喉が渇いて、不遜を承知でゲストルームからキッチンへ向かうと明かりが点いていた。

「カイちゃん?」

 ハッとしたように振り返った青年がワークトップに何かを隠すように細い腕を後ろに回す。

「っ、アクセル……どうしました? こんな夜更けに」
「……ごめん、ちょっと喉が渇いちゃって」

 そうですか、と頷き、コップを出してくれる。その動きに不自然はなく、隠すように背にしたはずのワークトップも丸見えになった。そこにはこの家に似つかわしくない灰皿が置いてあるだけだ。別に何かを隠そうとしたわけじゃなかったらしい。ただの条件反射だったようだ。
 水の入ったグラスを受け取り、からからだった喉を潤す。視界に入る青年の横顔は、寝間着だろうと薄暗い灯りの中でだろうと、何一つ損なわなれない美貌のままだった。短い金糸が小さい橙色の明かりの下できらきらと瞬いている。
 ありがと、とグラスを返す際、先ほどカイが背にしたワークトップに置いてあった灰皿を見て連想した男のことで口を開いた。

「そういえば旦那は? ソファで寝てなかったっけ?」
「夜のうちに出ていったみたいですね」

 カイが吸い殻まみれの灰皿に視線をやって答える。

「えー挨拶もなし?」
「あいつはそういう奴でしょう?」

 吸い殻を片付けようと細い指先が動く。そこでアクセルは灰皿の縁に火の点いた煙草が置いてあることに気づいた。気づいてしまえば、見知った煙草の匂いが鼻につく。

「無用心だね、旦那も。しかも片付けまでやらせるなんて」

 カイは特に返事もなく、灰皿に手を伸ばした。その縁に置いてある吸いかけのシガレットを生白い指先が撫で、山盛りの吸い殻を手際よく片付け始める。その慣れた手つきにいつもやっていることなのだと知る。アクセルがカイの家を訪ねたときにソルがいたのは初めてのことだったが、何度も来ているらしい。そもそも、そうでなければこの家に灰皿があるのは不自然なことだった。

「俺が言えた義理じゃないけどさ。警察のお偉いさんのお家を宿代わりにするなんて旦那も不躾だよね」

 本当は違うことを思っていた。
 何も知らずに――知ろうともせず、か――カイの家に訪れるなんて酷い男だよね、と言いたいのを我慢したすえの言葉だった。

「違いますよ」
「え?」
「私が勝負を挑んで負けたので、泊めろという言葉を聞き入れただけです。あいつがこの家にあがるなんて滅多にあるわけないじゃないですか。あ、もちろんアクセルはいつでも遠慮なく来てくださいね」

 じゃあ何で灰皿なんてあるの、とは流石に言わなかった。替わりに感謝の言葉を気安く返す。おやすみ、と続ければ柔らかい声が同じ言葉を返してくれる。
 アクセルは短い横髪から覗く蒼碧から目を背けるように踵を返した。その眼は巧妙に衷心を隠している。
 だから、アクセルは気づかないふりをした。キッチンに入ったとき、アクセルに気づく前の彼の相瞳が重苦しい情念に揺れていたことも、あいつが滅多に訪れるわけがないと言い放った唇が憂戚に歪んだことも、夜のうちに一言もなく去ったという男が吸ったはずの煙草を撫でる縋るような指先も、すべて知らないふりをした。



 あいおもいぐさ



 例のごとく始まった仕合いはソルの勝利に終わった。長い金糸を靡かせて膝をつくカイを放置し、背を向けて胡坐をかく。ヘッドギアの隙間を縫って伝ってくる汗を乱暴に拭いながら、懐から煙草を取り出す。そうして、戦闘で昂ぶった細胞を落ち着かせるように咥えた煙草に火をつけようとしたときだった。
 にゅ、と後ろから伸びてきた生白い指先がソルの口から煙草を奪っていく。眉を寄せ煩わしく振り返れば、ソルが咥えていたシガレットがカイの薄い唇に挟まれるところだった。
 薄桃のあわいにむにゅっと挟まれたそれの先端に細い人差し指が添えられる。昔、野蛮だ美しくないとほざいていた男の指先で炎の法術が展開された。男に似つかわしくない赤が小さく揺らめき、煙草に火がつく。
 たった一口だ。一口喫んだだけであっさり離されたそれは再びソルの口に戻ってきた。片眉をあげて睨むように上目で見上げても、カイは知らん顔だ。そのまま背を向け、落ちていた髪留めで長いハニーブロンドを纏め始めた細い背を眺めながら、ソルは思い出したように紫煙をくゆらせた。
 たまに、こういうことがある。
 いつから、と言われると正確には覚えていないが、カイがまだ警察機構に勤めていた頃からだったように思う。ソルが火をつける前の煙草を奪い、手ずから火をつけて一口喫むだけでまたソルに渡す。それは今みたいにソルが吸おうとしたときだったり、脱ぎ捨てていたジャケットから勝手に煙草を取り出し、一口のんだだけで吸おうとしてもいなかったソルに渡してくるときもある。最初は瞠目したものだが、回を重ねると一々非難するのも面倒になった。
 始めのうちは、坊や坊やと扱われるのが嫌で大人の仲間入りでも果たしたくてこんなことをしたのかと勝手に推測して鼻で嗤ったものだが、今となってはよくわからない。
 まだあの陽の光に瞬く金糸が短った頃、勝手にひとの煙草を吸って不味そうに眉を顰めるのを見た――いちいち顔を顰めるものだから、そんなに不味いなら吸うなという話だ――が、今はもうその表情を変えることはない。美味いとも不味いとも表現されない無表情が一瞬だけ口をつけた煙草を唇から離し、ソルは億劫ながら腰をあげた。
 以前はあれだけ勝負のあとに口煩く喚いていたというのに、今はもうあまり勝負に不満を漏らすことのなくなった男は、何を言うでもなく立ち去ろうとしていた。
 一瞬だ。分も満たない数秒だけ見られる稀有な光景。カイ=キスクという人類が聖性を見いだすような男が煙草を口にする。恐らくこの国に生きている誰もが、彼が喫煙したことがあるとは露ほどにも思わないだろう。腐れ縁のソルですら、いまだその光景を多分な違和感をもって見る。
 もしかしたら、ソルが喫煙者でなければ――あるいは、カイがソルと出会うこともなければ――あの男が煙草を咥えるなんてことはなかったかもしれない。ふと過ぎったそんな思考に、悪くないと思ってしまった。
 今にも灰を落としそうな煙草に目を落とし、ソルは思い出したようにカイが口をつけたそれを唇に挟んだ。不良王め、と吐き捨てた自身の顔がいつもの仏頂面より柔らかいことに気づかないまま、ソルは乱暴な挙措で歩き出した。



 *



「いやー、いつの間にかこんな大所帯になっちゃって」

 アクセルは柔らかいソファに腰を沈ませ、四人が喜々として仲睦まじく部屋を出ていくのを見送った。

「ふふ、賑やかでいいでしょう?」

 テーブルに仕事を広げていたカイが、見たことのないピンクのハーフリムの眼鏡を外してアクセルに微笑んでみせた。小首を傾げた拍子に揺れる金色の尻尾もまだ見慣れない。
 お金もないし宿どうしようと街をふらついていたアクセルは、僥倖にもソルとカイに出くわした。街に王様がいることが不思議だったが、ソルのジャケットをむんずと掴み、「ディズィーもシンも待ってるんだ! お前はいつもふらふらふらふら……いい加減にしないか」とぐいぐい引っ張っているカイを見て、噴き出しそうになったのを懸命に堪えるのに必死で細やかな疑問は吹っ飛んだ。大口開けて笑ってしまうにはソルの表情が凶悪過ぎた。推測するに、家族団欒を強制されかけているおじいちゃんの図なのだが、大爆笑必至の光景だったのにアクセルはぐっと堪えた。ソルの怖ろしい眼光が突き刺さったので。
 一緒に夕食を、と提案してくれたカイと彼に連行されたソルと共に王の居城に着くと、王の妻は目を輝かせた。大人数でのディナーのご馳走をはりきって作りにいったディズィーに続き、お手伝いを買って出たラムレザルとエルフェルト、さらにシンまでもが部屋を出ていった。その背を見送りながら、その中にひとりとして生粋の人類がいないことが不思議だった。とてもここが人間の王様の家だと思えない。
 でも一番不思議なのは……と、アクセルは手もとの資料に目を落としているカイを見た。かつて巴里にあった彼の家に泊めてもらったことは何度かある。それなりの広さのある警察長官様の家はシンプルな家具で物も少なかった。そこにひとり暮らしていた青年の瞳がただひとつ、真っ直ぐに見つめていたものを知っている。
 カイがおもむろに顔をあげ、アクセルの向かいに座る嫌そうな面構えで煙草に火をつけたソルを見た。
 同じだと思った。
 一度だけ、カイの家にお邪魔したときにソルがいたときがある。ソルは完全に金のかからない宿程度の認識のようだったが、そんな不躾者に口では文句を言いながらもカイはあれこれ世話を焼いていた。そのときも、今みたいな顔でソルを見ていた。まるで、他のものなんて何一つ目に入らないような、そんな真っ直ぐさで。それは打ち負かしたい相手を見るだけの眼ではなかった。

「なんだよ。吸うか?」

 紫煙に目をやっていると思ったのか、ソルがカイにそう聞いた。目を丸くしたアクセルを尻目に、カイは嫌そうな顔をして席を立った。

「吸うわけないだろう」

 そりゃそうだ、とアクセルは思ったが、ソルは不思議そうにカイを見た。

「私は仕事を片づけてきます。アクセルはゆっくりくつろいでくださいね。……ソル、お前はいい子にディズィーたちを待ってるんだぞ」

 テーブルの上の資料を手繰り寄せ、カイはそんなことを言って部屋を出ていった。

「っ……〝いい子に〟だってさ、旦那」

 耐えきれず噴き出すと、人を射殺しそうな眼光が飛んでくる。

「黙れ。燃やすぞ」
「スミマセンデシタ」

 降参、と手をあげて、ソルの不機嫌がこれ以上加速しないようにすぐに話を変える。

「っていうかさー、カイちゃんが煙草吸うわけないじゃん。さっきの何」

 ソルは眉を寄せ、灰皿にとんっと火を落とした。

「……吸うぜ、あいつは」
「えっ! マジで!?」
「もっぱらもらい煙草だけどな。勝手に人様のもんに火をつけて一口呑むだけで戻してきやがる」

 意外な事実に、へー、と相槌をうちかけてアクセルは不自然に固まった。あることが頭を過ぎり、否定と肯定を繰り返している。聞こうか聞くまいか迷って、結局我慢ならず、アクセルは口を開いた。

「……火をつけるの?」
「あ?」
「旦那が吸ってるのを一口拝借するとかじゃなくて、わざわざ自分で火をつけて旦那に戻すわけ?」

 質問の意図がわからなかったのだろう、ソルは顔を顰めたが、これまでを思い出すように目を細め、少し経たのちに頷いた。

「そういや、言われてみればいつもそうだな」

 いつもってほど吸うわけじゃねぇが、と続けて、ソルは灰皿に煙草をぐりぐりと押しつけた。
 その灰皿がかつてのカイの邸宅にあったものだと気づく。吸わないのに、いつ来るかわからない男のためにわざわざそんなものを家に置いておくなんて、とそのいじらしさが微笑ましいような可哀想なような、そんな気持ちになったことを覚えている。渦中の男は、まるで何も気づいていないようだったから。

 ――知ってる? タバコってね……

 会えなくなって久しい彼女が教えてくれた事が頭を過ぎる。

「ンだよ。何が言いてぇ。はっきりしろ」

 じっと灰皿の中のゴミと化した吸い殻を見つめて黙り込んだアクセルに、ソルが痺れを切らして吐き捨てた。

「……旦那とカイちゃんってさー、結局どういう関係だったわけ?」
「あ?」
「だーかーらぁ、こう……恋人だった、とか?」

 ソルは信じられないものを見るような目でアクセルを見た。

「………ハァ?」
「あ、もしかして身体だけの関係だったとか? うわーありそう。旦那ひどい」

 いよいよ宇宙人とでも話している気になったソルは、もとより優しくない顔を凶悪に歪めてアクセルを睨みつけた。

「薬でもキメてんのか、テメェ」

 アクセルは肩を竦めてみせ、寂しく微笑った。
 わかっていた。カイの一方通行であったことは。今はもう彼は一等大事な女性を得、家族を持ち、幸せそうに笑っている。それが嘘だとは思わない。ただもし、ソルが言っていたカイの煙草への行動がアクセルの知っていることに基づいて行われているのだとしたら。
 広々としたリビング。細かな美しい装飾の施された調度品。いかにも王の家にありそうなふかふかのソファに座っているのは、場にそぐわない仏頂面の男。家族が揃っていたリビングに入ってきたとき、わらわらとソルに集まってきた子どもたちと王の妻。その光景を一歩引いたところで見ることになったアクセルは、そのあまりの違和感に胸を痛めた。ソルは明らかに、この部屋から、その家族たちから、――この世界から、浮いていた。
 似合わないと思った。ソルは自身でも自覚しているに違いない。例えば子どもを連れ歩いたり、例えば九九を教えたり、例えば家族で団欒したり。フレデリックはまだしも、〝ソル=バッドガイ〟は決してそんなことをするような男ではなかった。
 街で出会ったとき、強引に引っ張るカイに向けていた苦り切った顔は、体面でも嘘偽りでもない。心の底から、あの嫌そうな、信じ難いような、苦味の滞留するような、息の詰まるような、そんな顔をしたのだ。
 アクセルは伏せていた目を上げ、強い眼差しでソルを貫いた。

「でも旦那がこう・・なってるのって、全部カイちゃんの所為だよね」

 脈絡のない言葉にわずかに瞠目した赤い眼に映る自分の顔は、びっくりするくらい感情が抜け落ちていた。
 ソルに養い子がいるのも、娘に会う頻度が高くなるのも、人類の敵であったはずのソルを慕うヴァレンタインの二人が家族のようになっているのも、こんな豪奢な空間に腰を下ろしているのも、大勢で食事をするような羽目になってるのも、全部、だ。すべてカイが発端だ。カイ=キスクさえいなければ、きっとソルは今頃寂びれた酒場でひとり呑んででもいるだろう。
 何もすべてがカイの打算だったとは思わない。たまたまカイがディズィーを愛し、ディズィーがカイを愛し、そこから始まった連鎖だといえば、それまでだ。けれど。
 ソルをこの家まで強引に連れ帰ってきたカイの姿が眼裏を過ぎる。カイはソルに集まる家族たちから一歩引いたアクセルの隣にいた。家族の輪に入らず、ただそれを満足そうに眺めているだけだった。その美しい蒼碧が並々ならぬ決意を宿していると思ったのは、きっとアクセルの勘違いではない。
 カイは恐らくわかっていた。ソルが自分の手を取ることなんてないことは。でも彼は、わかっていて尚ただ手をこまねているだけの人間ではない。愛する男を孤独に生きさせはしないと思ったのではないか。自分では無理でも、妻なら、息子なら、あるいは、と。
 本当は自身がソルを闇の底からすくいあげたかったのだろう。もっといえば、闇の底に身を堕としてでも傍にいたかったのかもしれない。ソルを見つめるカイの眼差しには幾らかの寂寥が宿っている。昔はそれを諦観だと思っていた。あるいは、そうだった。ソルがカイに手を伸ばすことはない。手を取ることもない。そういう諦念だ。今は、払い切れなかった重苦しい情念を宿しているように見える。 
 あのいつかの巴里の夜。独りきり、キッチンで煙草の吸殻を見つめていたカイ。
 嗜好品に加工されるために栽培されようとも、煙草の葉にも花は咲く。とても可憐なピンクの花だ。製品にだけ目がいきがちで、人々に忘れ去られているような、それでも咲く花。花言葉は多くあるが、アクセルにはカイの秘めた心のように思えた。「孤独な愛」「秘密の恋」。誰に知られるでもなく注ぎ続ける孤独な愛。誰も知らない秘密の恋。
 いくらカイという人間が聖人並みの慈悲深さを持ち得る人物だろうと、欲がないわけがない。アクセルは知っている。ほんの一瞬だけ垣間見てしまった彼の欲を。
 あの巴里の夜、もういもしない男の吸った煙草の吸い殻を撫でて見つめ、私を愛して、と苦鳴する蒼碧の瞳を知っている。

 アクセルが放った言葉の意味を理解しているのかいないのか、ソルはすぐにいつもの仏頂面に戻ってしまい、わからなかった。今はもう、面倒そうな仕草で煙草の箱を叩いている。
 アクセルが口を出すことではない。けれど、どうしても我慢ならず口を開いた。

「……知ってる? 煙草って昔の日本では相思草っていう異名があったんだって」
「……突然、何の話だ」
「まぁ聞いてよ。所説あるらしいんだけど、元は中国語だって言ってたかな? ほら、一度知ったら忘れられなくなるっしょ」

 ほら、と指し示したぴんと反ったアクセルの人さし指の先には、ソルが今まさに口に運んだ二本目のシガレットがある。思わず火を点けるのをやめ、唇から煙草を離したソルにアクセルは続けた。

「んで、昔の日本ではそのロマンチーックな呼び名に合う習俗があったらしいよ。吸い付け煙草っての」

 アクセルの言葉に吸う気力をなくしたのか、武骨な指先にくるくると弄ばれているシガレットをひょいと奪う。

「キセルにたばこを詰めて自分の唇でくわえて息を吐い込んで火をつけて、すぐに吸える状態にしたもののことをそう言うんだって」

 煙草を咥えて手を差し出すと、いかにも面倒そうに鈍い銀色を放つライタが差しだされる。アクセルにとって見慣れたものでも、もうこの時代ではあまり見ることはないものだ。
 カチ、と火をつけただけで、アクセルは唇から煙草を離した。

「これ遊里の風習らしくて、檻の中で見世物になってる遊女が通りを歩く男に目を留めると、吸い付けたばこを真っ赤な格子越しに差し出すらしいよ」

 アクセルが眼前に火の点いた煙草を突き出すと、ソルは思い切り顔を顰めた。

「男が受け取ればお誘い成功ってことだけど、中にはなじみの贔屓客にしかそういうことしない子もいたんだって。決して出られない苦海の檻の中で生きる遊女の数少ないアピールってことさ」

 アクセルは小首を傾げ、意地悪く笑ってみせた。

「『あなたが好きよ』ってね」

 ぴく、と僅かに動いた眉に喉を鳴らし、さらに手を伸ばして煙草を差しだすと、ソルは鬱陶しそうにアクセルの手を振り払った。

「あっれー? 俺様からは受け取れないってわけ?」
「るせェ。頭でも湧いてんのか? わけわかんねェ雑学垂れ流してんじゃねぇよ」

 ソルは大きな音をたてて立ちあがり、乱暴な仕草で部屋を出ていってしまった。

「……いい子に待ってろって言われたじゃん」

 もしやこのまま戻ってこないってことはなかろうか、と不安になり、アクセルはがしがしとブロンドを掻き乱した。
 ソルに振り払われた煙草をぼんやり見つめ、おもむろに咥えてみる。

 ――『煙草は恋のなかだち』って言葉もあるの。

 ふ、と思わず吐息を漏らす。
 恋なんて、そんな可愛いものじゃないだろう、きっと。
 アクセルはいまだ二人の結末を見たことはない。
 ソルの望まない環境のすべて、あれもこれもどれもそれも、全部カイの所為だといってもいい。「ソル=バッドガイ」を壊しているのはカイであり、彼の妻であり、彼の息子だ。しかし。
 脳裏に過ぎる一つの家族の姿。ソルを囲み、はしゃいでいた彼らをアクセルとカイは一歩引いたところで見ていた。二人の視線の先に、生態という意味での人間はひとりもいなかった。
 カイの周りを人でない生き物ばかりにしたのもまた、ソルの所為ではないのか。「人類」の希望である「カイ=キスク」を壊したのまた、ソルという男なのではないか。
 別に同じだけの想いを返せとそんな馬鹿げたことは思っていない。でも知らないのは罪だ。ただ知っておいてほしかった。こんなにも自分を愛する人間がいるのだと。いつか見た〝フレデリック〟の柔らかい微笑を、アクセルはソルに取り戻してほしかった。誰よりも残酷な人生を歩んできた彼には。
 煙草を咥えたまま深く呼吸をする。

「にっが!」

 アクセルは思わず咥えた煙草を離して唇を歪めた。
 こんなの、カイちゃんが嗜むわけないじゃん。たとえ、一口だろうとも。