04

 

 急激に浮上した意識に瞼を開ける。ぐらりと揺れる視界の先に天井が見えた。酩酊したような感覚にふらつきながら、身体を起こす。ゆらりと見渡したそこは見知った研究室だった。研究室のソファで横になっていたらしい。いまだ明瞭でない頭を押さえながら、どうにか考える。なぜ俺はこんなところで眠っていたのだろう。そう思いながら、顔を上げた視界に入った姿に目を瞬く。

「アリス…

 研究室の小さな窓に寄りかかるようにして外を眺めていたのは、十四年来の友人だった。呼びかけると彼は肩を大きく揺らして、どこか恐る恐るといった感じで振り返った。

「ひむら…」

 彼の声は小さく掠れていた。丸く大きめの目の周りが赤く染まっている。寝不足だろうか。脱稿明けにここまで来たのかいや、彼は俺に脱稿したと連絡をしただろうか――なんだ? どうしてか何も思い出せない。

「……火村、起きたん

 アリスがじっとこちらを見つめている。何か窺うようなその琥珀色に近い瞳は、追い詰められた罪人のように揺れていた。彼に似つかわしくないその表情にドクリと嫌なふうに心臓が音を立てる。

――寝不足か
「え…
「目が赤い」
「あ、ああ。そうなんや。なかなか執筆が進まなくてな」

 アリスはへらりと笑ってそう答えた。弧を描いた唇に目がいく。

「それ、どうした
「それ
「唇」
「うん
「切れてる」

 褐色のいい唇に赤い痕がついていた。

「……不摂生が祟ったんかな。乾燥で切れてもうた」
「へぇ」

 乾燥? 今の時期にか
 火村は唇を撫でながら、アリスを窺う。彼はゆらりと視線を逸らした。駄目だ。まるで頭が働かない。

「…変なことを聞いてもいいか、アリス」
「おん、なに
「俺は何でここで寝ていた

 なぜか少し間が空いた。けれどそれは一瞬のことでアリスがすぐに言葉を紡ぐ。

「……疲れてたんとちゃう君、最近大学の仕事が忙しい言うてたで。俺がここに来たときにはソファでぐったりしとったわ」
「…そうか」
「大丈夫か病院行く
「いや…徐々に回復してきた」

 床に足を下ろし、緩慢な動きで立ち上がった。なぜか肌がべたついている気がした。まだ汗を掻くほど暑くはないはずだが。眠っていたときに体温が上昇したか。それとも嫌な夢でも――。火村はハッとした。思わず視線を向けたアリスは心配そうにこちらを見ていた。その姿からすぐに目を逸らす。そうだった。最近夢を見るのだ。それはあの長年見続けている悪夢ではなく、甘美な、まるで己の願望が具現化したような浅ましい夢だった。その夢には今目の前にいる親友が出てくる。ただし親友ではなく、恋人として。ふたりは甘く熱く愛し合うのだ。甘美だが、それゆえに残酷だ。覚めてしまえば、決して夢のようにはならない現実が待ち構えているのだから。アリスの薄く開いた唇に目がいってしまい、慌てて逸らした。夢の中では何度も重ねたそこに現実で触れることはないのだ。
 デスクの前まで行く。なるほど、確かに忙しくしていたようだ。机の上はひどく乱雑にモノが溢れていた。その隙間を縫うように置かれたマグカップの中身を見て、ああそういえばと思い出す。寝不足だったのだ。もとよりぐっすり眠れるなんてことはないが、ここ最近さらに酷い有り様だった。よく質問をしにくる優秀な学生と――彼は社会学部ではなく法学部なのだが――「顔色悪いですね」「ちょっと寝不足でね」そんな会話をした。彼はその後、「これ不眠症に効くお茶なんです」といって、この研究室でそのお茶を何度か煎れてくれた。トケイソウだかカモミールだか、そんなお茶だった。――ああ、なぜかあまり思い出せない。こりゃ疲れてるな、と額に手を当てると、アリスが揶揄するように言った。

「火村先生も寄る年波には勝てないみたいやな」
「うるせぇよ、同い年。俺はちゃんと筋肉痛は翌日にくる」
「俺だってそうや
「三日後じゃないのか
「なんでそうなんねん
「有栖川先生は俺より老化は激しいだろ。普段の運動不足の差は大きいぜ

 ぐ、と言葉に詰まったアリスに悪戯に笑いながら、鞄を手に取る。

「もうこんな時間か。帰る」
「え、帰るん
「レポートの採点は持ち帰ってやるさ」
「さすが准教授サマ。お忙しいこって」
「そりゃ売れない作家よりはな」
「うっさいわ」

 適当に少しだけ片付けておく。

「アリス、下宿に来るか
「……いや、帰るわ。原稿進めなあかんし」
「そうか。…じゃあ何しに来たんだ
「え…
「婆ちゃんに会いにでもいくついでにこっち寄ったのかと思ったんだが」
「ああ…ちょっと図書館行っとった。どうせ来たから君の顔でも見てこうと思っただけや」
「へぇ」

 ちょっとした片付けを終えて、会話しつつ扉を開けようとしたとき、カチャと鳴った音に驚いて手を止めた。扉は開かない。

「おい、何で鍵かかってんだよ」
――…っ、」
「アリス
「…ほら、君疲れて寝とったやんあんまりぐったりしとったから、誰か来て起こされたら可哀想やなぁって」
「……突然気持ち悪い優しさ発動するなよ」
「気持ち悪いってなんや
「てっきり作家先生は俺に悪戯でも仕掛ける気だったのかと」
「おう、マジックで顔に落書きしようと思っとったんやけどな」
「随分古典的な悪戯だ。…おい、まさか本当にやってねぇだろうな
「さぁ、どうやろー

 にやにやと笑うアリスの頬をむに、と引っ張る。

「いひゃい」
「すれ違う大学職員に笑われたら責任取れよ」
「だったら、鏡見て確認して行けや」
「面倒くさい」

 なんやの、と笑うアリスにつられるようにして笑った。
 運動不足を指摘されたから歩いて駅まで行くと頑固さを発動したアリスと大学内で別れる。心の奥底に閉じ込めた感情が出てこないように必死に蓋をしながら、彼の背を見送り駐車場に向かった。



「ただいま」

 カラリと扉を開くと「センセ、おかえりやす」と温かい声が応えてくれた。
 ウリと小次郎と桃が勢いよく駆けてくる。火村に擦り寄って、にゃあと鳴いた。三匹揃ってお出迎えとは珍しいなと思いながら、一匹一匹撫でてやると嬉しそうにまた鳴いた。

「あらま、ようやくセンセイに会えて嬉しいんやねぇ」
「…ようやく
「火村先生、随分忙しかったみたいやないですか。ここ一週間くらい帰ってきませんでしたやろ

 火村は絶句した。一週間帰ってきていない
 何がどうなっている。自分の行動がまるで思い出せなくて、火村は悪寒が背筋を駆けるのを感じた。


***


 寝不足が酷い。昨日は一睡もできなかった。火村の講義を履修した学生は、彼のあまりの凶悪な面構えに戦慄したほどだ。
 研究室の机に資料を投げ出すようにして置く。机に片手をついて寄りかかりながら、部屋をぼんやり見渡した。昨日の自分の行動を思い出すため、この部屋にヒントを得ようと観察する。くたびれたソファが目に入る。俺はあそこで寝ていた。そこで目を覚ましたあとからしか自分の行動が思い出せない。目を覚まして、そして、窓から外を眺めるアリスがいて──アリスだ。火村はソファから目を離せなかった。あの上で日に焼けていない白い四肢が乱れる様がありありと思い浮かぶ。
『ひむら、…あいしてる』
『だから、君のもんにして。君のアリスにして』
『傍に、いさせて』
 鮮明に思い出した情景。夢だ。アリスとここで交わった夢。アリスに愛され、そして愛する甘美な夢。現実では起こり得ないこと。鎖して誰の目にも触れるはずのない感情がじくじくと痛みを訴え出す。
 望まない。俺は、望まない。彼が傍にいてくれる以上のことは望まない。そう心に誓っていた、ずっと。十四年もの間、ずっとだ。俺からだった。あの初夏の香る階段教室で覗いたお前の世界。手を伸ばしたのは俺だった。だから、これ以上は望まない。こんな男の傍に立たせてしまったこと以上のことは望めない。俺はお前の幸せだけを願っていたい。
 ソファの背もたれを撫でる。あまりにも詳細に浮かび上がる夢の内容の数々に眉を寄せる。

「ゆめ…」

 夢。そうだ、あれは俺の浅ましさが具現してしまった夢のはずだ。

「夢、だよな…

 思わず唇を撫でる。そこには、夢の中で数え切れないほど重ねた彼との口づけの感触が残っているかように思えて、愕然とした。

――夢じゃありませんよ」

 思考に周りを遮断してしまっていたからか、突然かかった声にびくりと身体が震えた。振り返る。研究室の入り口で佇む火村もよく知る青年は、絞首台で罪が裁かれるのを待つ罪人のように悟ったような顔をしていた。
 ――夢じゃない
 彼の言葉がようやく火村に届く。その言葉を噛み砕く前に、青年が今一度口を開いた。

「……夢じゃ、ありません。火村先生」

 絶望に視界が歪む。ふらりと揺らいだ火村の身体を青年が咄嗟に支えた。
 幸せを望んでいた。誰よりも、彼が、アリスが幸せになれるようにと願っていた。そのためなら、この柵むようにして無くならない恋情を隠すことなど耐えられた。それを俺が壊したのか。誰よりも愛おしいあいつに辛い思いをさせたのか。ならば、もう。

――…解放してやらねぇと」

 傍にいてくれと望んだのは俺だった。優しいお前はそれを汲み取ってくれていただろう。けれどもう、だめだ。こんな男から解放してやらないといけない。
 ただ、幸せになってほしかった。それなのにどうして、この恋情はそれを赦してくれない。

「……あなたたちは本当に不器用ですね」

 絶望に滲む火村の眦から、つう、と零れた一筋の涙を青年は震える指先で優しく拭った。

 

 

2016.6.19