02
「ありーす」
火村が放つにしては甘さを含み過ぎている声が、可愛らしい語感で私を呼ぶ。ソファに腰かけた火村は、バシバシと膝を叩いていた。こちらに来いという仕草。その仕草はもう何度も見たものだった。
傍に寄れば、ぐいっと腕を引かれてあっという間に腕の中だ。膝の間に私を座らせて後ろから抱き締める体勢は火村のお気に入りである。
「火村、ちょっと苦しいで」
ぎゅうっとあまりに強く抱き締められて、その苦しさに回された腕をぽんぽんと叩けば、「悪い悪い」と緩められる。
うなじに寄せられた鼻がすんすんと匂いを嗅いだものだから、驚いて身を捩った。
「あかんて」
「なにが」
「匂い嗅ぐのやめぇ」
「なんで」
「恥ずかしいやん。おっさん臭いかもしれんし」
そう言うと、火村が小さく吹き出した。
「まだ加齢臭はしねぇぞ」
「まだって何やねん」
「まだはまだだ。そのうちするようになるに決まってんだろ」
「ややー…臭いのいややー…」
「ああ、有栖川先生は万年青年でいたいんだっけか」
「そんなん言うてへん」
「そうだったか?」
「君は老いることが有り難いんやったか」
「俺こそ、そんなこと言ってねぇよ」
「違うか」
「おいおい、頼むぜ先生。俺の名言集は一言一句違わず編んでくれよ。じゃなきゃ訴えるからな」
「編むなんて言うてへんやろ」
「まぁ、とにかく安心しろよ。老いることの価値なら、俺たちには簡潔明瞭なものがあるだろ」
「え、なに?」
「わかんねぇのか?」
「わからへん」
はぁ、と火村が呆れたように溜め息を吐く。それにむっとして後頭部で頭突きすると、背後から「いてぇ」とわざとらしい声があがった。
「アリス、まったくお前はひどい奴だよ」
腹部に回されていた腕の一方が私の手を取って、指を折り重ねるようにして繋がれる。それをぶらりと揺らしながら、不満そうに火村は言う。
「俺の渾身の愛の言葉がわからねぇなんて」
「はぁ?今の会話のどこにそんなんあったん?」
思わず無理矢理な姿勢で背後を振り返る。途端に、ちゅ、と額に口づけられた。
「老いれば老いるほどお前と過ごした時間が長いってことだろ。お前と過ごす日々は俺の至上の価値さ」
繋がれていないほうの指で頬をさらりと撫でられる。
「年齢を重ねるってことはお前と過ごす時間が増えるってことだ。この先ずっと傍にいるんだから」
「ずっと…?」
「そう、ずっと」
「ずっと傍にいてくれるん?」
「当然だろ」
「そうなん?」
私はぽかんとして間抜けな声を発した。
傍にいたいと望んでいた。君の隣にずっと。それが叶うというのだろうか。そんな幸福を与えられていいのだろうか。
「お前は傍にいてくれないのか…?」
私の戸惑いの表情に、火村が形の良い眉を下げて言った。迷子の子どものようなその表情を見たくなくて、咄嗟に唇を寄せる。
彼が思考を巡らすとき、指がなぞるそこに触れたいと何度望んだことだろう。もう幾度も重ねた唇は重なることが当然であるかのようにぴったりと合わさった。「アリス」と触れ合ったままの唇が動いて、火村の瞳が嬉しそうに撓む。一度重なればもう一回と互いに求め合って何度も重なった。
「傍におるよ、ずっと。君が望んでくれるなら」
口づけの合間に囁けば、火村が破顔する。こっち向け、と催促する火村に向かい合うように姿勢を変えると、猫のような素振りで頬を摺り寄せられた。可愛いなぁ、と大きすぎる多幸感に酔いしれていたが、ふいに何かを忘れているような気がしてハッとした。
「アリス、」
甘ったるい声。火村がこんなふうに私の名前を呼ぶはずがなかった。
「愛してる」
夢にまで見た火村からの言葉。
見ないように、目を背け続けていた罪悪感が心の奥底でギシリと歪む。
「お前は言ってくれないのか?」
髪に額に目許に頬に、唇を滑らせながら、火村が言う。
「アリス」
催促されて震える唇を開いた。
「……おれも」
ふわり。火村が笑う。早く言え、目がそう伝えてくる。彼の美しい花顔を見ながら、私は喉奥から中々出てこない声を必死に振り絞って言った。
「俺も愛してる、火村」
こんなことは許されないのに。
この間まで、私たちは友人だった。いや、きっと今もその関係から変わってなどいないはずなのだ。火村が私を恋人のように――彼にとって私は恋人なのだろう――接してから、すでに一週間が経っていた。
――愛してください。
私のあの言葉が火村に呪いをかけたのかもしれない。
何が起きているのかわからない。わからないが、理解したいとも思わない。だってこんなにも幸せなのだから。そんなふうに最初はその幸福感に酔い痴れていた。一時の夢だと浅ましくもその幸せを享受した。けれど日に日に目を背けていた罪悪感が主張する。こんなことはいけないのだと。これは火村の心を歪めている行為なのだ。私の勝手な望みによって。それなのに、一度味わってしまった幸福を手放せなくて、気が付けばずるずると一週間も経っていた。
火村はこの一週間ほぼ毎日のように夕陽丘の私のマンションに通っていた。職場まで遠く通うのは大変だろうに、一目でも会いたいんだと言って必ずここへやってくる。それを嬉しいと思ってしまうのだから、私はもうどうしようもない。
けれど、北白川の下宿にいる婆ちゃんをほったらかしにしている現状はよろしくない。今はもう唯一の店子となった火村は、大学生の頃から世話になっている。最早家族といっていい存在だろう。だから、火村が下宿に帰らないのは不思議であったし、婆ちゃんの話題すら出さないとなるとさすがにおかしい。そんな重大なことに私は今更気付いた。火村と過ごす日々に現を抜かして、何も周りが見えていなかった。
そう、おかしいのだ。何もかもがおかしい。私はあらゆることに気付かない振りをして、自分の欲望のまま彼の傍にいた。最低だ。
「…なあ、火村」
自らが私のためにと振る舞ったディナーを食べる火村を呼んだ声は、かろうじて聞き取れるくらい小さかった。
「何だ?」
「…婆ちゃんのとこに帰らなくてええんか?」
顔を見られなくて、手元の白いご飯を見ながら問う。
しん、と沈黙がおりた。しばらくしても返事がなくて、勇気を振り絞って顔をあげた。火村はただ不思議そうに私を見つめていた。
「火村…?」
どうしてそんな顔をするのか。
「何でだ?」
「…?」
「どうして俺が北白川に帰らなくちゃいけないんだ?」
「え…?」
何を言っている。理解が追いつかなくて、いや、一つの可能性が頭をちらついて、からからに乾いた喉から引き攣ったような声をどうにかして絞り出した。
「…どうしてって…婆ちゃんをひとりぼっちしてはおけんやろ…」
「他の奴の話なんかするなよ」
「ッな、に…」
ぐっとテーブル越しに腕をきつく掴まれる。
「俺はお前がいればいい。だからお前の傍にずっといる。俺の帰る場所はここだろ?アリス、お前のところだけだ」
ああ、ああ、こんなこと!
――俺を見て。俺だけを、愛してほしい。
私の醜い欲に塗れた言葉が脳裏を過ぎった。
私は自分がしでかしてしまったことに愕然とした。ガクガクと情けないほど身体が震え始める。違う。だめだ。こんなの駄目だ!早く。早く彼を元に戻さないと!いけなかった。異変に気づいた時点で、火村が来て私を抱き締めたあのときに、振り払わなければならなかった。私を愛しているなどという世迷い言を口に出させてはいけなかった。
目の前にいるのは火村であって、でも決して真の火村ではない。だめだ。こんなのはいけない。どうすればいい。私は、私、は…。
プルルルル――。
突然鳴り響いた電話の音にびくりと身体が跳ねた。
「アリス、電話」
「……」
「アリス?」
「あ、ああ。今出る」
私は壊れかけの玩具のように拙い動きで椅子から立ち上がる。震えた手のまま、相手を確認する余裕もなく、ただ受話器を取った。何の応答もなく電話が繋がったことが不思議だったのだろう、受話器からは少し間をおいてから声が気こえた。
『……有栖川さんですか?』
「――…はい」
『森下です』
「…森下さん。どうかされましたか?」
『あの…有栖川さんは最近火村先生にお会いになりましたか?』
「え…?」
『実はここ一週間ほど連絡が取れないんです。下宿のほうに連絡しても、篠宮さんは“先生は出かけられています”の一点張りで。ああ、火村先生の携帯のほうもですね、留守電には繋がるんですけども』
私は火村を見た。彼は黙々と夕食に手をつけている。私の視線に気付いてこちらを向いた火村が電話の向こうに聞こえないくらい小さな声で「早く終わらせろ」と不満そうに言った。
「あの…何か火村に用が――」
そこまで言って口を閉ざす。用など決まっている。ひとつしかない。
『捜査に協力していただこうと思いまして何度か連絡したのですが』
「ちょっと待ってください」と言って保留のボタンを押して、火村を呼ぶ。私は情けなくも掠れた声で発した。
「森下さんからなんやけど。フィールドワークのお誘いやで」
「断れ」
「ッせやかて…!」
「フィールドワークには行かない」
「何で…」
「お前と二人で過ごす時間が減るだろ」
私は絶句した。
フィールドワークは火村にとって、とても重要なものであったはずだ。殺人という行為を尋常でないほど憎み、それを犯した人間を叩き落とす。犯罪の研究に没頭する理由を彼はこう言う。
――人を殺したいと思ったことがあるから。
彼の奥底に沈む得体の知れない何か。その正体を探し求めているのかもしれない。そして、それを理解できたとき、彼はようやっと平穏を得るのだろう。悪夢に苛まれ、悲鳴を上げて飛び起きるほどの哀しく残酷な呪いを振り払うことができるのだろう。そのためにはフィールドワークが必要不可欠なはずだった。
彼の分かち難い闇の原因を私は知らない。もしかしたらこの先知ることはないのかもしれない。私たちはいつも同じ場所で足踏みし、その先へと進むことは叶わない。それでもいい。けれど、もしも彼に何かあったときは助けたい。そのためにもずっと傍にいたかった。そうだった。私の火村に対する感情はここが根底なのではないだろうか。恋情だろうが友情だろうが構わなかったはずなのだ。彼の傍にいて、彼の孤独な闘いを見守って、そうして何かがあったなら助けたい。それがすべてだったのに。
「…火村」
「アリス?」
私の浅ましい欲はそれ以上を望んでしまった。
「行かんとあかんやろ、フィールドワーク」
火村は不思議そうな顔をした。
もう堪えられなかった。視界が歪む。はらはらと溢れ出した雫が頬を濡らした。それを見た火村が目を見開く。よく煙草を挟む長い指が焦ったように、私の頬を拭った。
「アリス…どうした?何で泣くんだよ」
怖かった。自分が犯してしまった大きな過ちが。彼を壊してしまったのかもしれないという呵責が。恐ろしくて仕方なかった。
「泣き止んでくれよ…お前に泣かれたら、俺はどうすればいいのかわからない」
今度は唇が涙を拭う。悲痛を湛えた声。優しい指先。それらは私に向けられるものではなかったはずのもの。
「アリス、愛してる」
だから、どうか泣き止んでくれ。その苦しみを一緒に乗り越えるから。
彼はそう言った。
(違う。違うよ、火村。お前は俺を愛していない。愛さなくていい。俺のことなど、愛さなくていいから)
私が歪めた火村の言葉には彼の心意など籠もっているはずもない。犯してしまった大きな過ちが息もできないほど私の身体を苛んだ。は、と無様な呻きを漏らした私の唇は火村に塞がれた。まるで呼吸を分け与えるかのように。全身に注がれる火村の愛情。譬えそれが偽りでも、醜い私は確かな幸福を感じてしまっていた。
そっと抱き寄せられる。自分より低い体温が包み込む。腕の中から彼を見上げる。ああ、大好きだ。私は君のことが好き。心中で思ったはずだったが、口に出ていたらしい。満足げに、そして幸せそうに笑う火村に愛を囁かれながら、罪悪感と苦痛と悲哀と、そして恋情でぐちゃぐちゃになった心がもう耐えられないというようにひどく痛んだ。その惨痛に引き裂かれそうな私の身体を、火村が愛おしげに優しく撫でた。
森下さんには悪いことをしてしまった。長い間放置されたというのに、電話越しの彼の声はただ心配だけを含んだものだった。フィールドワークに行くよう火村を説得したが、彼は頷くことはなかった。今は彼をもとに戻すことのほうが優先ではないか。私のあまり役に立たない脳はそう判断して、捜査協力を断った。火村は大学の仕事が多忙を極めているらしい、と誤魔化して。嘘を吐いたことに罪悪感を感じつつも、私の頭は火村のことでいっぱいだった。
図書館で読みたい資料があると適当なことを言って、火村の職場までついてきた。彼が仕事に行くのを見送って、私はあの青年を見つけなければと決意したが、このだだっ広い大学の山ほどいる学生の中から捜し出すことは難しいことに今更気付く。本当に役立たない脳みそだ。青年は火村の授業を聴講していると言っていた。数いる学生のすべてを覚えているはずはないだろうが、もしかしたら火村の記憶にあるかもしれない。そう思って、火村を追うようにして彼の研究室に向かった。
廊下を曲がった先に見えた姿に足を止めた。研究室の前で佇む二人。火村とあの青年だ。青年が何か火村に話している。火村もそれに丁寧に受け答えしているようだった。私は焦って「火村」と呼んだ。振り返った火村の顔が私を見て鮮やかに綻んだ。その甘い視線を振り切るように深く息を吐いて、火村の隣にいる青年を見た。彼は緩やかに微笑んでいる。けれどその笑みはあの日見た明るいものではない。昏い愉悦を描くような笑みだった。
「随分早い資料探しだったな」
「違うわ、まだしとらん」
「じゃあ、俺の顔が見たくなったのか?さっき別れたばかりだろう。作家先生は情熱的だな」
「いつの間にそんな痛い子になったんや、准教授センセ。隣の教え子の顔が歪んでるで」
青年が、ふ、と嘲るような息を漏らした気がした。
「お久しぶりです、有栖川先生」
青年の言葉に火村が訝しげに顔を顰めた。
「知り合いだったのか?」
その問いに答えたのは青年だった。
「僕、有栖川先生のファンなんです。この間、街で偶然お見かけして声をかけたんですよ」
火村の瞳が戸惑ったように揺れたのが不思議だった。何にそんなに動揺したのかわからない。
「またお会いできるなんて思いませんでした。嬉しいです」
「俺もまた君に会えて嬉しいわ」
思いがけず低い声だった。
「君に聞きたいことがあんねん。ちょっと時間ある?」
「ええ、勿論ですよ」
青年は私のもとへ歩みを進めたが、その背へ火村が声をかける。
「廻谷君」
「はい?」
「……いや」
珍しく火村の声は歯切れが悪い。やはり、何かあるのだ。この二人の間には。
「安心してください。僕は有栖川先生には何もしませんよ」
「は?」
私の名を出されて驚く。火村がじっと私を見つめてきた。青年と二人にしたくないと雄弁な眼が語っていた。私はへらりと笑ってそれを躱す。
「火村。君、忙しいんとちゃう?」
「…アリス」
「講義終わりにまた研究室に顔だすから、な?」
火村は渋々といった感じで頷く。彼が研究室へ入るのを見送ってから、私は青年と向き合った。
「さて、廻谷くん…やったっけ?」
「はい」
「話、聞かせてもらおか」
「あなたが僕に聞きたいことがあるのでしょう?」
「……」
「場所を変えましょうか」
青年は綺麗に微笑んでそう言った。
人気のないベンチに並んで座る。「ここ穴場なんですよ。こんなに緑豊かで心地良いのになぜか誰も寄り付かない」と話す青年はどこにでもいる普通の大学生のような表情をしていたが、私は少し恐ろしかった。
「…火村に何したんや」
早く現状を抜け出したくて、そう切り出す。青年は私の言葉を聞いて、くすくすと笑い出した。
「〝何をした〟? おかしなことを言いますね。何かしたのはあなたでしょう? 有栖川さん」
「なに言うて…」
「だってあなたが壊したんでしょう、火村先生を」
「ッ…!」
「あなたが望んだんだ」
そうだ、私が望んだ。火村に愛されたい。愛してほしいと。
「…でもそんなこと、」
叶うはずがなかった。どんなに望んでも願っただけで現実になるなんてあり得ない。
「僕はあなたに幸せになってほしかっただけですよ」
「は…?」
「だから、あれを渡したんです。あなたの望みが叶うようにって」
「何で…おかしいやろ、それで叶うなんて」
「僕、魔法使いなんです」
「………」
「ふふ、冗談ですよ。嫌だなぁ…そんな怖い顔で睨まないでくださいよ。僕はあなたの望みを叶えてあげたのに。何て願ったんです?ああ、さっきの火村先生の顔見たらわかりますよ。あんなに甘ったるい顔しちゃって。火村先生ファンの学生が見たら、衝撃でしょうね。大学中噂になっちゃうだろうなぁ。火村先生には目に入れても痛くないほどの恋人がいるって。ねぇ、火村先生に愛されるってどんな感じですか?」
青年は饒舌に話した後、一拍の間をおいて続けた。
「――いいなぁ」
低い声だった。
「火村先生に愛されるなんて。……本当に、」
青年が突然私の頸に手をかけた。
「ぐっ…!」
「殺してしまいたいくらい羨ましい」
あまりに急なことで動けない。青年の細い指が頸に喰い込む。その細身の身体のどこにそんな力があるのかと思うほど、もがいても振り払えなかった。息ができなくて視界が白く霞んだとき、唐突に解放された。
「――ッぐ、ぁ…は、」
身体が空気を急いで取り込む。げほ、と聞き苦しい音を漏らしながら呼吸を整える。恐怖からか、身体はひどく冷たく感じた。
「すみません。つい」
つい、でこんなことされたら堪ったもんじゃない。
はぁはぁと蹲る私を冷たく見下ろしながら、青年は嘲笑した。
「僕はね、火村先生が好きですよ」
その言葉にハッとして彼を見上げる。
「あなたと同じ意味で」
ドクリ、と心臓が嫌な音を立てた。
「ねぇ、有栖川さん。あなたはなぜ伝えなかったのですか?」
なぜ?――傍にいられるなら、それでよかった。いつか、闇の淵に立つ彼の手をひいてやれるように。彼が暗闇に飲み込まれないように。だから、彼の傍にいるためなら恋の苦しみくらい耐えてみせると思っていた。
「それだけの気持ちだったってことでしょう?好きなら、簡単に自分の感情を制御できないはずだ。あなたの想いは制御できるほどの矮小な恋情だったんだ」
カッと腹の中が熱くなって、頭に血が上る。
「君に何がわかんねん…!」
矮小な恋情? そうだったらどんなによかったか。あの気持ちがその程度だったなら、とっくにその恋情を昇華して、友情の気持ちだけで火村と接している。それが出来ないから、私の恋は柵むように消えることはなかった。
「あなたは火村先生がいなくたって平気でしょう?」
「そんなわけ――」
「平気なはずだ。あなたは問題なく日常を過ごす。推理小説を書くことに没頭して。あなたは自分を守ってるだけ。火村先生に傍にいてほしいから、だから伝えない。友情が壊れなければいいと思って」
「………」
「でも僕には火村先生が必要だ…!あの人なしじゃ生きていけない」
青年の慟哭が響く。彼の瞳の奥に火村に似た闇が見えた気がした。彼は何かを火村に求めている。似ている何かを感じて、きっと救われたいと願っている。それは恋情に名を変えて、彼の心を占めてしまったのかもしれない。
「僕は臆病なあなたとは違う。ちゃんと告白しました」
――ねぇ、知っとる?火村先生に告白した子がおるって噂。
――それがさ…男なんやって!
女子学生が話していた噂。あれは。
「…君やったんか」
「あなたが火村先生を好きなことはすぐにわかりました。お二人が一緒にいる姿を見たと言ったでしょう?あなたは僕と同じように焦がれた眼で火村先生を見ていた」
「じゃあ、何でこんなことしたん?俺の望みを叶えたいってどういうことや」
「あなたの幸せだけを願う人がいたから。その人の望みを叶えたかっただけです」
「俺の…?」
「わからないんですか?…わからないんでしょうね。あなたたちは自分たちのことがまるで見えていない」
彼が何を言っているのか、まるでわからなかった。
「ねぇ、どうでした?この一週間。あなたがすぐに僕のもとに来てくれていたら、僕の考えも変わったかもしれない。でも一週間経っちゃいましたね。あなたは自分の欲望に逆らえなかった。自分の欲のままに“有栖川有栖を愛する火村英生”を手放さなかった。火村先生を壊しているとわかっているのに」
ひゅ、と息を呑む。
「だから、あなたに火村先生は渡さない」
私は沈黙した。何の言葉もでてこなかった。
「何か言ったらどうです?」
何も言わないのか、やっぱりその程度の恋情なんだろう。そんなふうに言外に告げられているのはわかった。それでも何も言い返さない私に呆れて、彼が背を向けて去ろうとするのにハッとして留めるように声を出した。
「火村を、」
青年が緩慢な動きで振り返る。
「…火村をもとに戻すには」
咄嗟に出たのは、情けないほど小さな声と青年に縋るような言葉だった。青年が、今さら、というように鼻で笑う。
「推理作家なら推理でもしたらどうです?まぁ、推理するほどのことじゃありませんけど。あなたが望んだからそうなっただけのことでしょ」
私が望んだから、そうなった。
一方通行の想い。望みなど持たなければよかった。そんなことは無理なのだろうけど。どうやったって私は彼が好きで好きで仕方が無いのだろうけど。けれど、その自分勝手な想いを押し付けてはならなかった。ちゃんともっとしっかり心の奥底に閉じ込めておくべきだった。閉じ込めて、閉じ込めて、決して口に出してはいけなかった。……口に出しては。そうだ。言葉にしてはいけなかったのだ。あの紙に何て書かれていた?『望みを唱えよ』だ。そうだ、唱えてはならなかったのだ。
「ねぇ、有栖川さん?あなたは今さら手離すことができますか?」
「手離す?」
「一度手にしてしまった、知ってしまった幸福を」
「……、」
「〝有栖川有栖を愛する火村英生〟を、手離せるんですか?」
手離す。あの何度も愛を囁いてくれた火村を。全身のすべてで私を愛してくれた火村を。彼に愛される日々、それは溢れんばかりの幸福で満ちていた。それを手離したら、二度とあれほどの清福を味わうことはないのだろう。けれど、私は“私を愛する火村”を好きになったわけではない。
大学二回生の杜鵑花の咲く頃、初夏の木漏れ日が射す階段教室で、私の繭を覗き込んだ風変わりな男。どこか浮世離れした雰囲気を纏い、けれどやけに真面目な顔で冗談を言ったりもする。一度懐に入れた人間に対しては分かりづらい優しさを惜しみなく注ぎ、人以上に猫に愛情を注ぐような男。普通でないほど犯罪者を憎み、癒えることのない傷に苦しみ、掌についた幻の透明の血を必死に拭う哀しいひと。殺人者の参列に加わりかけた者として、踏み止まれず彼方へ飛んだ犯罪者をはたき落とす臨床犯罪学者。
私はそんな彼に恋をしたのだ。“私を愛する火村”だから、好きになったわけではない。だから、いいのだ。私は、友人の、腐れ縁の、親友の、そんな火村が好きなのだから。一度知ってしまった、あまるある幸福を手離すことがどんない辛くとも、私が愛した火村に戻さなくてはならない。婆ちゃんを気にかけ、三匹の飼い猫をいたく可愛がり、准教授の仕事の傍らどんなに忙しくてもフィールドワークに赴き、腐れ縁の推理作家の脱稿後の世話を皮肉を言いながらもしてくれるような、そんな火村が好きなのだから。有栖川有栖“だけ”を愛する火村を好きになったわけではないのだから。
「…手離せるよ」
へぇ、と青年は挑発するように言った。
「俺は…」
青年を真っ直ぐに見る。
「君が火村を幸せにできるなら、君を応援する」
驚いたように見開かれた彼の眼は戸惑うように揺れた。
「でも、ひとつ訂正させてな?俺は火村に傍にいてほしいんちゃうよ。〝俺が〟火村の傍にいたいんや」
「……どこが違うんですか」
「自分の欲望に負けた俺がこんなこと言うてもしょうもないかもしれんけど……幸せにしたいんよ、あいつのこと。だから、俺の恋情に悩んでほしくないし、あいつから有栖川有栖っちゅう友人を取り上げることもしたくなかった」
傍にいたい。いつか彼が助けを必要なときには真っ先に手を取りたい。
「だから、どんなに苦しくても自分の恋情なんか隠してやろうって…」
「………」
「でもあかんなぁ……苦しくて敵わん…隠しきれへんわ、こんなん。俺はただ、上辺だけの綺麗な感情で取り繕ってただけやったのかもしれへん。本当はずっと望んでたんやろな…火村に愛されたいって」
僅かでも支えになりたかっただけなのに。あいつを、火村を、
「――幸せにしたかっただけやのに」
どうして、この恋情はそれを許してくれないのだろう。
「………あなたたちは、本当に馬鹿ですね」
あなたたち? 首を傾げた私に青年は俯いた。
「関西人に馬鹿はあかんよ」思わず小さく零した私の言葉に面を上げた彼は、泣きそうな顔で笑った。初夏の木漏れ日の中で消え入りそうなその儚い微笑はとても美しく私の目に焼き付いた。