ひどい戦場だった。酷くない戦場などありはしないが、その日は殊更ひどかった。
 ソルは所々破けて役目を果たせなくなりそうな懐へと手を突っ込み、盛大に舌打ちした。煙草がない。戦闘中に落としたらしい。苛立ちを足もとに転がる丸焦げの化け物を蹴飛ばすことで何とか抑えようとするが、どうにも鎮まりそうになかった。身体の内側からちりちりと灼けるような感覚がする。気持ち悪い。少し力を解放したことへの余韻がまだ燻ぶり続けている。
 ふいに生きている何かの気配がした。ソルが見渡す限り、人間だったものと化け物だったものが辺りを埋め尽くしている。これだけのギアの猛攻だ。どこの部隊も壊滅しているだろう。たったひとつの鼓動を刻む気配はきっと、あの少年だ。
 ソルはその命のほうへ足を進めた。メダルもないし、大規模な戦場を駆けたせいで場所もわからない。あの少年についていけば拠点へ帰れるだろうという、ただそれだけの理由だった。
 
 はたして、唯一鼓動を刻む生命体はかの少年だった。死体と瓦礫の中でただ一人、凛と立っている。ぴくりとも動かない少年の背とその奥の景色を、ソルは烈しい吐き気と共に眺めた。気持ち悪かった、どうしようもなく。死体まみれというだけで最悪なのに、その中央にまだ成長しきれていない身体が立っている。まだ大人の庇護を受けることが当たり前のはずの年齢の少年だけが立っている。
 無意識のうちに気配を消していたせいで、少年はソルに気付くことはなかった。いつもなら、少年は膝を折り、胸もとに下げた十字を掲げるはずなのだが、彼はただ立ち尽くしたままだ。
 ふいに少年が動いた。凛と真っ直ぐ立っていたと思ったその身体はふらふらと、妙に頼りない足取りで死体を縫って歩いていく。それを一定の距離を保ちながらついていった。
 
 水辺があった。見慣れない景色に、戦闘中随分と遠くまで来たのだと気付く。水辺は向こう岸まで結構な距離がある湖のようだった。水はやけに澄んでいて、近くに地獄のような光景があったと思えない清らかな空気を放っていた。
 少年がおもむろに湖へ向かった。水でも飲むのだろうと思っていたソルは次の瞬間には目を見開いた。ざぶざぶと水に沈んでいく幼い身体。少年は着衣をそのままに湖に向かってそのまま歩き続けた。足先をほんの少し覆っていただけの水は、踝を、脛を、膝を、どんどん覆っていく。
 遥か昔、安っぽいドラマでそんな光景を見た気がする。失恋した女はその頬を濡らしながら海へ向かうのだ。砂浜と海水の隔てなどありもしないというかのようにそのまま突き進み、細い身体はどんどん海へと消えていく。妙に胸糞悪い結末だと思ったことを、唐突に思い出した。ハッピーエンドであれとは思わないが、いくら何でも結末が入水自殺なんて最悪だ。
 ソルは猛烈な苛立たしさにみまわれ、音が鳴るほど乱暴に足を動かした。足音も水を盛大に弾く音もだだ漏れの気配が近づく様も、普段であればすぐに気づいて振り返るはずの少年は、いまだ湖に顔を向けたままだった。ぐっと、指が食い入るほど強く腕を掴む。それは、あとほんの少しでもソルが力を入れれば折れてしまいなほど細かった。

「何してやがる」

 ゆらりと、ひどく緩慢な動きで少年が振り返る。その顔を見てソルは強く眉を顰めた。ぼう、と幽鬼のように、熱さを、命を、まったく感じない顔だった。水に浸かっているせいで失われた体温も相俟って死者を彷彿とさせる。
 ただ一言の問いだけで思わず口を噤んだソルの顔を、少年のぼんやりした瞳が徐々に焦点を取り戻し、その蒼碧の宝玉に映した。

「ぁ……」

 呆然と短い音が落ちる。段々と見開かれていく大きな目が、次の瞬間にはくしゃりと歪んだ。

「ッ、そるっ…!」

 何が起きたか、咄嗟には理解できなかった。あまりにあり得ないことが起きたからだ。ぎゅうっと何か鼓動を刻む温もりがソルの大きい身体に巻き付いている。
 戦場を駆ける少年の、その子どもらしくない在り方がソルは気持ち悪いと思っていた。人類の種がかかるほどの戦争だ。そんな有事に常識を求めているわけではないが、少年はあまりにも歪だった。だからこそ、その少年がまるで幼子のように抱き着いてきたなどと、そう簡単に飲み込むことなどできなかった。
 ソルは行き場を失った手を中途半端に宙に彷徨わせながら、珍しく困惑していた。
 血の匂いがする。慣れたくもないのにいつの間にか嗅ぎ慣れてしまった死のにおいもする。だが聞こえない。風の音も、たゆたうはずの水の音も。ただ鼓動を刻む音だけがやけに大きく耳の奥でこだましていた。
 冷たいと思っていた身体が温いと感じる。腕の中にある子どもの身体と、己の身体だけが、今この場にあるたったふたつの生き物だった。世界の終わりとはこんな感じなのだろうかと馬鹿げた思考に走ったとき、おそらく普通の人間では聞き取れないほどの小さな声が腕の中から聞こえた。

「いきてる……」

 ソルの胸にぴったり耳を押し付けた子どもの心の底から漏れた声だった。ソルはそこでやっと、空を彷徨っていた腕を少年の細い背中に回した。
 生きているものに会えたことに、少年はほっとしたのだ。だが少年は知らない。その生きているものがつい先まで少年の仲間を殺戮し、少年が機械のように屠っていた化け物と同じだということを。
 何か地の底から絡み付いてくる罪悪感に似た感情が、急速にソルを襲った。腕の中の子どもの白く細い頸を指先で撫でたソルは、無感情な声で問うた。

「死にたかったのか」

 顔をあげた子どもはきょとんと目を丸くしてソルを見上げた。何を言っているの、とでも言いたそうな穢れを知らない無垢な瞳だ。意外な反応に、ソルは大きく眉を顰める。

「なんでですか?」

 何でって。ここをどこだと思っている。お前は水の中に突き進んでいき、俺がその腕を掴まなければ身体全部湖に浸かり、溺れていたんじゃないのか。死にたいと思う以外に、どうして服を着たまま湖に入ろうと思うのか。
 不思議そうに見上げる子どもの嘘のない瞳に、ソルを舌打ちしかけたのを堪えて違う言葉を吐き出した。

「質問を変える。死にたいと思ったことはあるか」

 子どもはますます怪訝な顔をし、何でそんなこと聞くのかと言外に告げていた。どうして、そんなわかりきった質問を、とでも言いたげに。

「あるわけないでしょう」

 少年はそうきっぱり言い放った。
 ソルはもう吐き気どころか頭痛までしてきた。
 思わないわけがない、と思う。確かに、放っといたって今日死ぬかもしれない環境で生きている。そんな中でわざわざ死にたいと願うかと、逆だろうと言われるのもまぁわかる。でもそんな簡単に割り切れる感情じゃない。この子どもが毎朝足しげく通う礼拝堂で祈るのも、突き詰めれば死への恐怖と死んだものの救済を願う故だ。黄泉だの地獄だの天国だの神だの閻魔だの、実際に在ろうがなかろうが結局のところどっちだっていいものだ。死後の世界も宗教も葬式も、いつかは必ず訪れる死へ対処する生者のためのツールだ。とかく人は死を恐れ、それから遠ざかろうと足掻く。
 だが、だからといって一度たりとも死にたいと思わなかったという人間はそうそういないのではないか。ましてやこんな悲惨な時代で。少年は聖騎士団にいる時点で、苛酷な境遇にある。この組織はギアと戦うためにあり、生活の中に戦争がある。少年はそんな騎士たちの上に立つ人間だ。上官として指揮し、たくさんの団員を戦場へ送る。帰ってこない者もたくさんいる。目の前で失われる命も山ほどある。
 辛いと、思わないのか。逃げたいと。もうこんなところから逃げたい。……だから、死にたい、と。

「……坊や」
「ソル?」
「じゃあ何でテメェはこんなところにいる」

 ソルの質問に答えたきり、また強く抱き着いてソルの胸筋に顔を埋めていた少年は、顔をあげて辺りを見渡した。ぼんやりと眺めながら、聖処女みたいな清らかな瞳を瞬かせて首を傾げる。

「……あれ? 冷たい」
「………だろうな」
「え? なんで……って、うわあっ!」

 少年はそれまで力強く抱き着いていたままのソルから勢いよく離れて、顔を真っ赤にした。

「なっ、な、なんで私、ソルに……!」
「……テメェ、随分な態度じゃねぇか。そるぅって泣きながら抱きついてきたくせによ」
「ッ……!」

 少年はもう何も言えないようだった。ぱくぱくと金魚のように口を動かし、ソルのあまりの言い様に絶句している。

「な、泣いてないっ……!」

 しばらく経ってから返ってきたのはそんな反応だった。抱きついていたことは否定できないと思ったのか、そこだけ反論してくる。まぁ、確かに泣きながらというのはソルが余計に付け足した嘘だけれど。
 軽い混乱に陥った少年は、いまだ背に回ったままのソルの腕の中から逃れようと必死にもがく。そのせいでバランスを崩し、水の中に潜りそうだった身体をソルは溜め息と共に肩に担ぎあげた。

「なっ……ちょ、ちょっと! 降ろしてください、ソル!」

 バタバタ暴れる身体を黙殺し、ソルは激しい水しぶきをあげながら岸へと戻った。


「っ、くしゅん……!」

 遠慮なく地面へ放り投げた小さい身体は、猫がするみたいな小さいくしゃみをした。呆れた眼差しを惜しげもなく浴びせかけながら、地面にへたり込んだままの少年の服に手をかける。

「脱げ」
「ッな、なんで……!」

 セックス前の羞恥する女がするみたいに、慌てて胸もとを合わせた少年は林檎色に染まった顔でソルを非難するように見た。

「……そんなびしょ濡れの服着たままじゃ、あったまんねぇだろうが」

 ソルは何とも言えない顔で絞り出すように吐き出した。
 ぶわりと炎が巻き起こる。ソルが展開した法術に、カイは得心がいったように自ら聖騎士団の制服を脱ぎ始めた。それを見てソルも自分の着衣に手をかけた。別にソルの身体は冷えてようが何だろうが平気なのだが、寒いものは寒い。
 下衣はどうするかと思ったときだった。「あ……」と小さく聞こえた声に顔をあげる。
 少年はインナーも下衣も脱ぎ、下着だけの姿だった。抜けるような白い肢体が白日の中、晒されている。いつの間にか顔を覗かせた陽の光が降り注ぎ、短い金糸が煌煌と輝いている。その姿はやけに現実離れした光景に見えた。

「……思い出しました」
「あ?」

 少年は湖のほうを見ていた。ゆらり、と細い指が湖の方向を指す。

「あの向こうにね、魔法の国が見えた気がしたんです」
「………………」

 ソルは思いもよらない言葉に思わず押し黙った。その「魔法」というのが、勿論今は当たり前のようにある理論のことではないのはわかった。魔法の言葉が持つ意味は、もともとエネルギーでも何でもなかった。魔法は不可能なことを実現する不可思議な力のことを指した。それは多分にファンタジー要素を含む、夢物語の力。
 そんな意味を伴って、その言葉がこの少年の口から放たれるのはひどい違和感があった。おとぎ話を聞いて目を輝かせる子どもじゃないと知っている。いつまでも幸せに暮らしました、と一行で終わるありきたりな結末を信じられるほど子どもではないと知っている。そんなメルヘンチックな感傷に浸るような大人でもない、と。
 つい先まで、化け物の血を大量に浴びていたのだ。それは脱ぎ捨てられた青と白を基調としたはずの衣類がもとの色を翳めるほど汚れていることが証左している。
 何も言わないソルに、少年が振り向いた。この世の穢れなど何も知らないような無垢な瞳がソルを見上げる。

「知りません? 伝説の楽園。アイルランドの西方にあるんですよ」
「………ここはアイルランドじゃねぇ」

 少年は幼子のように、むぅっと唇を尖らせた。

「…そうですけど。その島は海上に見えるんです」
「海でもねぇ」
「っ、そうですけど……!」

 少年はますますむくれた顔をして、「ソルは夢がない」とかぶつぶつ零す。

「でもね、どんなに一生懸命舟を漕いでも行きつくことはできないんですって」
「……ハイ・ブリセイルの魔法の国、か」

 ソルのぽつりとした呟きに、少年をきょとんと目を瞬かせたあと、少し不服そうな顔をした。

「…なんだ、知ってるんじゃないですか。ソルって物知りですよね」

 そりゃあ俺が瞬きするほどしか生きていない坊やに比べればな、という言葉を呑み込み、ソルはどこか憂戚の乗る瞳で湖の向こうを見つめた。

「行きたかったのか」

 その魔法の国に。

「………わかりません」

 少しの沈黙のあと、少年は結局首を横に振った。

「でも……あったらいいなって」

 わからないと口にしたものの、少年はどこか縋るような眼差しで湖の向こうを見ていた。
 なんだ、とソルは安堵した。やっぱり逃げたかったんじゃないか、と。こんな屍まみれの残酷な世界から。

「ソルは、もしそんな場所があったのなら行きたいと思いますか?」

 純粋さだけをもって見上げてくる少年に、ソルは苦味の滞留した胸底から絞り出すように答えた。

「……思わねぇな」

 正確には、例え本当にあったとしてもソルが辿り着くことはないのだろう、という意味だ。
 そんな絵空事のような楽園があるとしたなら、そこはこの少年のような人間だけが入ることを許される場所だ。ソルを招き入れるのならば、そこは楽園じゃない。化け物を内包するただの地獄だ。今、この場所と何ら変わらない。

「そうですか……。じゃあ、いいです」
「あ?」
「ソルがいないなら、私も行きたいとは思いません」
「………………」

 何か、とんでもない言葉を聞いた気がする。
 理解が及ばないまま結構な間抜けな顔を晒していたソルは、再び聞こえた小さなくしゃみに我に返り、ぼんやりとした頭のまま行動した。
 冷えた身体を温めなければ、というただそれだけ浮かんだ役立たずな頭が出した司令に従い、ソルの身体は湖を向く少年の痩身を背後から包み込んだ。

「え……? な、なっ、なに……ソル!?」

 裸の上半身がぴったりとくっつく。冷えているはずの身体はやけに温もりを伝えてきた。身体まで赤く染めて、じたばたともがく身体を腕を絡めることで押さえ込む。しばらくの間暴れていた身体はそのうち勢いをなくし、ソルの腕の中で力を抜いた。

「あったかい」

 ぽつりと呟かれた声は子どもらしく震えていた。
 静寂の中、そこにはたった二つの鼓動だけが命を刻んでいた。血と死のにおいのする、屍まみれの世界の中、ひとりぼっちの生きた「人間」を「化け物」が抱きしめている。ソルは、その光景が地獄よりも惨いものに思えて、見なくていいように目を閉じた。