02

 

 いつかの日の謝罪を今度こそ口にしようと思った。
 隣国の二人の王子の秘密を知った軍事顧問は、それでも瞬時に冷静な顔で正しい道を示した。ついにこの時が来たか、とアウグストは妙に平静な頭で思った。顧問の解任を無感情に口にして息を吐いた。
 クヴェレバーデンでの無体の謝罪を未だしていなかったのは、事態の急展開でそれどころではなくなったからだ。あんなふうに死線を共に掻い潜ってしまえば余計に――とまで思ったところで、アウグストは首を振った。

「……最後にもう一つ」

 振り絞った声の掠れは、未だ矜持が先立っていたからだ。
 アウグストの言葉に姿勢を正したバルツァーを真っ直ぐに見つめて喉を震わせた。

「悪かった」

 徐々に見開かれていく鸚緑の瞳に、謝意を見せている最中だというのに笑いが込み上げてきそうだった。驚いて動揺する様が妙に心地よかった。敵うことのない男に情けないながらも小さな一矢を報いたような、そんな気分だった。

「えっと…何がですか
「思い当たる節が多すぎるという顔をしているな」
「え い、いや、まさか 何も思い当たらないから聞いてるんですよ

 焦ったように頬を掻いて、引き攣った乾いた笑みを返す男に無意識に口角があがった。ああ、面白がっている場合じゃなかった。アウグストは口を引き締めて、真摯な眼差しで言葉を続けた。

「あんな行為を強要したことだ」

 息を呑んだバルツァーを見てから目を伏せた。もう何も言うことはない、と背を向けようとしたとき、彼が発するにしてはやけに弱々しい声が耳に届いて顔を上げる。

「……困りましたね」

 バルツァーは、眉を下げて無理矢理作ったような笑みを浮かべていた。

「まさか謝罪されるとは…。やめてくださいよ、余計虚しくなるじゃないですか」
「なにが…」

 そこまで言って口を噤んだ。そりゃそうだろう。あんな行為を強要された挙句、それを頭からとっくに追いやっただろう頃に謝罪などされたくないはずだ。謝意を示すことすら、結局はアウグストの独り善がりなのだ。

「あんなことであなたの気が晴れたなら、それで充分です」

 アウグストは眉間に深く皺を刻んだ。バルツァーに向けるには筋違いな苛立ちが湧く。あのときの惨めさが蘇り、拳を叩きつけてしまいたいほどだった。

「それに、俺にとっても都合がよかったですし」
――…はあ

 アウグストはたっぷり時間をかけてから、予想外の言葉に思いっきりの怪訝をもって男を見遣った。

「他の行為と何も変わらないですよ。利害の一致。それだけのことでしょう」

 利害の一致。まるで知らない言語でも聞いているかのように理解できない。
 あの行為は、最初から最後まですべてアウグストの我が儘だった。癇癪を起こした子どものような哀れな行為にバルツァーは付き合わされただけだろう。

「お前に何の利があったというのだ」

 しん、と急に深い沈黙が降りた気がした。
 理知的な双眸が真っ直ぐ真摯にアウグストを見つめて、すうっと細まる。薄い唇が小さく震えた。

「想い人と肌を合わせられる」

 幾度も戦況を覆す号令を放ってきた喉は、そんな優秀な軍人に相応しいほどの爆弾を投げつけてきた。
 その言葉を呑み込むまでにそれなりの時間を要した。ようやく理解が追いついた瞬間、気管が圧迫されたかのような苦しさが襲いかかる。腹の底あたりが名状し難い情動に波立ち、身体中に張り巡らされた血管の中の血が一気に熱を持った気がした。ドクドクと段々と駆け足になる鼓動が耳の奥で木霊する。
 真面目くさった表情をしていた顔が、ほらね、とでも言うように無邪気に緩む。

「充分でしょう

 アウグストは咄嗟に胸もとを押さえた。心臓が灼けるように痛い。

「俺にとっては突然ラッキーが降りかかってきたようなものです」

 そんな軽口で、男は容易くアウグストの罪を雪いだ。

「手の届かないはずの相手に情けをいただけたと、勝手ながら思っていましたよ」

 ――手の届かないはずの相手。
 そんなもの、俺の台詞だ。

「私には身に余る光栄でした」

 ふ、と小さく微笑って男は続けた。仰々しい物言いと動作をもって言い放ち、不敵に笑う男の瞳が揺れたことに気付いてしまったことに後悔する。
 強かな男だと知っている。それはこれだけの時間を士官学校の訓練長と軍事顧問として、また第二王子と他国の将校として過ごしてくれば、当然わかることだった。知識や行動で常にアウグストより先立っていた男は、頼られればと頼られた分以上の働きをもって返してきた。そこに異国の思惑と利害があるにせよ、何度も助けられてきたのは事実だ。だからいつだって間に合わない。男の辛苦や悲哀を思いやろうと、ようやく気付いたときには男はいつだって笑っているのだ。自分の優秀な能力でとっくに昇華している。アウグストの手など借りる必要はないのだ。
 それでもいつか、とアウグストは今はもう何でもないような顔で笑ってしまえている男を真っ直ぐに見た。

「……違う」

 いつか、この男の心に巣食う負の思いを少しでも救うことが出来るのなら。強くなりたいと思った。故国のためだけではない。この男の悲痛を理解し、手を差し伸べられるように。

「情けなどではなかった」

 強い口調で凛と紡がれた言葉にバルツァーは目を見開く。
 それなりの覚悟をもって発したというのに、彼はアウグストの言葉の真意を履き違えたらしい。

「……わかってますよ、そんなこと」

 覇気のない声が返る。それでも男は微笑っていた。
 舌打ちしそうなのを止めて、アウグストはバルツァーのもとへ軍靴の音を大袈裟に響かせて近寄った。その勢いに反射的に身を引いたバルツァーの襟を掴んで強引に引っ張る。ぼやけるくらい近くで顔をつき合わせて吐き捨てた。

「わかっていないだろう、馬鹿者め」

 かつて戒めたはずのそこに躊躇いもなく唇を重ねた。
 咄嗟に反応できずに固まったバルツァーの身体が長い時間をかけてようやく動いた。徐々に深くなっていく口づけは、止まる所を知らない。
 また会える保証などありもしない。それでも今感じる情動は、紛れもない清福だった。

 

 

End.

2017.3.9