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02
連日降り続いていた雨がやんだことにほっとした。不思議の国に降る雨はきっとあの子を追いかけてきた雨なのだろう。
晴れた、とは言えないどんよりと曇った空を見上げて、思わず溜め息を吐く。物語は進まなくてはならない。僕は動かない話には興味がない。けれど、物語が進んだ先にあの子の幸せはない。
(生きる目的を与えたのは僕なのに、ね)
「アリスちゃん…?」
空から視線を移すと、ゆらゆらと覚束ない足で歩くアリスが視界に入った。
小さく呟いた呼びかけに気づいたのか、こちらを向いたアリスの虚ろな目に心臓が嫌な音をたてる。あの子のそんな目は見たくなかった。
急いで駆け寄ると、彼の着ている服がぐしゃりと歪んでいて白い肌が見えていた。何があったのか、と最悪な想像をして息をのむ。
「ッ…アリス、」
ぼんやりとしていた彼の瞳がやっと僕を認識したようだった。
「チェシャ猫…?」
彼はそれまでの表情が嘘だったかのように、いつものように呆れたような、それでいて構ってもらえることを喜ぶような顔で笑った――いや、笑おうとしていた。
その笑みはちぐはぐな歪な笑みにしかなってはいなかった。
「あんた、こんなとこで何してんだよ」
「………」
「また散歩か? たまにはご主人様とやらと一緒にいりゃいいのに」
「……アリス」
「あ? なんだよ? 変な顔してんぞ、チェシャ猫」
「……変な顔してるのはアリスちゃんでしょ」
「は?」
「何があったの?」
「なにって、」
「…泣いてるよ、アリスちゃん」
しん、と辺りが静寂に包まれた気がした。それはきっと気のせいだけれど、少なくとも彼と僕の間の空気が冷たく棘のあるものに変わって、歪な笑みを浮かべた彼がひゅ、と不器用に息を吸う音がやたらと大きく聞こえた。
次から次へと溢れる雫を見て、だから雨がやんだのかと思った。彼の変わりに降り続いた雨は彼の中へと戻ったのかもしれない。
彼女と同じきらきらと輝く髪を撫でようと手を伸ばして、触れていいものかと迷った。中途半端に伸ばした腕が行き場を彷徨ってると、突然身体に衝撃が走る。
ドンッと勢いよくアリスが僕の胸へと抱きついたからだ。しがみつく腕は僕の背中の服をぐしゃりと歪ませる。
躊躇いを見せた僕の代わりに自ら飛び込んできたのかと、きっとそんなことは無いのに、そう思った。
彷徨わせていた手を胸の中の彼の頭に置いて、手触りのいい彼の髪を撫で続けた。僕のぎこちのない動きに呼応するかのように嗚咽が聞こえる。
「何があったのか聞いてもいい?」
「………」
「アリス、」
「……帽子屋が…」
また、あの男か。
「…おれ…何が出来るかなって考えたんだ」
「うん」
「どうしたら…あいつは俺のこと、見てくれるかなって」
「うん」
「でもさ、気づいたんだよ……どうしたって無理なんだ」
俺、アリスじゃないから。
彼は僕をしっかり見ながらそう言った。
どきりと心臓が跳ねる。何も覚えていないはずの彼が、なぜか全てをわかっているような、そんな達観したかのような瞳で僕を見るから。
僕を責めているかのような瞳で。そう見えるのは僕の主観に過ぎないのだろうけど。
「……そうだね」
僕は非道い人間だ。その言葉に肯定して微笑む僕は最低な、人間だ。
「だからさ、少しでも覚えていてもらおうって思った。俺のこと。今までのアリスに出来ないこと。あいつは意外と女は大切にするタイプだろ? だから、これだけはしないんじゃないかって」
これ、と彼が指したものは彼の首筋に残る鬱血の痕だった。
でも、性欲処理にすらならないってさ。
そう言って昏く嗤う彼はどう見たって〝アリス〟には見えなかった。
少し身体を離して彼の目元を撫でる。雫を拭いながら、舐めたらしょっぱかったりするのかな、なんてどうしようもないことを考えた。
「君は好きなんだね、帽子屋さんのことが」
「……だから、俺の設定を勝手に創んなって」
「…うん」
むっとして、それでも呆れたように笑う彼はいつもの彼に戻っていた。
「アドバイス、くれないの?」
「んー?」
「チェシャ猫らしく、アリスさんを導いてくださいって言ってんの」
「あれー? 僕のアドバイスは八割方どうでもいいことしかないって言ったのはどこの誰だっけ?」
「はぁ? 俺はそんなこと言ってねぇぞ」
「……そうだね。うーん、そうだなぁ…アリスちゃんはもうちょっと黙ってればいいんじゃないかな」
「は? 俺がうるさいって!?」
「違う違う。アリスちゃんは余計な言葉が多くて、帽子屋さんは言葉が少なすぎるってこと」
「……わけわかんねぇ」
ふて腐れている彼の頭をくしゃりと撫でれば、彼は嬉しそうに笑った。
ふわりとまるで少女のような笑みを浮かべたアリスにまたしてもドキリとした。
(誰だ、これは…)
もう狂ってしまったのかもしれない。彼もこの国と同じように。
いや、そんなことはない。だって彼は〝不思議の国のアリス〟を唯一救えるかもしれないアリスなのだ。
掌を頬に滑らせるとすり寄せてくる目の前のアリスは、愛情に飢えた幼児でしかなかった。
生まれたばかりの幼児なのに身体は大人で、我が儘な思想と裏腹に考える力を持っている。そして、〝アリス〟なのに男。
何もかもちぐはぐなまま、愛されたいと望む彼の姿はひどく滑稽だ。それから、そんな彼から目を逸らす自分も滑稽だった。
早く終わらせてくれ。この残酷なイカれた物語に早く結末を。じゃないとこの責め苦に僕はおかしくなってしまいそうだ。
(ごめんね…)
免罪符のように何度も心で呟いて、アリスをもう一度抱き寄せようとしたとき、終わりを告げる音が響いた。
カチャリと銃の構える音が背後から聞こえた。
「アリスから離れろ、馬鹿猫」
普段よりもなお低い苛立つ声を聞いて、思わずくすりと笑う。密着するくらい近くにいる目の前の猫がそんな俺を見て呆れたような顔をした。俺の気持ちなんてこの猫にはお見通しなのだろう。
「僕は離れてもいいんだけどね。アリスちゃんは嫌みたい」
さらりと頭を撫でるチェシャ猫の手は温かくて、なぜか安心した。親がいたとしたら、こんなふうに撫でてくれるものなのだろうか。そんなことを思う自分が可笑しかった。
背後の男が舌打ちをする。そうだ。もっと苛つけばいい。こうやって猫に近づく俺をその手もとに引き寄せてくれ。その苛つきがどんな感情からくるものでも嬉しいから。
「アリス…!」
ぐいっと肩を引っ張られてチェシャ猫から離される。強引に振り向かされて見上げた男の顔はひどく不愉快そうに歪められていた。
「なんだよ、帽子屋」
「ッ、」
帽子屋は俺の顔を見て目を瞠った。
目元を撫でてくるのは何故なのだろう。チェシャ猫も同じことを俺にしたけれど。
「ねぇ、帽子屋さん」
「………」
「誰が泣かせたんだろうね?」
「…おまえはどこまで知ってる」
「僕は何も? 帽子屋さんの考えてることなんてさっぱりだもの。でもアリスちゃんの考えてることはわかるよ。こんな分かりやすい子いないもんねぇ」
「………」
「いい加減、彼のこともちゃんと見てみなよ。壊れちゃっても知らないよ?」
ちりん。鈴の音がする。
「ぁ…」
俺が小さく声を漏らしたときにはすでにチェシャ猫の姿はなかった。
ありがとう、と言いたかったのに。何に対する感謝かはよくわからないけど、あいつはいつだって少し哀しげに微笑うから。
「帽子屋…?」
「………」
「帽子屋さーん? 聞こえてるなら返事しろよ」
「……アリス」
「んー?」
掴まれた肩が痛い。指が食い込むんじゃないかと思うくらい強い力で。
「なぁ帽子屋、いた…ん、」
痛い、と言おうとした唇を塞がれる。帽子屋の唇で。
驚いて身体を引こうとしたところを強引に引き留められてさらに深く唇が合わさる。
口付けをされたのは初めてだった。そこには触れてはいけないと思っていた。
身体は許して唇はダメなんて、よくわからないけど、そういうもんかなって思っていた。
思わずきつく閉ざしていた瞼を開くと、帽子屋と目が合った。黒曜の瞳がどこか熱っぽく見えたのは俺の願望だろうか。
「んぅ…ぁ、は…」
合わさった唇はなかなか離れてくれない。煙草の苦い味と甘ったるい紅茶の味に瞬きをすると、睫毛が触れた。その触れるくらい近くにある瞳の中に自分が映っている。熱に浮かされた俺が帽子屋の瞳の中に。これだけ近ければ当然のことなのに、それが嬉しくて笑った。
「…まだ、」
「ん…」
唇が離れる。こつりと額が合わされた。その行為も、頬を撫でる優しい指先も、まるで恋人のような甘酸っぱさだった。
「……まだ…壊れるな…」
帽子屋の言葉の意味は俺にはよくわからなくて首を傾げる。
それでも肯定の返事を求めていることはわかったから、「うん」と適当に頷いた。
俺はそんなことよりも、先の口付けとか額ごっつんことか優しく頬を撫でる行為とか、そういうことが嬉しくて仕方なくて、まるで羽根が生えてふわふわと空を飛んでるような気分でいた。
だからその気持ちのままに純粋に笑った。
「他人のキスシーンって僕は見たいとは思わないなぁ」
ふわりとまるで幸せそうに笑ったあの子を見て帽子屋さんは眉を顰めていた。
そうだよね、彼はそんな顔で笑ったりしない。
物語を進めて迎える結末はきっとあの子には残酷なのだろう。けれど、たとえここで立ち止まっていようとも、白ウサギがこの世界を繋ぎ止め続けられずに世界は崩壊する。
どうなろうと、あの子の迎える結末はきっと幸せなものじゃない。それは先生が一番わかってることだよね。
――可哀想。
どこかで彼の愛する彼女の声が虚しく響いた気がして、ひどく胸が痛んだ。
End.
2015.5.27