象牙色の滑らかな肌に指先を滑らし、さして傷の見当たらない肌に唇を寄せた。首筋から浮き出した鎖骨まで辿ったとき、くしゃりと髪が鳴る。まるで幼子でもあやしているかのような頭の撫で方は、多少の不満はあるが嫌いではなかった。
 はやく、と舌足らずなおねだりが耳に届く。思わず吐息のような笑声を漏らすと、眇められた夜色が快楽に潤んだままじとりと睨んできた。

「……なんです」
「いや」

 促す視線があまりに強く、無言の返答を許してくれなかった。
 他にはあまり見せない対敵を見るような鋭い双眸が、ギルベルトは割と好きだった。誰に対してもひどく従順に見える恋人の楯突く様子が、それとなく昔を想起させる。

「ホントに何でもねぇよ。ただ…」
「ただ?」
「エロいなぁって」
「は…?」
「お前って案外積極的だよな」

 明け透けな物言いに思い切り嫌そうな顔をした菊がふいっと顔を逸らし、不満げに漏らした。

「……それはあなたが」
「あ?」
「…いえ、何でもありません」

 もう話は終わりだとばかりに、ギルベルトを包み込む肉襞がきゅうっと狭さを増す。明らかに意図的なそれに舌打ちして、目の前の痩身を貪るべく腰を動かした。
 互いの荒い息と菊の甘い声だけが響く中、細い手が伸ばされる。くしゃりと髪を撫で、眦、頬、顎と伝って、肩から程良く筋肉のついた腕を撫でていく。それはまるで形を確かめているかのような動きだった。
 組み敷いた先の快楽に歪む顔が垣間見せた寥々とした切なさを湛える表情に、ギルベルトは舌打ちしたいのをどうにか飲み込んで一層強く細腰を掴んだ。
 なんでそんな顔をする。俺はお前のものなのに、こんなふうに愛し合っているのに、何が不満だ。……これ以上なんて許されないだろ。
 どうせ直接言ったって、さっきみたいにはぐらかされるだけだ。嬌声をあげる薄い唇に噛み付いて、今は快楽だけを追うために細い身体を掻き抱いた。
 こんなにも近くで触れ合い、繋がっているのに、お前は月でも見上げているような目で俺を見た。



 wie ein Wolf



 パーソナルスペースおかしいだろ。
 もうすでに何度も読んだ資料から顔を上げて最初に思ったのはそんなことだった。視界に偶然入った恋人は他の男と顔を寄せ合って楽しそうに会話していた。似非紳士であるアーサーに菊は何故か好感情と共に理想を抱いている。よき友人ではあるのだろう。しかし、顔を寄せ合い微笑み合っている様はまるで恋人だ。他人との距離を俺たちより大幅に取るはずの恋人があんなにも他人に近い距離でいるのは見ていて気分のいいものではなかった。久方ぶりに出席した世界会議で早々に嫌な場面を見てしまったと眉を寄せる。
 アーサーの口許が動く。ツァボライトの宝石みたいな瞳は本当にあの男かと思うほど優しく緩んでいて、何か菊の耳もとで囁いた。それに反応した菊の頬が朱に染まるのを見て、舌打ちしそうなのをどうにか堪える。あまりにもじろじろと見ていたら視線に気付かれるだろうと思って、もう一度資料に目を落とした。
 およそ内容など入ってこない文字の羅列を目で追っていると、嗅ぎ慣れた香水の匂いが鼻孔を擽った。嫌な予感がして、刻んでいた眉間の皺がさらに深くなる。

「男の嫉妬は醜いよ」

 背後から首に回った腕に今度こそ堪えることなく、盛大に舌打ちした。

「重ぇ、退けろ」
「うっわ、機嫌悪ぅ」
「そりゃあんなもん見せつけられたら、ギルちゃんも激おこやで」
「まぁね。ってか何でお前はこんなおとなしくしてるわけ」
「そうや。あの眉毛に言ってやれや。ついでにぶん殴ってくればええ」
「ちょっと、暴力沙汰はよくないんじゃない」
「お前が言えることやないやん。いっつも殴り合いの喧嘩しとるくせに」
「お兄さんとあいつのあれは挨拶みたいなもんなの」
「楽しい挨拶やんなぁ、今度親分も混ぜてえな」
「お前とあいつじゃガチのやつになるでしょ!」

 フランシスは座るギルベルトに背後から覆い被さるような姿勢のまま、アントーニョと会話をしている。アントーニョはデスクに片手をついてギルベルトの真隣に立っていた。大の男二人が間近にいる所為で暑苦しい。その上、頭上でぎゃんぎゃん騒がれていい気はしない。それもその内容が自分に端を発するとなれば頬が引き攣る。いっそ放っといてほしい。

「ねえ、ほんといいの。あれ」

 あれ、とフランシスが視線で指した先には、頬を桃色に染めてくすくすと笑い合う島国たちがいる。

「…別に」
「痩せ我慢はよくないで~。いつか爆発してまうもん」
「我慢してねぇっての」
「してないならしてないで問題だと思うけど。お前、知ってる? 菊ちゃんってあいつと付き合ってるって思われてるんだよ?」
「そうそう。しかもギルと菊ちゃんの仲を知ってる奴かて、それはギルベルトの嘘で実際はあの眉毛と交際してる思われとるで」

 知ってる、そんなこと。と言おうとしたのをやめて静かに口を開いた。

「誰がどう思おうとどうでもいいんだよ。俺とあいつさえわかってれば」
「……………」
「……………」
「…何だよ!?」

 あれだけぎゃあぎゃあお節介の言葉を騒いでいたのに、神妙な顔で黙り込んだ二人に耐えきれず、声を張り上げた。

「…あかん、親分泣きそうやわ」
「…何なの、お前。存在に似合わず、それなりに格好良い言葉吐くのやめてくんない」
「存在に似合わず、だぁ? 俺様以上にかっこいい奴なんて世界中のどこ探したっていねぇだろ!」
「そこで黙っとけば親分もギルのこと格好良いって認める寸前やったわ」
「結局認めねぇってことじゃね、それ!?」

 フランシスが多少荒っぽく、くしゃくしゃと撫で回してくる手によって頭が揺れる。

「お兄さんが褒めてあげる、お前は偉いよ。よしよし」
「きっ…しょく悪ぃことしてんじゃねぇ!!」
「ギルちゃん、遠慮しなくてええんやで。親分が元気が出るおまじないしたるから、な?」
「おい、やめろ! てめぇらの猫なで声のせいで俺様ことり肌…!」
「またまた~、嬉しいくせに。ってかやっぱお前不憫だね」
「不憫栄誉賞もんやわ」
「なにそれ不名誉! ってかいい加減離せ!!」
「やぁだ」

 ぎゅうっと首に回った腕に力が入る。フランシスが顔を埋めるようにしてプラチナブロンドに頬擦りした。そして俺たちにしか聞こえないくらい小さい声で言う。

「納得いかないんだよねぇ」
「あ?」
「いくら菊ちゃんが鈍くても、恋愛に疎くてもさ。恋人を慮れないのは……傷つけるのは、お兄さんちょっと許せない」
「傷ついてねぇっての」
「嘘」
「そりゃあ嫉妬はするけどよ……ちょっとだけな」
「今、虚勢張るとこじゃないって」
「いいんだよ。あいつは俺様のもんじゃねぇんだから」
「でも恋人でしょ」
「恋人だ。だから、それでいい。あいつは俺のものじゃない」

 同じ言葉を繰り返したギルベルトにフランシスは怪訝に首を傾げる。

「…ねぇ、それどういう意味?」

 ギルベルトは沈黙を返した。言うつもりはないという意思表示にフランシスは眉を下げて、今一度ぎゅっと腕に力を入れた。
 そのやり取りを無言で聞いていたアントーニョが「可哀想なギルちゃんに、ちゅうしたるで!」と突拍子もないことを言い出す。頬を掠った一瞬の熱にギルベルトの顔は引き攣った。「お兄さんも!」と反対の頬に熱が灯る。
 やばい。これはやばい。そう頭の片隅が警鐘を訴え始めたとき、突き刺さった確かな悪寒に頭を抱えたい気持ちだった。

「うん? なんか今…っぐ!?」

 顔を上げようとしたフランシスの頭を強引に引き寄せる。

「ちょっと、急になに!? 首の筋違えた気がするんですけど!?」
「…今顔あげんな」
「はあ?」

 ぐっと押さえつけられたため、腰を屈めて割と無理な体勢をしているフランシスは、ギルベルトに反して身体を起こそうとする。

「顔あげんなって。…ちびるぞ」
「は…? 意味わかんないんだけど」

 フランが粗相するのを阻止してやろうと思う俺様超優しいだろ。と正直思考放棄して現実逃避を始めた脳のまま、ちらと横目でトーニョを見る。その顔が蒼褪めているのを見て、守ってやれなくてすまん、と心中で謝った。

「今までの…」

 アントーニョがからからに渇いた喉で発したような声を小さく絞り出した。

「気のせいやなかったんや…」

 気付いてたのか。お前ら随分平和ボケしてんなって思わなかったわけじゃないが、気づかなくても当然なんだぜ。あれはお前らじゃなくて、俺様に向けた気迫だから。
 ギギギ、と壊れた玩具のようにぎこちない動きでこちらを向いたアントーニョに努めて自然な笑みを浮かべて言う。

「安心しろよ。あいつが態度変えるとかないから」

 和を乱すことを殊更に厭うあいつは例え表面上でしかなかったって、仲良し小好しを貫くだろう。
 そういうことやない、とでも言いたそうなアントーニョの顔は依然蒼褪めたままだった。……蒼褪めたいのは俺のほうなんだけどな。

「ちょっと! 痛いっての、ギル!」
「あ、わりぃ」

 強く押さえつけていたフランシスを解放する。「は~、もう何なの…」と首に手を当てて顔を顰めたフランシスはアントーニョを見て目を丸くした。

「え…どしたの?」
「…菊ちゃん怒らすんやめるて胸に誓ってるんや」
「はあ?」
「別に、あいつ食べ物以外でろくに怒んねぇから安心しろっての。ただ自分のもん取られるの嫌がってるだけだぜ」
「自分のもん?」
「ああ。俺様はあいつのものだからな」

 何となしに見た遠目にいる恋人と視線が交わる。にこり、と微笑った顔に俺は軽く手をあげて応じた。

「……正直親分ぞっとしたわ」
「ううん? ねぇ、さっきから何の話してるわけ?」

 ギルベルトは曖昧に笑って話を逸らしながら、この先を思いやって心中で深く溜め息を吐いた。殺気かと思うほどの気を一身に受けた悪寒が尾を引いたが、勿論それを恐れるほど弱くもないギルベルトは、さてどうやって恋人を宥めようかと会議そっちのけで考え始めた。