ソルカイ小話 『You're my Valentine.』
結構前から男性向けっぽいえろ(当社比)書くぞぉって意気込んで触手えろ書いてるけど、一向に書きあがらないのでバレンタイン小話書いてみました。二次創作始めてからことごとくイベント事を無視してきたので、全CP含めバレンタインの話を書くのは初めてです。これじゃない感がすごい。というか、ソルカイが全然絡んでいない話になりました。
そして、えろじゃないソルカイを全然書いていないことに今さら気づく。GGページがr18アイコンまみれじゃないですか……。まじか……。可愛い話が書きたかったけど、そんなの煩悩まみれの私に書けるはずがなかったです、文才が来い。
You're my Valentine.
何日目の残業だろう。警察機構本部の建物を出て、外灯がぽつりぽつりと灯る石畳を歩きながら、カイは小さく溜め息を吐いた。
疲労が溜まっている所為か、俯き加減で歩いていたカイの耳にカサリ、と紙が擦れるような音が届く。顔をあげると、スーツ姿の男性が大きい花束を抱えながら歩いていた。何度も真っ赤な薔薇の束を確認しながら歩くその姿に頬が自然と緩む。奥さんに渡すのだろうか。それとも恋人かな。知りもしない女性の花咲くような笑顔を想像して、ほっこりと胸が温かくなった。
先までの重い足取りがわずかに軽くなり、裾の長い外套を軽快に揺らして帰路につくカイの視界に馴染みの花屋が映った。きょとん、と目を丸くして首を傾げる。路上にまで花が置いてあり、列までできてる。普段はカイが帰宅する頃にはカーテンは下がっているし、そうそう花屋に列ができているところなんて見ることはない。
何でだろう、と思ったのも束の間、店先にある小さい懸垂幕を見て得心がいった。
『Saint Valentine's day』
「……バレンタイン」
すっかり忘れていた。花屋に並ぶ男性の表情が幸せそうなのも納得だ。
彼らが幸せな夜を過ごせますように、と小さく祈る。
恋人がいないカイとっては他人事のイベントではあるが、何だか幸せのお裾分けをもらったような気になった。しかし、頬を緩めて花屋を後にしたカイに待っていたのはお裾分けを遥かに凌駕する幸福だった。
我が家を視界に入れたカイの双眸が大きく開く。点いているはずのない灯りに、気がつけば駆け足になっていた。
「ソル!」
リビングの扉を開け放つと同時に確認もせずに叫んでいた。
「よお」
案の定、いるはずのない男が我が物顔でソファに座って雑誌を捲っている。数ヶ月ぶりに見る姿に頬が緩みそうになって、ハッとして慌てて顔を引き締めた。
「っ……よお、じゃない! また勝手にあがりこんで!」
これ見よがしに脱いだ外套をソファに投げつけたが、雑誌に落としていた視線をあげることなく片手でキャッチしたソルが背もたれに乱雑にかけた。こちらを見もしない姿につきん、と胸の奥が痛む。それを気づかないふりで、キッチンに向かおうと踵と返した。
最近、買い物にもろくに行っていないせいで貯蔵庫はほとんど空だった気がする……と、ソルの訪問のタイミングの悪さにむっとしながらダイニングテーブルを通り過ぎようとしたときだった。
テーブルを見てぎょっとする。ソルが訪問する理由は寝床確保と、あとは主に食事だ。大抵はカイが仕事でいない間に不法侵入しているソルだが、酒は勝手に拝借しても自ら料理をしない――無精で面倒くさがっているだけかもしれないが――ため、いつもカイが食事を作るのを待っている。それなのに。
ダイニングテーブルには一人分の食器があった。そう、食器だ。料理ではなく、明らかに食べ終わりましたと主張する一人分の食器が。
慌ててキッチンに向かってコンロの上の鍋を覗く。空だ。向かいの家に住む老年のご婦人が親切心で分けてくれたビーフシチューが跡形もなくなっていた。
「ソルー!」
「あ?」
ようやくソルが顔をあげた。いかにも面倒そうに首をめぐらせたソルはどこか満足そうだった。そりゃあれだけあったはずのビーフシチューを消化したのだ。お腹いっぱいで食欲は満たされているのだろう。
いつもだったら一緒に食卓につくのに。カイはぐっと唇を噛んだ。
わかっている。これまでがたまたまそうだっただけで、それを約束したわけでも、暗黙の了解と化していたわけでもない。夕食と呼ぶには遅い時間だ。いつ帰ってくるかわからない家主の手料理を待つより、ちょうどよくキッチンに置いてあった料理に手をつけるのは道理だ。それでも、なんだか。
なんだか、ソルの中での自分の価値が毛ほどもないのだと知らしめられている気がした。彼は金のかからない宿に泊まりにきただけで、カイなんかただの宿主に過ぎないのだ。むしろ帰ってこないほうがよかったのかもしれない。いつも小言をぐちぐちと浴びせかけられるソルからしたら、カイが残業で警察機構に寝泊まりしてたほうが幸運だったに違いない。
子どものように拗ねている自覚はあった。脳裏には花屋にできていた行列が勝手に浮かびあがってくる。今頃、彼らは買った花を愛する人に渡し、甘い夜を過ごしているのだろう。あの光景を見たときに感じた温かさが今はもう冷え切っていた。これは嫉妬だ。ろくでもない羨望。未来永劫、カイには決して訪れることのないバレンタインの甘い一日をあそこにいた人々は過ごしているのだ。
自分があまりに卑しく、安っぽい人間に成り下がったような気がした。あのとき確かに彼らの幸福を祈ったのに、今はもうこんな黒い感情に囚われている。
吐き気を催すような罪悪の中、カイはそれでも毅然と口を開いた。
「っ、私の夕食がないのだが!」
言いたかったのはこんな言葉ではなかったはずだが、飛び出た文句に安堵した。これでいい。
「知るかよ」
本当にこれっぽっちも興味がないかのように返されて、カイは思わず笑っていた。自嘲のそれを呑み込んで、さらなる非難をしようとしたのに、開いた口からは何の言葉も出なかった。
自分の夕食を取られたのだ。もっと文句を言っていい立場であるのに、もうそれ以上何かを言う気になれなかった。知るかよ、と答えたあのたった一言がすべてだ。カイはソルにとってそれだけの存在なのだ。
カイは口を噤み、踵を返した。こんなに惨めな気持ちなのに、食欲なんて湧くはずもないのに、それでもカイの身体は正直にお腹を鳴らした。忙しくてお昼さえ食べていないのだ。当然の反応だった。
キッチンに戻り、冷蔵庫を物色する。想像通り食べ物など入っているはずもなく、パタンともの寂しい音を立てて扉を閉めた。
お菓子でも食べればいいか、と棚を開ける。ピオニー・レッドの缶を取り出し、ワークトップの上で開ければ、ベティーズ・ドゥ・カンブレが覗いだ。ミントを混ぜ込んだ飴だ。いろんな色を湛えてころころと転がるそのメルヘンチックな可愛らしさに、わずかばかり気分が上向きになった。カラフルな飴の中から赤いのを取り上げ、口に放り投げる。ころころと転がしながら、カイはティーカップに手を伸ばした。
白いシンプルなソーサーに伸びた指先は触れる直前で不自然に止まった。その横には大して可愛くない何かのキャラクターが描かれた赤地のマグカップがあった。何かの景品でもらったものだ。いつだったか、何だったかすら思い出せない、それ。
使わないのはもったいないが箱に入れたまま未使用だったそれを取り出したのはいつだったか。確か、我が物顔で勝手に他人の家にインスタントのコーヒーを置き、これまた勝手に他人のカップでコーヒーを飲んでいた男が不注意でカイのカップを割ったことがあった。当然、喧嘩に発展したわけだが、そのあとだ。このいつ貰ったかも思い出せない景品の箱を開けたのは。
喧嘩後、時を経てソルが再び訪れた頃には喧嘩のことなど忘れていたが、客として招いたわけでもないのに勝手にあがりこんできた男は不遜な態度でコーヒーを要求した。渋々キッチンに向かって、そこでようやく喧嘩のことを思い出した。忘れていたはずの苛立ちが湧き、自分のカップを使う気が失せた。だからこれ見よがしに、彼にはまったく似合わない、何のマスコットだかもわからない可愛げのないキャラクターの描かれたマグカップにコーヒーを注ぎ、ソルに差し出した。お前専用のカップだ、と嫌味ったらしくにっこりと笑いかけて。思い切り眉を寄せ、嫌そうに可愛くないマスコットを睨みつけたソルだったが、何も文句を言わずカップに口をつけた。そこで拒否しないくらいには、カイのカップを割ったことを反省していたのだろう。
それから、そのミドルスクールに通う子どもでも使うのを躊躇うような安っぽいマグカップはソル専用のものになった。
カイはふいにそのカップを手に取って、ふっと眉を下げて微笑った。自分が使うティーカップも取り出し、並べて天板に置く。
慣れた手つきでペーパーフィルターをコーヒーメーカーにセットした。もうこの家にインスタントのコーヒーはない。コーヒーメーカーを買ったからだ。いつの日か、キッチンに置かれたそれにわずかながら見開かれた赤茶の瞳に、同僚にもらったと嘯いた。
一人分の豆を挽き、水をセットしたコーヒーメーカーを作動させた。最初は説明書を読みながら四苦八苦した操作も、馴染みのない黒い液体に大量に砂糖を入れて自ら消費したおかげで、今や勝手に手が動くほどに慣れた。
ぽとぽと落ちる液体から深みのある芳香が漂ってくる。カイはおもむろにポケットに手を伸ばした。取り出したのは銀紙に包まれた小さいチョコレートだった。
非常食というほどではないが、行き詰まったときに甘いものが欲しくなるために大抵持ち歩いているものだ。小さい果物ナイフを取り、ガサガサと銀の包みを開いて一口サイズのそれの端っこを削った。細かく細かく切り刻んだチョコレート。ほんのちょっと、指先にちょこんと乗るくらい少し。それを黒々と波打つ液体に落とした。端っこがちょこっとだけ欠けた大部分の残りをほいっと口に放り投げ、マドラーでマグカップの中をぐるぐる混ぜる。
男に似つかわしくない子どもっぽいマグカップを両手で持ち、カイは可愛くないマスコットにそっと唇を落とした。
ばれるはずもない、ほんの欠片。グラムを測るまでもない削り屑みたいなチョコレート。その欠片に届くはずのない想いを乗せる。
「You're my Valentine.」
喉を鳴らしたはずなのに、それはほぼ音にならないままにすぐに消えた。
伝えることはない言葉。……伝えてはいけない言葉。その気持ちが先だって、音になることはほとんどなかった。
〝Be my Valentine.〟でも〝Will you be my Valentine?〟でも〝From your Valentine.〟でもない。
この言葉だけが唯一、カイが発していいバレンタインのメッセージだった。
You're my Valentine.――あなたは私のバレンタイン。
コト、とローテーブルにマグカップを置くと、雑誌に向いていた赤茶の双眸が怪訝にカイを見た。
「ついでです」
カイはもう一方の手にあったティーカップをわずかに持ち上げて無表情で告げた。「紅茶が切れてて」と付け足して、黒い液体を一口飲む。砂糖もミルクも入れていないそれは、正直苦いだけで美味しいとは思えなかった。
カイはダイニングテーブルに歩みを進め椅子に座ると、ちびちびと苦い液体に口をつけながらソファに座るずっと追いかけ続けた背をじっと見つめた。
雑誌をめくる片手間に逞しい腕がカップに伸びる。似合わない赤いカップに少しかさついている唇が当たった。
カイは両手で抱えたティーカップを持つ指先にぎゅっと力を込めた。ドキドキと、鼓動が耳鳴りのように響いている。
こくん。太い喉の中央で喉仏が動くのが見えた。
飲んだ。ソルが飲んだ。
抜けるように白い頬にさっと朱が差す。緩みそうな口もとを隠すように、頬を上気させたカイはカップに口をつけてコーヒー煽った。
苦く熱い液体が一気に喉を通ったにも関わらず、無表情を貫いたカイはそっと席を立った。カップを片付けようとキッチンに向かう背に視線を感じて振り返る。大きい音を立てたわけでもないのに、こちらを見るソルに首を傾げた。
「なんだ?」
「……いや」
「シャワーを浴びたら私はもう寝る。ゲストルームなら使っていいが、もしまた窓を壊して入ってきたというのなら寝る前に直しておけ」
それだけ伝え、カイはすぐに身を翻した。
ただの自己満足だ。どこまでも独りよがりの。
帰り道ですれ違った男性が大事そうに抱えていた真っ赤な薔薇は一輪もない。普段と違う光景を生み出していた花屋に置かれた色とりどりの花も。そこに並ぶ男性たちが浮かべていた甘ったるい微笑みも。
それでもよかった。十分だった。だってソルがいる。すぐそこに。私の家に。あの削り屑みたいなチョコレートがソルの身体に呑み込まれた、それだけで十分だった。
今までで、一番幸せな二月十四日の夜だった。
***
「あー、終わんねぇっ!」
短い金糸を掻き乱しながらシンが天井を仰ぐ。
カイは資料に落としていた顔をあげて、ピンクフレームの眼鏡の奥の蒼碧を瞬かせた。うう、と幼子のように唸り、わずかに涙目になっている息子に困ったように眉を下げる。
どうやら、ディズィーに言いつけられた課題が終わらないらしい。当のディズィーは夕飯の支度のためにシンの傍を離れた。広いリビングに取り残されたシンを監視する役目はカイに言い渡された。持ち帰った仕事を置き、シンの手伝いをしようと腰をあげたカイが完全に立ち上がるより先に扉が開く。
強い音を立てて開かれた扉の先に逞しい体躯が覗いた。
「オヤジ…!」
救世主現る! といった感じで目を輝かせたシンに微苦笑する。ソルはシンには甘いのだ。ディズィーが戻ってくる前に答えを教えてしまいそうだ。監視役の務めとして、それは阻止せねばと口を開く。
「どうした、ソル。まだ夕飯の時間じゃないぞ」
「……ああ」
てっきりディナーのためにリビングに来たのかと思ったが違うらしい。
つかつかとカイのもとまで歩みを進めたソルが、ことりとティーカップを置いた。目を丸くして見上げると、真っ白いカップに注がれた紅茶に似た色の瞳は少し気まずそうに逸らされた。
どうぞ、とでも言うように目の前に置かれた紅茶に戸惑うのは必然だ。どういうことだろう。いまだかつて、ソルにティーカップを差し出されたことなどない。
「えっと……」
戸惑いが先立って、素直にありがとうの言葉が出てこなかった。
「……テメェの嫁に頼まれた」
ようやくカイは納得がいった。ああ、と頷いたのも束の間、しかしやはり首を傾げることになった。お茶の時間というには当然遅いし、もうすぐ夕飯なのに、どうして。それに。
「俺の分は!?」
そう、シンの分がない。
「…知るか」
ソルはそう言ったきり、さっさと部屋を出ていってしまった。
えー! と唇を尖らすシンの嘆きを聞きながら、ゆらゆらと揺蕩う濃い赤銅色を覗く。ふわ、と華やかな香りが鼻孔を擽る。そっと綺麗な曲線を描く持ち手に指を引っ掻け、カイは首をひねった。美しい白を輝かせるティーカップに見覚えがない。細かく描かれた花のレリーフが可愛らしく主張しているそれは、カイのコレクションにはなかったように思う。ディズィーが何か贈り物の箱から取り出したのだろうか。カイが紅茶好きなのは今や市井ですら知っている。茶葉でもティーカップでも贈呈品としてもらうことが多々あって、すべてを扱い切れるわけもなく、使われずにしまってあるものはたくさんあった。
そのうちの一つだろうと適当に納得して一口含むと、スモーキーさが広がり、重厚な渋味を感じた。ルフナだろうか。ほう、と熱い吐息を零し、深い紅色が揺れるのを見て頬を緩める。
ソルがわざわざ持ってきてくれたというだけで、いつもの倍美味しく感じるのだから現金なものだと苦笑していると、恨みがましいような視線を感じて顔をあげた。不満そうなシンにじぃっと見られていることに気づき、カイは唇を撓ませながら紅茶を片手に席を立った。
ソファに座るシンの横に腰かける。
「半分こ、する?」
と言えば、シンは一つの蒼碧を輝かせた。
カップを渡せば喜々として紅い液体を喉に流し込む息子を見ながら、幸せだなぁとぼんやり思う。
カイの手に戻ってきたティーカップに口をつけようとしたとき、「んん?」と不思議がるような声が届いて、カップをソーサーに置いた。
「シン? どうかしたか?」
「チョコレート」
「え?」
「チョコレートの味がする」
カイはきょとんと目を丸くして今一度紅茶に口をつけたが、それは見知ったルフナの味だった。甘さはない。そもそも癖のある苦味が特徴の紅茶なのだ。カイにはまったくチョコレートの味など感じなかった。
「気のせいじゃないか?」
「そうかぁ?」
シンがカイの手からカップを引っ手繰って口をつけ、うーん、と唸った。
もしかしたら隠し味的に入っているのかもしれない。ギアは味覚も鋭いのかも、と適当に納得していると、今度はシンがカップを持ち上げてじろじろ見ながら唸り始めた。
「今度は何だ?」
「これ、カイのか?」
「いや……たぶん貰い物じゃないかな。このティーカップがどうかしたか?」
「どっかで見たことある気がすんだよ」
「シンも陶器屋さんとか行くのか?」
「いーや、行かねぇ。オヤジも行かないし」
だろうな、と相槌を打ちながら、シンの勘違いじゃないかなと思う。似たようなティーカップならいくらでもあるし、さほど特徴的でもないこれに見覚えがあるというのはいささか不自然だ。
そんなことをつらつら考えてると、「ああっ」と大きい声があがった。
「思い出した!」
「うん?」
「いつだったか忘れたけど……結構前だな。サフォークに行ったときにさ」
「イギリス?」
「そう。どしゃ降りの雨がすごくて宿にこもってるしかなくて暇だったからテレビ見てたんだよ。んで、このカップが出てきた」
「確かか? 似たようなものならいくらでもあるぞ」
「いや、ぜってーコレだって! あのときオヤジがテレビをじっと見てたからよく覚えてる。珍しすぎて」
「暇だったんだろう?」
「いくら暇だからってオヤジが見るかよ。バレンタイン特集なんて」
「へ……?」
頭が真っ白になった。
シンの手の中に真っ白いティーカップがある。その中には濃い紅色の液体が揺れている。シンは言った。チョコレートの味がする。
何日だ。今日は、一体。
ギギギ、と壊れた玩具より鈍い動きでデジタル時計を見る。そこに表示されている数字は2と1と4だった。
いや、とカイは弾かれたように首を振った。バクバクと痛いくらいに早鐘を打つ心臓の期待するものをわかっていて、それを必死に否定する。だってあいつは言ってたじゃないか。ディズィーに頼まれたって。だから、シン曰くチョコの味がするらしいこれは愛する妻からのささやかなバレンタインの贈り物であって……偶然、そう偶然だ。シンが見たといういつかのテレビ番組のバレンタイン特集に出てきたティーカップだったのは偶然で。もしくはシンの勘違いで。
「あー、思い出した。これだよ、これ」
ソーサーにカップを戻したシンが白い側面を指先でなぞった。
「この花のレリーフ。アガパンサスっていう花で、ギリシア語のagapeとanthosが語源で愛の花っていう意味らしいぜ。それで花言葉が〝love letter〟。愛する人に贈るのにぴったり! って女のタレントが言ってた。オヤジがそんなテレビに食いついてるもんだから、おかしくってさー……――って、カイ、どした?」
シンはケタケタ笑いながら同意を求めるようにカイを見て、ぎょっとした。
抜けるように白い頬が真っ赤だ。林檎みたいになっている。宝石みたいな蒼碧の双眸はうるうると潤み、きゅっと唇を噛んでいる様は、まるで子どものように心許無かった。
ちがうちがうちがう。カイは勘違いしそうになる頭を否定するのに必死だった。身体は勝手に先走って、その勘違いを信じて反応しているが、頭だけは冷静さを失うわけにはいかなかった。
燃えるように熱い自分の身体を抱き、ふるふると首を振る。
ちがう。これは妻がいれた紅茶で。ティーカップは贈呈品にたまたあったからで。そんなはずはない。ありえない。あいつが、こんなこと……ありえない。
カイは唇を噛み、必死に期待する心臓を静めたが、一向に耳鳴りのような鼓動が小さくなることはなかった。
「カイさん」
家族四人での夕食を終え、ダイニングテーブルが料理の消えた皿だけになったときだった。
ディズィーが頬を上気させて、後ろ手にやった腕をカイの目の前に差し出す。その手に乗る可愛らしいラッピングがされた箱を受け取ると、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「Happy Valentine's Day」
嘘だ。
渡されてしまった。ディズィーからチョコレートを。
じゃあ、あの紅茶に気づかないくらいの量入っていたらしいチョコレートは彼女からじゃないというのか。
「シンにもありますよ」と母に渡されたチョコレートにシンが目を輝かせる。きゃっきゃとはしゃぐ妻と息子から視線を外し、ギギギ、と鈍い動きで隣に座る男を見る。恐る恐るやった視線に気づかないはずはないというのに、男はカイを見ることはなかった。ただ、ダークブラウンの髪から覗く耳が赤くなっていることがすべてだった。
無意識のうちに伸ばした指先に無骨な指が当たる。テーブルの下、大の大人の男ふたりの指先は、無様に汗をかきながらもきゅっと恥ずかしそうに絡まり合った。