TOP > Guilty Gear > Sol x Ky > Theme > 愛でても撫でても往くひとの > 04
パリに訪れたのは、ただ単純に賞金首の情報を求めていたからに過ぎなかった。
郊外にさしかかったときだった。数人の列がソルの前を横切った。皆一様に黒い服に身を包んでいる。ただ一人、年配の男性が白い法衣を身につけていた。すすり泣く声が聞こえる。真っ黒なモーニング・ドレスを着た人たちの真ん中に真っ白い匣があった。棺だ。
ゆらりとした緩慢な足取りですすり泣く声と共に、その列はソルの前を通り過ぎた。遠目に見える小さな教会へ向かうのだろう。
ソルは思わず彼らを追うように振り返った。棺はどこぞのおとぎ話のように硝子でできているわけがない。それでもその棺の中を覗いたような気になった。
見えるはずがないのに十字架が見える。灯火した六本の燭台も。聞こえるはずがない聖歌が聞こえる。大勢の参列者がいる。一様に喪服を纏い、項垂れている。その一番後ろからソルは見ていた。棺が入ってくる。その上に花の十字架が添えられる。祈りの言葉が教会に響く。ソルはただ棒立ちでそれらを眺め、聞いていた。すすり泣く声があちこちから聞こえる。女の声が涙に濡れたまま吐息のように小さく零した。……――カイ様。
気がつくと誰もいなかった。かつて世界遺産であった広い聖堂には、誰も。祭壇の前に棺がある。真っ白い棺がある。ソルはゆっくりと足を動かし、それを目指して歩いた。手にはいつの間にか白いカーネーションを持っていた。棺に辿りつく。どうしてか、棺は開いていた。そこに横たわる見知った男。真っ白い花に埋もれるように囲まれて、口もとは心なしか微笑んでいるように見える。抜けるような白い肌はそのまま色をなくしそうだと思うほど、透明感があった。ステンドグラスから入った幾筋もの陽の光に照らされて、金の髪がきらきらと瞬いている。その下の二つの眼が見えないのが嫌だった。宝石も眩む美しい蒼碧が、見えないのが。ソルは白いカーネーションを添えた。胸の上で組んでいる手に。その手はいつもその首から提げられていた十字架が握られていて、その横に添えるように真っ白い花を置いた。ふんわりとフリルのように波立つ花びらが幾重にも重なったその可憐な白い花の花言葉が、唐突に脳裏を過ぎった。……innocence――純潔。そして、純粋な愛。男に似合う、いや、彼にこそ相応しい花だった。その純粋な愛を、俺はきっと――。
「………坊や」
頬を撫でた。そこに体温なんてなく、ただ冷たかった。ソルは身震いし、その場にくずれ落ち――、
「あっ、すみません……!」
ソルはハッとして、肩に当たった何かしらの反動で身体を揺らめかせた。肩に当たったのは人だった。長いブロンドを靡かせた女性は、頭を下げるようにしてソルに謝った。通行人が突っ立っているソルに当たったのだ。
ソルは弾かれたように周囲を見た。黒い服に身を包んだ人はいない。白い法衣を纏った神父も。真っ白い棺も。彼らはきっと、遠目に見える小さな教会にとっくに吸い込まれていったのだろう。
ソルは茫然としたまま、「……いや」と緩く頭を振った。ほっと安堵したブロンドの女性が急いだ様子で足早に去っていく。その刹那、女性の瞳をソルは捉えた。どこまでも澄んだ、青と緑を合わせたような、美しい宝玉だった。ソルはとっさに去っていく女性の背に手を伸ばしたが、次の瞬間にはソルの腕は重力に従い力なく落ちた。
ぼんやりと遠ざかっていくブロンドの女性を眺める。女性はある男を捉えると駆け出した。男は短い黒髪で白いシャツを纏い、青空のような瞳をしていた。男は向かってくる女性を迎え、そのまま細い腰に腕を回し抱きあげて、くるくると回った。顔を向かい合わせる男女は世界で一番幸せだというような顔で微笑み合い、口づけを交わした。
そのラブロマンスの映画のような場面から視線を外し、ソルは足早に市場へ向かった。無性にあんなふうな人間の真似事がしたくなった。――冷たい頬に触れる前に。
***
ソルはいろんな液体と痕でぐちゃぐちゃになっているカイを抱きあげ、浴室へ向かった。意識のない男性の身体を軽々と抱き、ソルは殊更優しくカイの身体を撫で、その上からソルの痕跡をすべて洗い流した。皮膚病でも患っているような赤い痕だらけの足も治癒を施し、ソルが残した痕を跡形もなく掻き消した。
もう一度寝室へつれていき、柔らかい寝台に寝かせる。ふいに口もとに手を当てた。わずかに呼気がかかる。生きている。ソルは安堵し、短い金糸を優しく梳いた。しばらくの間、ベッドの端に腰かけ、カイの姿を眺めていた。
気がつけば日が昇っていて、朝の陽光が窓から差し込んでいる。
ソルはおもむろに立ちあがった。そのまま寝室を出ていこうとして、ふいに振り返る。寝台に横たわる姿が、この家に訪れる前に見た白昼夢と重なって、慌てて頬に触れた。おっかなびっくり触れたソルの指先には、確かにあたたかい温度が灯った。ソルは今一度側頭部から顎にかけるように指先で撫でて、腰をかがめた。触れるだけの口づけを落とし、今度こそ寝室を出ていった。
玄関を開けて数歩進んだときだった。機械的に足を動かしていたソルの背に、随分と聞き慣れてしまった声が、聞き慣れた呼び方をした。
「ソルッ……!」
ソルは反射的に振り返っていた。ぐったりと意識を失って寝台に横になっていたはずの身体がそこにはあった。裸身にシーツを纏わりつかせただけの心許ない姿で、懸命にソルを見つめている。息を呑む。カイの小振りな唇が何か言おうと戦慄いた。数瞬、震えた唇は絞り出すように、けれど確かな情を乗せて、毅然と言葉を紡いだ。
ふいに深いところにあったはずの意識が浮上した。手でさぐるようにシーツを引っ掻くが、そこにはただ冷たい布が広がっているだけで温もりの欠片もなかった。煙草の匂いも、炎の気配もない。カイは慌てて飛び起きた。
ベッドから勢いよくおりた身体は、かくんと無様に床に崩れ落ちる。シーツがはらりと落ち、清廉な朝の空気の中へカイの裸身が晒された。カイはシーツを手繰り寄せ、申し訳程度に身体を覆うと、ふらふらになりながらもどうにか立ち上がった。足を縺れさせながら階段を下りる。リビングを抜け、短い廊下を拙い足取りで駆けた。
何の算用もなかった。ただ、唯一の男の大きく逞しい背中が見えることだけを願って、玄関の扉を強く開け放った。
はたして、そこには思い描いた背中はあった。もうすでにこの家を出て、数メートルは進んでいる背中が。
「ソルッ……!」
反射的に叫んでいた。驚いたように振り返ったソルの赤茶は珍しいほど大きく見開かれていた。
言おうと思っていたことがある。いつもと様子が違うソルに不安を感じていたとき、絶対に今夜は眠らないでソルの背を見送ると誓っていた。たとえソルがもう二度とここへ訪れないつもりでも、何か大きな目的のためにその身をかける大きな覚悟をしていようとも、一言、どうしてもかけたい言葉があった。
――『いってらっしゃい』と、言いたかった。
全世界で、すべての家庭で、家族を、誰かを送り出すときに言う使い古された文句を、どうしても言いたかった。
私はここにいるから、この場所にいるから、もし何もかもを投げ出したいほど疲れてしまったらこの家に来てほしい。その羽根を休める止り木になる。お腹がすいたでも、風呂に入りたいでも、柔らかい寝床が欲しいでも、セックスしたいでも何でもいい。何だっていいから、ここへ来られるように。……できるなら――それをお前が許してくれるというのなら――「帰って」こられるように。
しかし、伝えるはずの言葉はカイの口から放たれることはなかった。いってらっしゃいと言うはずだった唇は、まったく別の言葉を紡いでいた。絶対に口にすることはないと、墓の中にまで持っていくだろうと思っていた、告白を。
「あいしてる」
レッドベリルが揺らいだ。一拍を置いて、ソルは何も言わず、すぐに踵を返した。遠ざかっていく背中に、カイの身体は限界を迎えて崩れ落ちる。支えをなくした扉がぱたん、と寂しい音を立てて閉まった。
カイは玄関にぺたりと座り込み、方法を忘れてしまったかのように上手くできない呼吸をどうにか繰り返し、顔を歪ませた。視界がぼやける。
いいんだ、と激しく痛哭を訴える胸をなだめる。ソルがもうここに来ないのなら、追いかければいい。遠ざかっていくだけの背中なら、足を縺れさせても、無様に這いつくばっても、追いかければいい。それだけのことだ。
カイはふらふらと立ち上げり、家の中に足を進めた。ふいにダストボックスの中に落ちている白い花びらがカイの視界に入った。カーネーションだ。カイがダイニングテーブルに飾っていたはずの。どうして、と思いながら中を覗くと、一輪の白いカーネーションがぐちゃぐちゃに引き千切られ、捨てられていた。
カイはぺたんとその場に座り込んだ。ごみ箱に手を突っ込み、無惨な形になっている白い花びらを掬う。はらはらと、カイの手のひらを離れた花弁が舞った。可憐な花だ。数日前、仕事帰りに目に入った花屋に立ち寄って買った。部屋に少しの華やかさでもと思って、たった一輪。純白を輝かせている花弁はまだ十分飾りの役目を果たせそうだった。カイはこんなことをしていない。となれば、花を、この白いカーネーションを滅茶苦茶に引き千切り、無惨に捨てたのはソルだ。
カイはひくりと喉を引きつけた。花屋の店主が言っていた。白いカーネーションの花言葉は――純粋な愛。それを聞いてこの花を買った。いつ訪れるか、もう二度と来ないかわからない、どこかの無頼漢に、絶対に伝えることなどないと思っていた想いをほんの少しでも示したくて。
これすらもお前は許してくれないか。こんなことすら。
純粋じゃなくたっていい。ぐちゃぐちゃでも、穢れきっていても、いろんな色が混ざって真っ黒でも。たとえ許されない愛でも。お前の何人目の人間だって、十番目だろうが、五十番目だろうが、なんだっていいのに。
どうか、許してくれないか。お前を想う、この気持ちだけは。どうか。
あと少しだけ、とカイは膝に顔を埋めた。あとほんの少しでいいから、涙を流しておきたかった。明日また、真っ直ぐにその背を追いかけられるように。
膝が冷たく濡れる。しゃくりあげそうな喉を唇を噛むことで必死に堪えて、呻きに変えた。視界に入った両足が真っ白なことに息を呑み、余計に涙が溢れた。愛する男の痕を残しておくことすら、彼は許してくれなかった。
次から次へと、赤い痕のなくなった足が涙に濡れていく。けれどこれは、哀しみの涙なんかじゃない。たったひとりの人と出逢えた奇跡を思い、愛するものを想って流す、熱涙だ。
カイは身体を丸め、子どものようにしゃくりあげた。
「あいしてる」
その言葉は、なにかの呪文のように心に染み入り、呪いのようにソルの身体に纏わりついた。何も言えなかった。情けなく歪む顔を見られたくなくて、すぐに踵を返した。
ふざけるなと思った。どんなに強く愛でたって、どんなに優しく撫でたって、お前は俺を置いて――。
愛でても撫でても往くひとの
それでもその呪いは、柔らかいあたたかさを湛え、脈打つのをやめることを知らないソルの心臓の深いところに滞留した。ソルはもう振り返ることなく、喧騒を始めそうなパリの街を抜け出した。
(title by : afaik 様)
2017.10.6