花が咲き誇る美しい中庭を突っ切る足は、どうしてか足早に動いていた。まるで何かから急かされているように足の回転が速くなる。いつも規則的に動く足は、なぜか縺れるようにして美しい中庭を荒らしていた。
 ぐっと左手の拳を握ったときだった。手のひらに包まれた指先が妙に熱く感じることに違和感があった。そのことに気づくと、ちりちりと何かに灼かれるような熱さが左腕の肘くらいまでを覆っていることを知る。慣れ親しんだ炎の残滓と、鼻に残る嫌なにおい。とっさに懐に手を伸ばし、煙草を取り出そうとしたが、そこには何もなかった。苛立ちと激しい嫌悪のような吐き気をどうにか呑み込み、はやく、と何かに急かされるままに足を動かす。
 歩く速度はいつもより速かったはずなのに、妙に長い時間を感じながら、ようやく中庭を抜けたときだった。

「ソル様ッ…!」

 物々しい鎧をまとった兵士とかち合った。こちらを見て驚いたような、それでいて縋るような呼びかけは、清廉な空気を切り裂くような必死さを纏っている。

「っ、カイ様が……ッ!」

 涙の滲む悲痛な声だった。兵が続けた言葉にソルは息を呑み、限界まで目を見開いた。そうして兵の放った言葉を時間をかけてどうにか飲み込み、ぎりっと音が鳴るほど強く歯を噛み締め、踵を返した。



 そこにたどり着くまで、嘘だ、とその言葉だけをずっと繰り返していた。長い廊下を曲がった先、目指した部屋は扉が開いていた。豪奢な造りのそこは、物々しく荘厳で尚且つ華やかであるはずだった。しかし、その空気は粉々に壊され、異様な空間に様変わりしていた。複数の兵士たちが呆然と立ちつくしている。嫌な臭いがした。嗅ぎ慣れた、血のにおいが。
 大した距離を走ったわけではないというのに、息を切らして部屋に駆け込んだ。その先で座り込んだ養い子の姿にぴたりと足を止め、ソルは愕然と目を見開いた。
 ……うそだ。嘘だ、うそだ! 眼前の光景が信じられなくて、呆然と立ち尽くすだけのソルを座り込んだままの養い子が振り返った。父親と同じ青と白を基調とした服が真っ赤に染まっている。その腕に抱えられたものも真っ赤だった。

「っ……」

 ソルは思わず口を覆い、込み上げてくる吐き気に慄いた。
 こんなもの、見慣れている。鼓動があったはずのものがただの肉塊と化している様なんて、今まで何度だって見た光景だ。少し前まではそれが折り重なっていることさえ、普通だった。そんな戦場に立っていた自分にとっては見慣れたはずの景色。それでも今目の前に広がる光景を理解できなかったし、したくもなかった。
 兵の一人が膝を折り、呻いた。それに連動するように堪え切れない泣き声がそこら中からあがった。
 うう。アア。うああ……。男の泣き声は不様であったが、皆、誰の目を憚ることなく、子どものようにしゃくり上げていた。誰かが抑えきれないように、呻き声の最中に呟いた。――……カイ様……ッ!

「………カイ、」

 ソルはようやく声を出した。
 養い子の腕の中にいる真っ赤に染まったものの名前を呼んだ。なんだ、といつものように首を傾げてくれる、応えてくれる、そんなことを期待して。
 けれど、幼子が遊び尽くしてくたびれている人形のように、それはぐったりと身を投げ出したまま、ぴくりとも動くことはなかった。
 散らばった金糸が窓から差し込む陽の光に照らされ、きらきらと瞬いている。抜けるような白い肌は透明感を増し、長い前髪の間から覗くはずの蒼碧の宝玉はそこに現れることはなかった。長い金の睫毛さえ揺れることはない。
 長い裾の先まで真っ赤に染まった仰々しい衣裳には、燃えたような残痕があった。人形のように動かない痩身の横に王冠が落ちている。……いや、王冠だったものが落ちていた。それは何か恨みでもぶつけられたかのように、粉々に砕かれている。
 閉じられた小さい薄桃の唇の端から赤が伝っていた。真っ赤な雫が。
 清廉さを彷彿とさせる青と白の装束は、その雫と同様に真っ赤に染まっている。その赤はカイの身体から流れ続け、床に広がり続けていた。
 ソルはとっさに動いた。養い子の腕の中から赤に染まった身体をひったくるように奪う。ソルの両手から淡い光が沸き立つ。治癒術を展開し、無意識の衝動のまま、小ぶりの唇へ己のそれを押し付けた。そこから息を感じないことに絶望する。どんなに治癒を施しても流れ出る血が止まることはなく、辺り一面が真っ赤に染まっていく。
 窓から差し込む幾筋もの陽の光が、まるでステンドグラスに囲まれた礼拝堂にでもいるような錯覚をもたらした。聞こえるはずのない讃美歌が聞こえる。祈りの言葉が聞こえる。強く抱え込んだこれっぽっちも動かない身体に純白の羽根が生えた気がした。
 うそだ。いやだ。やめろ。連れていくな。
 ソルは混乱の最中、必死にカイの身体を掻き抱いた。確かに抱き込んでいるはずの身体には鼓動がなかった。熱がなかった。命が、なかった。
 アア、と獣のように呻いたときだった。

――それで、」



 誰が王さま殺したの



 無感情な声が響き、ソルは弾かれたように顔をあげた。
 普段あれだけ表情を変える子どもが無感動な瞳でソルを見ている。その温度のない顔に乗る一つの眼は父親と同じ色だった。どこまでも冷たい眼差しに責め立てるように強く射貫かれ、ソルの意識は闇に呑まれた。