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魂を乞う:01
その男は、女か子どもかと見間違うような容姿をしていた。発された声は思いの外低く、柔らかく響く。男は努力家で馬鹿みたいに真面目で、包容力に溢れていると見せかけて恐ろしいくらいの頑固さを持っていた。素敵です、素晴らしいですと褒めそやしたその裏でそれらを吸収して、瞬く間に自分のものとする。それを狡猾さと呼ぶにはまだ甘っちょろい気はするが、自国の文化と他国の文化を上手く融合していく様は器用なもんだなと思っていた。そうかと思えば、驚くほど真っ直ぐに正面からぶつかっていっては派手に転んだりもする。そんな器用なのか不器用なのかよくわからない男であった。
条約を結んだときも、教えを請いに来たときも、正直に言ってその男のことは眼中になかった。幼い弟を育てるのに手一杯だったし、そもそも興味がなかった。上司が決めたことだから勝手に学べばいいと思っていた。
極東の小国の行きつく先など決まっている。どうせ大国に蹂躙される運命だろうと、最初は疑いもしなかった。しかし、男はたった一人で世界の舞台に立った。それがさも当たり前であるかのように俺たちの世界の中で凛と立っていた。いつしかその男が脅威になるときが来るのだと、きっと俺は他の奴らより先にわかっていたのだろう。
男は強かであった。男が滞在した屋敷の使用人の中にも東洋人であることを侮蔑する者もいたが、男は緩やかな笑みを浮かべて何も気にしてなどいなかった。猿真似と罵られようとそれを超然と躱し、貪欲に知識を取り込んでいった。西洋からは何もかも出遅れていて、などと言うくせに自国の誇りはどんな国より偉大であると胸を張っていた。男の国は戦う者を、武士を人間の指針とするほどの国であった。そんな男が弱いはずがなかった。やり方を知らないだけ、この開かれた世界で生きていく術を知らないだけだったのだ。
とても強い男であった。だからこそ信じられなかった。中庭に聳える樹木に額を擦りつけるようにしたその男から嗚咽が聞こえたのを信じられないような気持ちで見ていた。必死に声を漏らすまいとしているのだろう、けれど微かに聞こえた声は確かに泣いていた。俯いた男の顔から雫が落ちていくのを見た。小さい背中だった。生まれてから二千年を優に超すという男にはとても見えなかった。ヒトのように脆く、すぐにいなくなってしまいそうな姿だ。俺はただその光景を眺めるだけで、声をかけることも触れることもできなかった。どうすれば、あの男の誇りを傷つけないで慰められるのか全くわからなかったからだ。
思い違いをしていた。男は確かに強かであったが、ひどく情に脆いやつだったのだ。小さいことに馬鹿みたいに容易く傷つく男であった。
泣いている姿を偶然にも見てしまった翌日。男は何ら変わりなく、その深い色の瞳を瞬かせて食い入るように本に齧り付いていた。昨日のあの姿とはまるで別人のようだ。夢だったのかもしれないと窓の外に視線を向けて、その幻を思い出すように目を細める。
「貴方の瞳は紅枝垂れ桜のようですね」
ふいに呟かれた言葉に男を見ると、深い闇色が真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「べにしだれ?」
「通常の桜より濃い色をしているのですよ」
男が勉学に関係ない話を自らしだすことなど初めてのことだった。
「枝垂れ桜とはその名の通り、柔らかく枝が垂れていているのです。私にはそれはまるで中心の太く逞しい幹を守ろうと包み込んでいるかのように見えます」
貴方にそっくりでしょう?
そう言って控えめに微笑んだ男に目を見開く。男が例えたそれが何を意味するか理解したとき、カッと腹の奥が熱くなった。沸々と苛立ちが湧き上がる。お前に何がわかるのかと、東の果てのちっぽけな島国に俺と弟の何がわかるのかと怒りにも似た感情が胸に渦巻く。
男は俺の殺気のような荒い気配に物怖じせずにまた緩く笑った。
「枝垂れ桜は寿命が長いのです。三春の滝桜なんかは千年近く生きているのですよ」
千年。その重みを俺はまだ知らない。そしてきっと、それを知ることはない。
「強かですよねぇ」
ほら、と囁くように、それこそ老いた国であることを思わせるかのような神秘的な眼差しで、まるで子どもに言い聞かせるみたいに男は言った。
「――貴方と、そっくりでしょう?」
その言葉が男の願いであったことを俺はこのとき知りもしなかった。
魂を乞う
今ではもうあまり着ないスーツを堅苦しいと思ったことに少しばかり寂しさを感じた。ネクタイを緩めようとしてから、やっぱりいいかと手を止める。今はあと少しだけ仕事をしているという気分を味わっておくことにする。
「昼休憩にする。時間はしっかり厳守するように」と言う弟の言葉で会議室は一気に騒がしさを増した。ふう、と額に手を当てて深く息を吐く弟を見ながら苦笑する。この調子では議題の一つも解決しないだろう。アメリカの現実味のない案に反論するイギリス、それに反対するフランス、睡眠を貪っている数ヵ国。プロイセンが世界会議に出席することは少ないが、弟の様子からしていつもこんな感じらしい。
ヴェストに負担をかけている奴らを一発ずつぶん殴ってやりてえ、と内心穏やかでないことを考えながら、今日も今日とて「アメリカさんと同じでいいです」を繰り返していた恋人の席へ視線を向けた。するとすぐにぱちりと目が合う。俺様のこと見てたのかよ、と思わずニヨニヨすると、プロイセンの恋人――日本は恥ずかしそうに目許を染めて視線を逸らしてからもう一度プロイセンを見た。頬を微かに色づかせながら小さくはにかむ。可愛いやつ。
昼休憩のタイミングで互いに視線を向けたのだから考えていることは同じはずだ。世界会議の昼休憩に一緒にランチ、というのは滅多にない機会だった。その恋人との時間を想像するだけで、重苦しかったスーツが軽くなったかのように感じるのだから現金なものだ。
席を立ち日本のもとへ向かおうと一歩踏み出したとき、同じように立ち上がった日本にぶつかっていく姿があった。ハグというよりは衝突事故のように日本に覆い被さったのはアメリカだ。アメリカは快活に笑いながら何かを言っていて、日本はそれに困ったような笑みを浮かべる。プロイセンからは少し遠いため会話の内容までは聞き取れないが、その二人の会話の結果がどうなるかは想像できた。日本がプロイセンへ視線を向けて眉を下げるのを見てやっぱりな、と思う。
日本が小走りでプロイセンのもとへ駆けよってくる。なんて言うかはわかっていたから、苦い顔をしてしまいそうなのは止めることができた。
「プロイセン君、すみません。一緒にご飯をと思ったのですが……」
「ああ。アメリカに誘われちゃしょうがねぇな?」
努めて明るく笑って艶やかな黒髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜてやれば、日本はほっとしたような顔をした。そのほっとしたような顔にプロイセンも安堵する。これでいい。
「会議後は一緒に過ごそうぜ?」
少し距離を縮めて内緒話のように小さく囁く。近くなった距離に頬を染めた日本はこくりと頷いてから嬉しそうにはにかんだ。
アメリカのもとへ向かう日本の背を眺めながら、今はもう何かを食べる気分ではなくなっていた。どうすっかなぁと思案していると、ガッと勢いよく肩を抱かれる。漂ってきた香水の匂いに眉を寄せた。
「みーちゃった!」
語尾にハートでもつけてそうな言葉を発したのはフランスだ。ニヨリとした笑みを横目に睨む。
「日本ってお前といるとき、あんな顔するのね」
「あんな顔?」
「恥ずかしいけど嬉しいっていうか……あなたのことが好きですって言外に含ませながら、はにかむ感じ?」
「そりゃ俺様のことが好きなんだから当然だろ」
「まぁそうなんだけど。二人が恋人だって知ってたけど、よくよく考えたら二人でいるとこってあんまり見たことなかったからさ」
それはそうだろう。プロイセンが弟の補佐とはいえ世界会議に出席することは稀だし、日本がドイツ宅に来ていたとしても、いるのは家主のドイツかイタリア、またはロマーノかオーストリアやハンガリーくらいだ。プロイセンはよく日本に行くが、そこにフランスが丁度居合わせるということも中々ない。
「日本がお前と付き合ってるなんて何の冗談かと思ってたわ」
「どういう意味だよ、変態髭」
「ちょっと、美しいお兄さんに似合わない変な呼び方しないで。だってあの日本よ? 色恋沙汰とか無縁そうっていうか……最早その辺の愛情をすべて二次元に傾けてそうな日本が恋してるってだけで驚きなのに、その相手がお前とか」
「俺様の小鳥のような格好良さに惚れるのは当然だぜ!」
「あーはいはい」
呆れつつも「しかももう三十年近く付き合ってるんでしょ?」というフランスにこくりと頷く。
柄に似合わず、薔薇の花束片手に日本の家の玄関を叩いた日のことを思い出して目を伏せた。
「でも嫌じゃないの?」
「あ?」
「ああやってアメリカのとこへ行くのがさ。嫉妬するよね?」
「別に。何の問題もねぇよ。あいつ俺様のこと大好きだからな!」
ケセセセ、とプロイセンが笑うと一時の間を置いて、
「………知ってるよ」
フランスが呟く。その声はあまりにも小さくてプロイセンには聞き取れなかった。
「あ? 何つった?」
「……ごちそーさまって言ったの。円満なようで何よりだわ」
「当たり前だろ。俺様の格好良さにメロメロだっての」
「めろ……ってそれ死語じゃない? まあ、とにかくわかったから。飯食いにいくだろ?」
「おう」
一緒に、と言外に告げるフランスに取り敢えず何か口に入れとくとかと素直に頷く。
歩き出したフランスがふいに後ろを振り返った。
「どうした?」
「……いや」
フランスに倣い振り返ろうとしたが前へ進むように背中を押されて自然ともう一度歩き出す。
「ずっと傍にいてあげなよ」
いつもより幾分か低めの声でフランスが言った。
「はあ?」
「日本の傍にいてあげて」
「……んなことお前に言われなくたって」
フランスの神妙な声とその言葉の内容に不審に思ってその顔を覗こうとしたが、長いハニーブロンドが顔を覆っていて表情は見えない。その言葉の真意を聞こうと口を開こうとしたとき、フランスが顔をあげてプロイセンを見た。揶揄するような表情だった。
「まあ、お前が愛想尽かされるのが先か」
「おい」
それまでと一変して軽い口調で含み笑いしながら言い始めるフランスを小突く。痛い、暴力反対! と泣き真似をする友人といつものようにじゃれ合いながら、ふいに思う。この愛の国を自称する男は永遠の愛を知っているのだろうか、と。そのあまりにも自分に似合わない思考に自嘲した。
嫉妬しないのか、とフランスは聞いた。するかしないかで言えば、するに決まっている。日本の隣に立つアメリカを見るたびに腹の中にどす黒い嫌な気配が沈殿する。それも俺だけを見て欲しいなどという単純な嫉妬ではなかった。最悪なことに、どちらかというと恋情に起因するような悋気ではない。それは自分の存在そのものの傷を抉るような、愚かな羨望と共にあった。俺はアメリカのいる場所には絶対に立てない。未来永劫、もう二度とあの場所に立つことはない。どう足掻いたって同じ土俵には立てないのだ。
もし日本がアメリカを恋愛といった視点からもパートナーにしたいと別れを告げたなら、俺はきっと従うだろう。そのほうがいいと誰の目から見ても明らかだ。見劣りも不満も不安もない。まあ、俺と比べたら他のどの国だって俺よりは日本の相手に相応しいだろう。
嫉妬してもどうにもならないのだから、してないのだと心に嘘を吐いているほうが楽だ。それに嫉妬を剥き出しにして日本に疎んじられるほうがよっぽど嫌だった。
日本はプロイセンのことを好きだから何の問題もないと答えた。これは事実。好かれていると思っている。日本の恋情を疑ったことはない。だからこそ、その今はある日本の恋情を存続させるために、いつだって試行錯誤しているのだから。
俺にはもう何もないから手の中には日本しかいない。けどあいつにはたくさんのモノが手の中にあるから、いつかその内の一つである俺を要らないと言う日が来てもおかしくはない。それは多分、当たり前のように訪れるいつかの未来だ。
例えば、自分を構成するあらゆる感情の中で、醜いものとか見苦しいものとか、そういったものをすべて取り除いて優しいものだけを掬いあげることができるなら、そうするべきだと思った。真綿で包むような、幸せだけを感じられる場所があるのなら、そこへ閉じ込めてしまいたかった。世の中の煩わしさとか、あいつが哀しむあらゆることから守れる要塞を築き上げられることが可能ならば、俺はそうしたのだろう。
そんな完璧な要塞を作り上げるなど、神でも何でもない俺には不可能だ。だから俺が出来る限りの、ありったけの温かい情だけをあいつに注ぎたかった。ありとあらゆる負の感情は決して見せることはせず、ただあたたかい気持ちだけを与えたかった。
これしか出来ないのだ、俺には。俺が与えられるものなんて、戦いばかりに明け暮れてきた無骨な身体から掻き集めた、ちっぽけな優しさくらいなのだから。
傍にいることが心地良いと感じるように接した。存外甘えたがりな日本はそれを主張することは絶対にしないから、よく観察して甘えたいと思っているだろうときに出来うる限り甘やかした。連日の仕事で疲れている日本に温かいご飯とお風呂を用意して、俺が家にいるといいだろうと思い込ませた。甘やかされるのも好きだが、世話して甘やかしたいとも思う日本に膝枕を多少強引に要求したり、構ってくれよ撫でてくれよと子どものように駄々をこねてみたりした。恋人の触れ合いを日本はとても恥ずかしがるから、抱きしめるのもキスをするのも身体を重ねるのも、ゆっくり長い年月をかけて行った。恋人の触れ合いは日本がよしと思っているときしかしないように気をつけた。
そうやって、傍にいることを許されるように注意深く接した。こんなことを話せば、フランスは瞠目するのだろう。誰かに言うつもりなどないけれど。
日本がいつか「要らない」と言うまではそうしてどうにか繋ぎ止めようと思う。俺がそうして接した分の愛情を日本に返してほしいとは別に思わない。そんなことは思わないから、出来るだけ傍にいることを許してほしいと願う。
告白をしたのは俺が日本を好きだと知ってほしかったからという理由だけだった。この慕情の先に未来があるとはこれっぽっちも思っていなかった。ただ知っておいてほしかった。いつかこの身が終焉を迎えても、少しくらいは覚えていてほしかった。お前のことが好きだと、似合わない花束を手に情けない有り様で告白した奴がいたと、少しでも彼の記憶に残ればそれでよかった。それがまさか受け入れられるとは思っていなかった。
お前を愛することを許されるなんて、果報にも程がある。だから真綿で包むような、そんなあたたかい感情だけを注ぎたかった。
これが俺の愛情であって別に苦しくも辛くもない。日本の傍で気を張っているわけでは決してなかった。あいつの傍は心地いいし、柔らかく微笑むのを見ては胸が温かくなる。好きだと黒曜を蕩けさせて訴えるのを見るたびに心は歓喜する。出来れば、永遠にその瞳を向けてもらいたかった。それがあり得ないことだとはわかっているから、いつか傍にいることが許されなくなったとしても俺は大丈夫だ。日本が俺を置いてその先に進もうと、そこに幸せがあるならそれでいい。
このときは、本気でそう思っていた。
(続く)