警察機構の仕事を終え、疲れた身体を引きずって我が家へ帰ってくれば、無人であるはずの家に煌々と灯りがついていた。カイは一度足を止め、溜め息を吐いたが、再び歩き出した足取りはどこか軽くなってしまった。
 またどこぞの無法者の侵入を許してしまった家がどこか破壊されているのではという怒りと、久しぶりに会えるというほんの少しの――……いや、結構な――期待を胸に玄関を開けた。しっかり作動していたはずのセキュリティは完全に解除されていたが、扉には何の損傷もなかった。また窓でも壊して入ってきたのだろうか、と眉を寄せながらリビングへ向かい、カイは大きく目を丸くしてぽかんと口を開けた。
 ダイニングテーブルには食事が用意されていた。トマトとかパプリカを刻んだ色鮮やかなソースをかけた白身魚のソテーに、これまた赤だの緑だので彩られたキッシュまである。そこにカンパーニュまであった。キッシュにパン? と首を傾げるメニューではあるが、普段食事を催促するだけして、人ん家の食物を食べ尽くしていくだけの男が食事を用意したことなど初めてだ。
 呆然と突っ立ったままのカイへ呆れの視線を向けた侵入者は、すでに我が物顔で椅子に腰かけていた。

「食わねぇのか?」
「……た、」
「た?」
「食べる」

 カイは未だに何が起きているのか理解が及ばないまま、いつもならきちんとハンガーにかけるはずの外套をソファの背もたれにかけ、そそくさとダイニングテーブルの席についた。いつもは人のことなどお構いなしに、カイが料理を作ったそばから勝手に食べていく男が、カイが席につくまで一切手をつけていなかった。

「い、いただきます」

 どこか居心地が悪いまま、それでもフォークを手にしたカイに続くように男も食卓へ手を伸ばした。
 手料理を振る舞った人が大体聞くであろう「美味しい?」の台詞もなしに、がつがつと食事を進める男に、少し気恥ずかしい気持ちになりながらもカイが「美味しいよ」と言えば、「ふん」と別段歓喜でも満悦でもない吐息が返ってくるだけだった。それでもわずかに撓んだ口もとが見え、カイは目もとを赤く染めて微笑んだ。
 ほわほわと胸をあったかい気持ちでいっぱいにしながらカンパーニュを千切ったカイは、ふいにダイニングテーブルに飾ってあったはずの花がないことに気づいた。けれどそんなことは些末事に過ぎず、カイは胸をいっぱいにしながら腹も満たしていった。



 作ってくれたのだから片付けはやる、と買って出て、放っとくと勝手に弛んできそうな頬のまま、カイはシンクに向かった。食卓にあったはずの細い花瓶が目に入る。そこに挿してあったはずの白くて可憐な花はやはりなく、枯れていたのかなとカイはひとり納得した。
 ソルはあまり料理には慣れていないのかもしれない。それなりに散らかり放題なキッチンだったが、カイにはまったく怒りの感情など湧かなかった。どういう風の吹き回しか知らないが、単純に嬉しかった。家に帰るとソルがいるのも、こうして食事を用意してくれたのも、共に食卓につけたのも。
 そろそろ片付くというときだった。背後に見知った気配が訪れる。しかし、カイが振り返るより先に逞しい身体が背後からカイを腕の中へ閉じ込めた。

「わっ、……な、なに、ソル?」
「風呂沸いた」
「そ、そっか。ありがとう。先に入っていいよ」

 ソルの体温が身体にどんどん沁みていくような、どこか甘い抱擁にカイは耳を赤く染め、動揺していた。
 先にどうぞと言ったにも関わらず、動かないソルを不思議に思いながらも片付けが終了する。「ソル?」と無理な体勢でカイが振り返ろうとすると、絡みついていた体温が離れていった。たった少しの間の抱擁だったのに、やけに寒さを感じて眉を下げながらカイが振り返ると、今度は腕を引かれた。そのまま引っ張っていく強い力に足を縺れさせながらついていく。
 たどり着いた先はシャワールームだった。お前が先に入れってことだろうかと首を傾げていると、ふいにソルが服を脱ぎ始めた。

「え……ちょ、ちょっと……!」

 男らしい筋肉のついた上半身が眼前で惜しげもなく晒されて、カイは頬を微かに朱に染めながら声をあげる。

「あ?」

 それを不思議そうに見やったソルが、カイの襟をくいっと引っ張り、とんでもないことを言った。

「テメェもさっさと脱げよ」
「………は!?」

 カイはとっさに胸もとを庇うように寄せて、眉をつり上げた。

「な、なななに言って……!」
「風呂に入るんだから服は脱ぐに決まってんだろ。それとも坊やは着衣したまま入るのか?」
「なッ……は、入るって、もしかして……い、いっしょに?」
「ああ」

 さも当たり前だろうとばかりに頷かれて、カイの頭は混乱した。何言ってんだこいつ、とばかりの目で見られると、ソルが言っていることが正しくて、カイの躊躇いがおかしいみたいに感じてくる。……いやいや、おかしいのはどう考えてもソルのほうだ。そりゃあ何度も同じベッドで寝たことがある――大人な意味で――仲だが、お風呂に一緒に入ったことなど一度としてない。そんな甘い関係でないことは重々承知しているし、ソルは身体は繋げてもそれ以外の触れ合いを厭うている節すらあった。カイが頭がおかしくなるほどどろどろになって気を失ってから寝台で目覚めたとき、大体ソルはいないし、いたとしても後処理などするはずもなく、寝こけているか煙草を吸っているか珈琲を飲んでいるかだ。浴室につれてってやろうか、などと言うわけもなく、もちろん事前に一緒に入ろうぜ、なんてこともあるわけもなかった。
 カイがぐるぐる混乱しているうちに、ソルは下衣まであっけらかんと脱ぎ去っていた。

「うわあああ、ちょっと待っ、待って、ソル!」
「ああ?」

 大胆に晒された筋骨隆々とした裸体から咄嗟に目を逸らしながら、カイは焦った。その姿を呆れの視線が貫く。

「今さら恥ずかしがることかよ。散々見てるだろうが」
「ッ、」

 確かにそうだけど……! でもその、そういった行為ではないところで、完全に理性を持ったままでは直視できない。それこそ、聖騎士団にいたときは風呂場で遭遇することもあれば、時間がなく多くのの団員と一緒くたにシャワーなんてこともままあったが、なぜか今は羞恥とかいろんなものがこみ上げてきて頬が熱い。

「そ、そもそも何で急に一緒にお風呂なんて……」

 動かないカイについに痺れを切らしたソルの手が伸びてくるのを身を捩って避けながら、どうにか問い詰める。

「別にいいだろ。入りたくなったんだから」
「え?」
「あ?」
「な、なんで急に……?」
「なんとなく」
「……入りたいのか? 本当に、その……私といっしょに」

 ソルは怪訝に眉を寄せて、呆れの吐息まじりに頷いた。

「さっきからそう言ってんじゃねぇか」

 事も無げに言われて、カイはぶわあと頬を赤く染めて俯いた。それを不思議そうにソルは見やったが、動かないカイの代わりに着衣に手をかけても、今度は抵抗されることはなかった。



 洗ってやると言ってきたソルにぶんぶん首を横に振ったカイだったが、半ば強引にお湯をぶっかけられ、短い金糸をわしゃわしゃと犬のように些か乱暴に洗われる。人に洗われることなどなかったため、おっかなびっくりしていたカイだったが、次第に優しく動き始めた指にうっとりと目を閉じた。

「……ソル」
「あ?」
「今日はどういう風の吹き回しだ…?」
「……別に。そういう気分だっただけだ」

 お前がそういう気分になることがあるのか、と言いかけたのをとどめ、カイはもうそれ以上何も言わなかった。これ以上問い詰めれば、この優しい時間が壊れてしまう気がして。
 「お湯かけるぞ」と放ったソルの声がやけに優しく響いた気がして、カイは泣きたいような気持ちになった。最初はただただ用意された食事に歓喜していたカイだったが、様子のおかしいソルを見ているうちに不安がこみ上げてきた。いつもと違うのは、いつもと違う明日が来るからなのではないか。
 明瞭とした関係ではない。ただ気まぐれにやってくるソルを、カイが渋々迎えていた、ただそれだけの関係。カイは何も知らない。ソルが何をしようとしているのか。ソルがどんな人生を歩んできたのか。何ひとつ。
 いつもと違う明日が来たら、お前はもうここにはいないのだろうか。そしてもう二度と、訪れることはないのだろうか。
 際限なく増殖していく不安に、カイはわずかに身震いをした。それでも聞けるはずもなかった。この男が何も言わないのなら、それまでだ。この男の負担になることは、どうしても嫌だった。この自由な男に足枷をつけるのは、どうしても。

「寒いのか?」
「え……?」

 震えたカイに問いかけた声がいつものように無感情だったらいいのに、やけに優しく聞こえるのが辛かった。カイは首を振って微笑った。

「大丈夫」

 大丈夫。その言葉を何度も胸中で繰り返した。お前がいなくても大丈夫、と愚かな見栄を張って。