ポッドの中でギアが眠っている。ギアはぴくりとも動かない。ジャスティスの命令がないのだから機能が停止しているのは何ら不思議なことではないが、液体の入った大きい機械が、まるでホルマリン漬けの標本でも見ているかのように気味が悪かった。
 この病院からあった微弱なギアの生体反応とはこれだったのか。
 ――ガタッ……
 音がして、カイは弾かれたように身を潜めた。しばらく息を殺していたが、何者かが近づく気配はない。慎重に足を動かし、音が聞こえたほうへ歩みを進める。
少し歩くと、灰色の扉に行きついた。錆びついた南京錠に鎖まで巻きついており、明らかに異様な雰囲気だ。もしかしたらこの先に失踪者がいるかもしれない。そう思ってしまえば応援を待つ余裕もなく、カイは法術を展開して力任せに扉を突破した。
 一歩踏み出し、息を呑む。
 まるで監獄だ。長い廊下の両脇に鉄格子が続いている。牢屋のようだった。いくつかの部屋に別れているそこを一つ一つ見ていくが、中には誰にもいない。天井からぶら下がる小さい灯りは頼りなく、薄暗い中で換気扇の音だけが不気味に響いている。
 ――ガタッ……
 また聞こえた。奥からだ。そう思って奥へ視線を向けたとき、人影が見えた気がした。弾かれたように足を速め鉄格子の中を覗くと、そこには人が倒れていた。

「ッ……大丈夫ですか!?」

 髪が乱雑に伸び、顔は確認できない。薄汚れた腰布だけを纏っており、体格から男だとはわかるが、それだけだ。こんな不衛生で狭いところに監禁されていれば、精神状態はひどいものだろう。カイは努めて柔らかい声をかけた。

「安心してください。私は警察です。今開けますから」

 鍵があるわけもなく、また力任せに開けるしかないか、と鉄格子に手をかけた瞬間、咄嗟に手を引っ込める。
(結界……?)
 鉄格子には錠がおりている。そのうえに結界まで施してあるとはよっぽどだ。しかし、明らかに素人の所業だろう。解除は難しくない。

「うっ……」

 カイが眉を寄せ逡巡していると、低い呻きが耳に届いた。ハッとして中を見れば、男は苦し気に蹲っていた。慌てて結界の解除を施す。施錠された格子を強引に開け、中に足を踏み入れた。

「起きられますか……?」

 そっと背に触れようとした瞬間、凄気が辺りに迸った。
 カイは咄嗟に封雷剣を振りかぶっていた。何を考えたわけではない。考える時間などなかった。ただ、幼い頃から実践していたマニュアル通りに身体が動いたに過ぎない。考えるより先に身体は判断していた。――対ギア戦の構え方を。

「ぐ、が……ウ…アア……」

 血しぶきが迸る。人の声とは思えない呻きが冷えた牢獄の中で反響した。
 崩れていく男の乱雑に伸びた長い髪の隙間から、真っ赤な目がカイを貫いていた。





 Ⅷ. moonstruck faerie - 王はターリアを腕に抱いてベッドに運ぶと、存分に愛の果実を味わいました





 突然、豪快に開いた扉にレオはびくっと肩を揺らした。

「……ノックくらいしろ」
「いるとは思わなかった」
「何しに来たんだ」
「テメェこそ、何でカイの執務室にいる」
「代役だ。できる範囲でカイの仕事を進めておかなくちゃならない。お前は?」
「酒」
「ハァ?」
「そこの棚の酒は俺のだ」
「……カイのだろ」

 当然のように断りもなく棚から酒瓶を掻っ攫った男は、瓶にそのまま口をつけてアルコールを呷った。
 カイは一向に目を覚まさないというのに、よく酒を飲む気分になるものだと呆れる。柔らかいソファにどかりと身を沈めたソルは、酒を手にしながら本を開いた。

「なんだ、それは」
「『La Belle au bois dormant』」
「ら、べる……? なに、」
「『Dornröschen』」
「……『いばら姫』? まさか、そこにカイが目を覚ますヒントがあるとか言わないよな」
「あるかもしれねぇだろ」
「童話だぞ」
「今日日知れ渡ってる童話は、口伝えで古くから民間で語り継がれてきたものを形にしたものだ。脚色もいろいろとしているだろうが、遥か昔ではファンタジーでも技術と知識の発展次第では怪奇現象も解き明かせる」

 確かに遥か昔の人間が今の時代に来れば、目が飛び出すことが山ほどあるだろう。法術なんてまさしく魔女の力に見える。だが、遥か昔からある童話が現実を脚色したものだとして、これだけ時代が進んでいれば過去に童話に似た事件でも病気でもいくらでもあったはずだ。

「それで? 紡錘が指に刺さって百年眠り続けた人間が過去にいるのか?」

 そんな人間がいるのだとしたら、どの時代でも大ニュースだろう。記録には残る。

「そんな奴いてたまるか」
「だろうな」

 レオはやれやれと肩を竦めた。この男はカイが目を覚まさない原因を本気で調べようとしているふうには見えない。
 深く溜め息を吐き、レオは凝り固まった首を回しつつ、気分転換に話を続けた。

「確か、グリムやペロー版より古い話があったよな」
「あ?」
「眠れる森の美女」
「『太陽と月とターリア』か?」
「ああ、そんなタイトルだったか? 随分と違うな。同じ話なんだろ?」
「いや、似ているが違う。鷹狩りをしていた王が城を訪ねて、呪いで眠っている姫を犯して双子を孕ませる話だ。その双子の名前が太陽と月」
「ぶっ」

 レオはちょうど口にしていた紅茶を思わず噴き出した。

「そ、そんな話なのか?」
「ああ。それで嫉妬で怒り狂った王妃が双子を王に食べさせようとしたり、姫を殺そうとするが、王の返討ちで火あぶりになってめでたしめでたしだな」
「……………」

 レオの深い沈黙を意に介さず、男は珍しく饒舌に続ける。

「眠ってる美女を犯して孕ませた上に妻を殺して美女と結婚。二人の子どもに囲まれて幸せに暮らしました、か。実にうらやましい限りだ」
「……本気で言ってるのか?」

 本に向いていたレッドベリルがゆらりとレオを見た。緩慢な動作とヘッドギアの影にある鋭い双眸に気圧されて息を呑む。強い意志を孕むはずの瞳はどこか濁っているように見えた。

「犯してみるか?」

 にやり、と肉厚の唇が卑しくいびつに歪んだ。

「は……?」

 ソルは手にした本をレオに見せつけるようにして振ってみせた。古びたそれは黄みがかっており、その表紙には眠り姫の絵が描かれている。
 寝台に横たわる美女。その姿が今日の朝も見たいまだ眠り続けているカイの姿と重なった。しかし古い本なのか、その挿画のテイストはひどく退廃的なテイストだ。どこか悪魔的な白黒のペン画だった。ありていに言えば、気味が悪い。
 その挿画が脳裏でリアルに動き出す。鷹狩りをしていた王に見初められた美しい眠り姫が眠ったまま犯される様がありありと浮かんでしまった。
 ――犯してみるか?
 ソルの声が頭の中で反響する。
 本を手にした彼の口角が歪に吊りあがった。

「目を覚ますかもしんねぇぜ?」

 そこでようやくソルの言っていることを理解した。……この男は、カイを指して言っていたのだ。
 先まで挿画を見て思い浮かべていた場景がカイに変換されて生々しく眼裏に浮かんでしまい、レオはその低俗で惨い想像を振り切るように頭を大きく振った。

「………その冗談は面白くないぞ。そもそもその姫、」
「ターリア」
「ああ、ターリアは王に、その……抱かれて目を覚ましたのか?」
「違ぇ。眠ったまま子ども産んでる。で、ガキが乳を飲もうとして誤って指に吸いついて、長い眠りの原因になった繊維が指から抜けて目を覚ます」

 へぇ、と相槌を打ちながら緩く首を振る。少しでも多く仕事を進めておくつもりが、この男が来てから書類の山は一向に減っていなかった。

「もっと建設的に治療法を探すべきじゃないか?」
「ああ、そうだな」

 聞いていないのか聞くつもりもないのか知らないが、男は生返事をしただけで、酒を飲みながら相変わらず童話なんてものを読み進めている。レオは深い溜め息を吐いて、書類の山に手を伸ばした。

「孕ませられるなら、とっくにそうしてんだがな」

 聞こえなかった。
 レオが怪訝に顔をあげると、男は先までと変わらない体勢のまま本を捲っていた。

「何か言ったか?」
「いや」

 武骨な指先が本の頁を緩やかに撫でている。ヘッドギアの影にある鋭い双眸が爛々と赤く光っているように見えて、レオは恐怖にも似た悪寒を感じて顔を顰めた。

 

(続く)