れたいというかのようにすぐに踵を返したソルに、カイは動けないままでいた。

「オヤジっ…!」

 ソルのあまりの態度に耐えかねたシンが叫ぶように呼び止めた。ぴたりと足を止めたソルの背にシンは怒りの眼差しを向けた。

「何なんだよ。カイが何かしたならはっきり言やあいいじゃねぇか! なんでそんなっ、」
「うっせぇな」
「ッ、」

 地の底から響くような声にシンが息を呑む。
 ゆらりと振り返ったソルを見てぞっとする。その顔は何の感情の色も湛えない人形のようだった。

「何か問題があんのかよ? 俺はテメェを預かるっていう約束は守ってんだろ。別に俺と坊やが仲良しこよしする必要はねェだろうが」

 ソルはいまだにカイを見ようとはしなかった。話しかけている相手はシンで、カイには言っていない。カイは臓腑を握り締められたかのような苦しさに襲われた。言いようのない恐怖が一気に押し寄せ、その気持ち悪さに手のひらで口もとを覆う。
 ソルにここまでの拒絶をされたことはなかった。確かに今までだって幾度も冷淡に突き放されてきた。追いかけていたのはカイで、それを煩わしがったソルは、いつも鬱陶しいという態度を隠しもしなかった。それでも、こんなふうに存在そのものを拒絶されているような態度を取られたことはなかった。
 温度のない顔で、温度のない声を発する養父に呆然としていたシンは、カイの薄い肩が何かを堪えて震えているのを見て、弾かれたように意識を明瞭にした。

「何でそんなこと言うんだよ……。今までは違ったじゃねぇかよ……ッなんで、そんな急に、」
「嫌になっただけだ」
「っ……」
「大体、昔っからいい迷惑だったんだよ。正義だ何だとぬかす融通の利かない小僧のお守りさせられるわ、勝負だ何だと追いかけ回されるわ、挙げ句の果てには化け物との間にガキ作って他人に預けるたァ、ホントいい度胸してるよな」

 温度のなかった顔に嘲りが浮かぶ。はっ、と嘲笑を浮かべたソルがやっとカイを見た。その赤茶の双眸はひどく冷たくカイを貫く。
 大きく見開かれたカイの青緑は硝子に罅が入ったかのように弱々しく揺れ、見て取れる恐怖が浮かぶ。何も言うことが出来ないまま凍り付いたカイは、ただ冷笑を浮かべ嫌悪を隠しもしないソルを見つめることしか出来なかった。
 少しの間を置いて、ソルの言葉をどうにか飲み込んだシンが強く拳を握り締めた。

「っ…ンだよ、それ……じゃあ、俺のことも迷惑だってことかよ!?」

 ソルは悲痛な叫びをあげるシンに残酷な返事を返した。

「……そりゃあな。でも約束は約束だ。行くぞ、シン」

 肯定を示すまでに一拍の不自然な間があった。そのことに気付いたカイがはっとするより先に、ソルは背を向けて歩き出していた。
 その背にシンは続かない。信頼と好意を寄せていた養父の言葉に凍り付いたシンは今にも泣き出してしまいそうな顔をして声を振り絞った。

「ッ行かねぇよ…! 迷惑だって言うんなら、おれはっ……」

 シンはそれ以上言葉を紡げなかった。これ以上喉を震わせたら、無様にしゃくりあげてしまいそうで。
 ぴたり、と一瞬だけソルの足が止まった。だがすぐに動き出して遠くなる背は勝手にしろと言外に告げていて、シンは強く唇を噛み締めた。

「シン」

 静かに、けれどソルへ向けた意識を引き戻すほどの力強さをもって呼ばれた名前に、弾かれたようにシンはカイを見た。
 ソルの態度に蒼白になっていたはずのカイは、もういつものように真摯で信念を強く宿す双眸に戻っていた。なんで、とシンが思うより先に細い指先が頬を撫でる。

「だめです、シン」

 静かな響きで咎められたシンは訳がわからず、ただカイを見つめる。

「ソルと共に行きなさい」
「っ、なんで…! あんなこと言われたら、おれッ――

 まるでカイからも拒絶されているような気になった。
 いやいや、と首を振るシンにカイは柔らかい声音で続ける。

「私のことはともかく、ソルがあなたのことを迷惑だと思うはずがありません。あれは本心じゃない」
「でもオヤジはっ……」
「お願いです、シン」
「……え…?」
「酷なことを強いていることはわかっています。あんな状態のソルのもとへ行けなんて……。でもお願いだ……どうか――

 カイの顔が泣きそうに歪む。シンの肩を掴んだまま項垂れるような体勢になったカイを見下ろして、続いた言葉にシンは目を見開いた。

「カイ様」

 第三者の声にシンとカイが同時に振り返る。公務の時間になっても訪れない王を迎えに来た部下は、静かに呼びかけただけで、尋常ではない空気にその場から動くことはなかった。だが王への催促は無言のままでも見て取れる。

「シン」

 縋るようなカイの眼差しに、シンはこくりと頷いた。

「わかった。オヤジと一緒にいる。連絡するから」

 安堵を浮かべたカイが部下のもとへ向かう。その顔はもう先までとは様変わりし、王様の顔をしていた。
 去っていく痩せ細った実父の姿は、まるで雁字搦めの鎖に囚われているかのようだった。スカートのようにはためく仰々しい装束の裾から見えた細い足には、きっと見えない枷が嵌められているのだ。透き通るような白い額を飾る王冠もまた、彼を縛り付ける枷のひとつなのだろう。
 大きい城に吸い込まれ見えなくなったカイの残像を追うように、しばらく立ち尽くしていたシンは唇を噛み締めて踵を返した。美しく壮大な城がシンには牢獄に見えた。その中に母も父もいるのだと思うと、気が触れてしまいそうだった。

『どうか、あいつの傍に』

 それは祈るように紡がれた。
 わかってしまった。カイは王様として民たちに心を砕く。全世界のほとんどがカイを素晴らしいモノだと認識し、希望と仰ぎ見る。そこに嘘はない。カイは人々のために心を砕くことを決して厭うてはいない。でもカイはこの現実世界に生きている。神様でも天使でもなく、希望の偶像でもなく、ひとりの人間だ。「第一連王のカイ様」である前に「カイ=キスク」という人間なのだ。カイにはカイだけの欲だってあるはずなのだ。人々のためにその身すべてを捧げているわけではない。だってカイは母さんと結婚した。それはカイ自身の欲求だ。母さんを愛し、共に在りたいと望んだ。その結果、弱みを握られてしまったわけであるけれど。
 ――どうか、あいつの傍に。
 その言葉の奥に隠されたカイ個人の欲求。本当は、カイがオヤジの傍にいたいんだ。でもそれは叶わない。王様は国民のもので、あの大きな城にいなくてはならない。
 時々、俺を見るカイの表情を不思議に思うことがあった。何か、太陽とか月とか、そんな手の届かないものでも見るような瞳をすることがある。あれはもしかしたら〝うらやましい〟っていう顔だったのかもしれない。あれは、オヤジの傍にある俺の居場所を、手の届かないものと認識し、うらやましいって思ってたんだ。
 オヤジとカイがどんな関係か、俺はよく知らない。ただ昔からの知り合いで、息子を預けるほどの相手で、オヤジはカイのことを〝坊や〟って呼んで子ども扱いすることくらいしか。でもオヤジの傍にいる俺は知っていた。オヤジがカイとの通信を切ったあととか、ほんの一瞬、びっくりするくらい優しい顔をすることを。
 あれだけ酷い言葉を浴びせられたのに、カイはオヤジへの信頼を欠くことはなかった。確かに絶望に似た表情をしていた。傷ついていはいた。でも、あの真摯で決然とした眼差しはオヤジを信じていた。
 そうだ。オヤジがあんなことを言うひとじゃないってことは俺だって知っている。本当に迷惑だって思っているなら最初から俺を預からないし、嫌だって思っているなら何も言わずにカイの前から姿を消すはずだ。
 オヤジは本当に必要なこと以外言わないから、こっちが勝手にこうだって思うしかない。だから誤解が生まれる。カイだってそうだ。大嫌いで仕方なかった父親。捨てられたと思っていた。でもそれは俺を守るためだった。守るために遠ざけたんだ。
 ……守るため?
 シンはハッとして駆け出した。ソルの気配を追って走る。
 そうだ。オヤジも守るために遠ざけようと思ったのかもしれない。