「よう」

 簡易的な朝食を前に腰かけた友人の姿に声をかけた。

「アーサーさん、おはようございます」
「Morning buddy. 愛しの彼氏様はどうした?」
「早急な仕事の話があるとかで、弟さんのもとへ行きましたよ」
「へえ。ここ、いいか?」
「どうぞ」
「その顔じゃあ、また失敗だったみたいだな」
「……ええ」
「十四連敗か」
「よく覚えていますね」
「こっちも付き合わされてるからな」
「恐れ入ります、すみません」

 切られたバゲットを手にしながらあまり悪びれずに言う菊に呆れの溜め息を吐きつつ、紅茶を一口含む。何を言おうかと迷ったが、とりあえず今まで思っていたことを口にしてみた。

「お前らってあれだな」
「はい?」
「敵を前にして剣を構えているみたいな顔で恋人を見るよな」
「……まあ、勝負みたいなものですからね」
「恋人には見えない」
「それよく言われます。昨夜もあの人の情緒のなさと言ったら――
「ストップ。聞きたくない」
「ですよね」
「でも昨日はいいところまでいったんですよ」
「……へぇ。まさか、ね」
「それどういう意味ですか」
「…いや」
「アーサーさん?」
「……あいつの〝理性〟を壊せるとは思えねぇなと思って」

 菊はむっと唇を尖らせてアーサーを見た。

「私はいつまで経ってもあのひとのものにはなれないと?」

 どこまでも続いているような闇色がアーサーを貫く。アーサーは歪みそうになる顔をどうにか自然に保って、強気に言葉を吐いた。

「お前はあいつを甘く見すぎだ」
「どういう意味です?」
「あいつはそんなに優しい奴じゃない」

 途端にそれまでの表情を一変させて、きょとんと目を丸くした菊は不思議そうに首を傾げた。

「ギルベルト君は優しいですよ? それこそ、私のために理性を捨てないほどに」
「……そうじゃなくて」

 アーサーは菊の遥か後方に姿を見せた当事者を、菊に気付かれないようにちらと見やった。感情の強さの表れか、赤みを増した双眸が鮮血のように爛々としていた。その血の眼は真っ直ぐにアーサーを貫いている。
 気付かない菊はなおも首を傾げて呑気に続けた。

「アーサーさんとあれほど近くにいても、これっぽっちも嫉妬もしてくれないんですから」
「……………」

 本当にそう思っているのなら相当の馬鹿だ。……いや、菊に少しも悟らせないギルベルトが常軌を逸しているのか。
 菊が勝負のようだと言ったギルベルトとの関係。あいつは菊のものだけど、決して菊を自分のものにはしない。それは当然の線引きだと思った。本来なら、恋人などという関係になるのも憚られるはずだ。菊は世界の中枢を担う現役国家で、あいつは亡国だ。常識に則った正しい判断でギルベルトが行動したに過ぎない。だが、菊はそれでは満足しない。あのひとのものになりたいと嘆く。奪われたいと願う。だから俺と近しい距離をわざと取り、嫉妬を煽り、あいつの「理性」が崩壊するのを願っている。俺からすれば、常識から逸れているのは菊のほうだ。あいつは常識人として分別をつけているだけ――という体で必死に堪えているのだ。常軌を逸した衝動を。

「……お前はわかってねぇよ」
「え?」

 ぼそりと呟いた言葉は菊には届かなかったようだ。
 アーサーに真っ直ぐ向けられている凄気。決して菊には気づかれないほどに繊細に向けられた悋気の炎は、アーサーを燃やし尽くすほどの勢いで燃えている。
 これっぽっちも嫉妬もしない、だと? 馬鹿げている。あいつが「理性」を捨てたら瞬く間に俺は殺されるぜ? 捨てるものをもう何も持ち得ないあいつは、何だってしでかせちまう。
 あいつが「理性」を捨てないのは、確かに菊を守るためだ。それも細い糸で繋いでいるような危うい平穏だ。菊はあいつが本能のままに動いたとき、自分がどうなるのか甘く見すぎだ。嫉妬を露わにして多少乱暴にあいつの痕を刻み込んでもらえるとか、それくらいにしか思ってないだろう。例えば、ちょっとの間――数日間くらいか――は家から出してもらないとか、そんな軽易なことだとお前は思っているんだろう。
 菊はギルベルトは優しいと言った。それは疑う余地のない事実だと、まるで無垢な子どものような顔で言っていた。お前の中の優しいあいつはお前の仕事とか身体とか慮ってくれると思っている。今はそうかもしれないが、あいつの本性はそんなに生やさしいもんじゃない。
 あいつが理性を手放したら、お前は確実に――壊れる。
 お前はきっと二度と出してもらえない。ギルベルトの容赦のない本能の檻の中から、二度と。
 あいつの理性は確かに強かだ。でも真面でいられるはずがないんだ。この世界で、自分の存在意義を奪われ、塵も残さず跡形もなく消える恐怖の中で生きてきて、まともでいられるはずが。
 一度、あいつは一番大切なものを亡くした。それは形だけあればよかった。ほんのちょっとでも残っていたのなら、あいつは真面でいられた。でも、無くなった。あいつの名は、この世界から、永遠に。
 だからこそ、あいつは今一等大切にしているお前を永遠に手放さないだろう。理性を捨てたら、世界のことなんか無視して、現実のことなんか何も考えもせず、お前を連れていくだろう。二人だけの、誰にも邪魔されない、壊されない世界に。
 だから。

「まあ…どうせお前が負け続けることになるんだろうけどな」

 俺はお前が永遠にあいつとの勝負に敗け続ければいいと思う。お前があいつのものにならなければいい。その先に待つ破滅が来なければいい。この世界が終わるまで、ずっと。
 そんな願いを込めて努めて軽く吐き出した言葉に、菊はやはり不満そうな顔をした。

「ひどいですね」

 アーサーは微苦笑を浮かべ、お前を思っての言葉だったんだけどなと内心溢し、困ったように眉を下げた。
 菊がふいに自分の荷物を探ろうとして横を向いたときにギルベルトが視界に入り、振り返る。

「ギルベルト君、」

 少し遠目だったが恋人の声に反応したギルベルトは、先までアーサーに向けていた仄暗い本性を顕わにした獣のような顔を一変させ、快活で明るい笑みを浮かべた。
 途中だった朝食をそのままに、ギルベルトのもとへ駆けていく菊を見送る。ハグをするでも頬にキスをするでもなく、ただ口頭で挨拶を交わす二人をぼんやり見ているとギルベルトと目が合った。
 狼のようだと思った。暗闇の中でも光を反射するタペータムがあるかの如く、その瞳が獣のように光っている錯覚に陥る。
 その狼の恋人が隣にいた彼の弟と挨拶を交わし、談笑を始めた。アーサーから視線を外した男は、愛する弟と向かい合っている恋人の姿を、それまでとはまったく違う仄暗い眼差しで見つめている。
 狼は愛情深い。一生つがいと連れ添い、子を愛し育て、社会を形成する。賢く、感情が豊かだ。ああ、本当にそっくりではないか。だが、彼らは決して人間にはなれない。どんなに賢くとも、もしかしたら人間なんかよりよっぽど純粋だろうと、獣は獣だ。人間は彼らを悪いものにすら例える。それでもまだ括りがあるだけましだろう。獣だろうと何だろうと、その存在が確かに在って、この世界に存在するのなら。そんな獣でも、当然人間でもなく、そして、もう国でもない――何者にもなれない男がどうして狂わずにいられるというのか。その〝いびつなもの〟は、獣でも人でもない狼男のように、いつか月に狂い、理性を失うのかもしれない。
 窓から射し込む光に銀糸が輝く。薄い唇からは鋭い牙が覗き、武骨な指先の爪が血が滲むほど強く自身の腕を掴んでいた。大きい喉仏が何かを訴えるように震える。やけに哀しく響くような狼の鳴き声が聞こえた気がした。

 血の色を湛えた眼は、耐え難い苦しみを宿して泣いているように見えた。

 

 

End.
2017.9.7