TOP > APH > Gilbert x Kiku > Short > Wort des letzten Moment > 01
日本は無表情でアメリカの言葉を聞いている。アメリカの横にいるイギリスは気まずさと哀しさを混ぜ合わせたような顔で無言を貫いていた。
「では私はこれで」
渡された書類に躊躇いなくサインをした日本は、少しの逡巡もなく部屋を後にした。
少しの間を置いて、イギリスが耐えられないというように席を立って部屋を出ていった。日本を追いかけるのだろう。それを見たアメリカは嫌そうな顔をしたが、止めることはしなかった。
「…フランス」
アメリカが幾分か低い声で呼ぶ。
「なに?」
す、と鋭い視線が扉に向けられた。
「あー…はいはい。わかった、イギリスが余計なことしないように見てくるわ」
はぁ、と不快溜め息を溢しながら、フランスは日本とイギリスを追いかけた。
「日本…!」
「何ですか」
無表情だ。日本は先ほどから欠片も表情を変えない。まるで人形のそれのように、少しも変化がなかった。いつもと同じように静かに紡がれる声音は、けれど普段より感情の機微が一切ないように感じる。いっそ声を張り上げて罵ってほしいとさえ思うほど。
声をかけたはいいが、イギリスは何を言えばいいのかわからず、呼びかけただけで喉の震え続かなかった。
「今まで」
「…日本、」
「今までありがとうございました、イギリスさん」
感謝の言葉のはずなのに、無表情で淡々と紡がれたそれは何の感情も籠っていないかのようだった。
イギリスは絶句している。あーあ、だから追いかけなきゃよかったのに。フランスは廊下の曲がり角に身を潜めて、そっと二人の様子を窺った。
お前がどんな言葉をかけたって、日本の心を慰めることはできないだろうよ。いい加減腹をくくればいい。お前は日本よりアメリカを選んだんだ。当然の選択だ。世界中の誰もが当たり前だと頷く結果だ。
日本は沈黙の中でも能面みたいな顔で佇んでいた。
今の日本の胸中がどれほどのものか想像もしたくないけれど、あんな無表情でいられるはずがないのだ。人種差別撤廃は叶わず、海軍は軍縮され、そして今日。四ヵ国条約締結。
(…あんな顔だったっけ)
フランスは無表情の日本を見つめながら、違和感を感じていた。この条約が明らかに日本に力を持たせないためのものなのに、日本は声を張り上げることも悔しがることもしない。ましてや哀しさを滲ませることも、怒りの表情さえ浮かべない。
ふいに、二年前のことが思い出される。そうだった。二年前、人種差別撤廃法案が反対されたときはこんなんじゃなかった。日本は信じられないというように目を大きく見開いてから哀しげに瞳を揺らした。そして、次の瞬間には怒気を露わにしてアメリカを見たあと、イギリスに視線を向けて諦観を浮かべたのだ。強く歯を噛み締めて、悲憤や悔しさの表情を隠しもしなかった。
何も言わないイギリスに日本は話すことなど何もないというように、背を向けて歩き去っていく。
怖い。そう思った。日本の歩む一歩一歩がどうしようもなく怖い。あの男は俺たちの優位性をいとも容易く壊した男なのだ。あんな女の子みたいに小さい身体で、閉じこもっていた安寧の場所から何も知らない世界へ飛び出し、たった数十年でここまで来た。アメリカに脅威と見なされるほどまで。
――『ふらんすさん』
開国したばかりの頃の日本が拙い発音で呼びかける姿が脳裏に甦る。俺の仕草を真似していた日本。困ったような微笑み。羞恥に頬を染め、戸惑う姿。
もうそんな姿、しばらく見ていない。日本は変わった。鋭い視線。躊躇いもなく引き金を引く姿。真っ赤に染まる刀。どうして今まで違和感を抱かなかったのか。当たり前にその姿を受け入れていたのだろうか。それは、まるで。
(…まるで、別人みたいだ)
フランスは堪らず日本を追いかけた。否定してほしかった。変わってなどいないと。あの頃と、優しい微笑みを浮かべていた頃と何も変わってなどいないのだと。ただ今の時代の辛さや苦しさに嘆いているだけなのだと。
――日本は、日本のままなのだと。
日本は中庭にいた。ひどく冷える外気の中、凛として立ち大きな樹木を見上げている。寒空の下、日本の静かな声が風に乗って聞こえてきた。
「兵隊は皇威を――する為めに――」
何を言うこともなく、詰め寄ることもなく、あの場を去った日本の心中を少しでも窺えるのではないかと耳を澄ます。
「誠心を本とし忠節を尽し不信不忠の所為あるべからざる事」
冷たい空気を鋭く裂くような声が今度ははっきりとフランスの耳に届いた。
日本の声を聞き漏らすまいと息を殺したとき、隣に近づいてきた気配に思わず溜め息を吐く。
「…おまえさ」
フランスは呆れた表情で隣にきたイギリスに視線を向けた。お前、さっき打ちのめされたばかりじゃない。
「な、なんだよ!」
「実はドMなの? 性懲りもなく追いかけてきて。自分が傷つくの目に見えてんだろ」
「うるせぇ」
威勢よく吐かれた言葉なのに寂しさを伴っていたのは気のせいではないのだろう。
「目を逸らしちゃ駄目なんだよ、俺は。…相棒、だったんだ」
「…そう」
わかってんだよ、とイギリスは小さく呟いた。わかってる。わかってるんだ。何度もそう言った。
そりゃそうだ。日本を追い込んでいることも。戦いの前のこの予兆も。国の化身の心情など置き去りにして世界が回ることも。全部わかっているのだろう。
「道徳を修め質素を主とし浮華文弱に流るるの所為あるべからざる事」
日本がす、と手を伸ばした。それは空を切るだけで何もないというのに、何かを手にしているような仕草だった。見たことがある気がする。恐らく、刀だ。
「名誉を尚び廉恥を重んじ賤劣貪汚の所為あるべからざる事」
「日本は何を言ってるの?」
「日本とこの軍人の宣誓みたいなやつだろ。確か…読法?とか言ってたな」
「へえ。でもさ、何かあれ…」
「何だよ?」
何かに似てない?
そう言おうとして、フランスは目を見開く。あれだけ無表情だった日本が口角をあげた。不敵な笑み。不安など微塵も感じさせない、自信に満ちた顔だった。そんな顔、見たことなどない。
闇色だったはずの瞳に色が灯ったような気がした。いや、そんなわけない。きっとただの光の反射だ。だって、そんなはずはないのだ。真っ赤な血の色のように見えただなんて、そんなはずは。
「……っ、」
「フランス?」
イギリスが訝しげにフランスを見た。イギリスは何とも思っていないようだ。ほら、やっぱり気のせいだ。
「……いや、何でもない」
挑戦的な笑みも、自信に溢れた顔も、血のように赤い瞳も。すべてがあの男と重なる。
(なんで…)
日本は凛と背筋を伸ばして、静かに言葉を紡いでいる。
――ねえ、それさ。
昔のドイツ騎士の誓詞とそっくりじゃない?
(気のせい、だよな)
国家を有する軍隊とまで言われた男の姿と、ひたすらに軍国主義を歩む日本の姿が重なって見えた気がして、フランスはなぜかひどく動揺した。