腕に乗るまだ湿っている金糸を無意識に撫でながら、ソルはぼんやりと天井を見つめていた。心臓がじくじくと悲鳴をあげている。その痛みはまるで、ソルを責め立てているかのようだった。
 消え入りそうな深い寝息に耳を傾けながら、真面な思考回路を取り戻した頭で襲い来る罪悪感を堪えていた。
 常識を持つ正しい理性は、思い出したくもない光景を勝手に上映している。昨日の、妻と息子の横で永遠に続く幸福を得たように微笑うカイの姿を。
 ソルが深い溜め息を吐いたときだった。

「〝来なきゃあよかった〟か……?」

 突然耳に届いた声に弾かれたように横を向くと、昨夜とは違い、いつものように澄んだ蒼碧を瞬かせたカイがソルを見ていた。
 聞き覚えのある言葉に、それがどしゃ降りのパリでの夜、初めての行為にぐったりと寝台に身を沈めた青年を見て呟いた自身の言葉だと気づく。

「………起きてたのか」

 寝ていると思っていた。ソルはカイが起きるのを待たず、降り続ける強い雨の中、パリの街を抜け出したはずだった。まさか聞かれているとは思わなかった。

「……すまない」

 目を伏せたカイの長い睫毛が憂いに揺れる。口もとは笑みを浮かべているのに、どこまでも寂し気な哀しい微笑だった。

「……なんでテメェが謝んだ」
「お前に罪を背負わせてしまった」

 細い指が羽根が触れるほどささやかに頬を撫でた。

「後悔、してるんだろう? お前は優しいから……」
「……そりゃあ俺の台詞だ」

 後悔なんて、カイのほうが山ほどしているだろうに。あんな夜を過ごさなければ、昨夜のようなことがなければ。もっと言えば、俺に変な情を抱くことがなければ。――……俺と、出会わなければ。
 憂戚を湛えるソルの顔を片眉をあげて見やったカイは、軽口のように言葉を紡いだ。

「お前の目は節穴か?」
「ああ゛?」

 呆れと嘲りを混ぜたような物言いに、思わずいつもの調子でカイを睨みつけて、ソルは目を瞬かせた。

「私は今、どんな顔をしている?」
「…………………」

 雲一つない晴天の空のように、どこまでも澄みきった蒼碧の宝玉がソルを見つめている。そこに先までの寂し気な微笑の面影はもうない。あの表情は、ソルが後悔していることだけを哀しんでいたのだと気づく。
 化け物の跋扈する戦場を駆けていた少年の頃と何ら変わらない意志の強い凛とした眼差しが、ソルを強く貫いた。

「私はお前を愛したことを一度として後悔したことはない」

 息を呑む。
 真実を語るカイの唇が綻ぶ。ふわり、と花が咲き誇るようなその微笑は、永遠の幸せを掴んだのだと、確かに告げていた。

「愛してる、ソル」

 刹那、口もとは笑んだまま、けれどくしゃりと表情が歪む。蒼碧の端っこから溢れ出した涙を目にした瞬間、ソルはカイを抱きしめていた。
 ふふっ、と堪え切れなかったように漏れた涙に濡れた笑声が耳に届く。子どもがはしゃぐように純粋で、どこまでも幸せを湛えた笑声だった。
 無邪気に腕や足を絡めてくる痩身に獣のようにじゃれついて、ソルも口もとも緩めた。頬に伝う雫の筋に唇を這わせると、熱い吐息を漏らすようにカイが笑う。細い指先が逞しい裸身を滑るのを好きなようにさせながら、ソルは形だけの抗議をした。

「やめろ、勃っちまうだろ」
「ふふっ……昨夜あんなにしたのに? 可愛い、ソル」
「イかれてんのか」

 子どものとき以来言われたこともないようなことを事も無げに告げる男の薄い肩に爪を立てる。
 ちう、とソルの肌に吸いつきながら下半身をいやらしく撫でるというのに、子どものような顔で笑ったカイを呆れた顔で見やって、ソルもカイの身体へ手を伸ばした。
 じゃれつくように身体をすり寄せ、互いを愛撫する二人には廊下を駆けてくる足音が耳に届かなかった。どしゃ降りの雨の音に遮断され、絡み合う二人きりの世界を壊したのは、部屋の扉が盛大に開かれる音だった。

「カイー、オヤジがここにいるって聞い、た…んだ、けど………」

 尻すぼみになっていく言葉は、深い沈黙の中に消えていった。
 ぽかん、と五つの眼が丸く瞬いた。
 父親の部屋を訪れた子どもの手を離れた扉が、パタン、と寂しい音を立てて閉まる。シンはぐちゃぐちゃになった寝台の上で真っ裸で絡み合う実父と養父の姿に、あんぐりと口を開けて固まった。呆然とベッドの上を眺める。
 上質のシーツが濡れてぐちゃぐちゃに波打っている。その上にあるカイの白い身体には、異常なほどの痕が散在していた。それに絡まる屈強な筋肉に覆われた浅黒い肌。なぜか濡れている二人の髪は肌にはりつき、何かしらの液体と痕に塗れた二つの身体が絡まり合っている。瞠目している二人の双眸は、どこか重々しい熱に浮かされたように潤み、いつもは毅然とした声を吐き出すはずの唇は熟れたように赤くなっていて、ぷっくりしているように見えた。
 あまりにも生々しく、いやらしい場景がそこにはあった。
 時間をかけて眼前の光景を呑み込んだシンの顔が、ぶわあっと真っ赤に染まる。あんぐりと開けた口をぱくぱくと開閉し始めたシンの身体がわなわなと震える。
 次の瞬間には、窓を激しく叩きつける雨音すら掻き消すほどの絶叫が轟いた。


 *


 くああ、と大きい欠伸をした息子にディズィーはくすりと喉を鳴らした。

「母さん、おはよう」
「おはよう、シン」

 ちゅ、と頬っぺたに唇を寄せ、朝の挨拶を交わす。

「随分眠たそうですけど、夜更かしですか」
「昨日、オヤジにこてんぱんにやられちまったからプリュフォールな新技考えてた」
「ぷりゅ、ふぉ……?」
「うん」

 ディズィーは謎の言葉に首を傾げながらも、どこかむくれているシンを不思議そうに見やった。
 一晩明けても降り続いている強い雨を窓越しに見て、シンはちぇーと唇を尖らせた。

「まだ雨降ってんのかよ……。なんかこんな天気だと滅入るよなー」
「Piove che Dio la manda.」
「ん?」
「イタリア語でどしゃ降りの雨が降るっていう意味だと、カイさんから教わりました」
「ふぅん?」

 唐突な話題に目を瞬かせながらも、シンは母の言葉に耳を傾けた。
 窓に歩み寄ったディズィーの細い指先が雨をなぞるように滑る。

「直訳だと、神がお届けくださるように降る、という意味だそうです」

 へえ、と相槌を打ちながら、シンもディズィーの横に並び、窓の外を眺めた。
 雨が降っている。叩きつけるように、どしゃ降りの雨が。明るい太陽の下で目一杯身体を動かしたいと思っていたシンは、朝になっても降り続ける雨にとても憂鬱な気分になっていた。けれど。

「なんかそうやって考えると、雨も悪くねぇなって思うぜ」
「ふふ、そうでしょう? ……ソルさんならお父さんの部屋にいると思いますよ」
「オヤジがカイの?」

 なんで、と不思議に思いながらもシンは喜々として踵を返していた。一晩考えて編み出した新技でソルに挑むために。
 その背を見つめながら、ディズィーは悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。



 絶叫の轟いた王の自室の前で、守衛が右往左往している。部屋に入ることを固く禁じられているが、ただ事ではない叫声にどうしたものかと考えあぐねているようだ。
 ディズィーは鈴の音のような笑声を零した。

「お仕置きです、カイさん」

 息子を宥めるのに苦労しているだろう夫を思い起こしながら頬を緩めて、ディズィーは窓の外を見やった。
 雨が降っている。私たちを幸せな世界に閉じ込めるように激しく、福音をもたらすように。

 

 End.
 2017.12.25