※拍手文で続けているお題「僕らは5回のキスをする」のみっつめ。
無情だ。
日本は戦場の跡をゆっくりと眺めてから、漆黒の双瞳を静かに伏せた。戦いの仕方は非情さを増すばかりで、世界は混沌にどんどん嵌っていくばかりだ。あとどれだけの夜を過ごせば、平和な明日がやってくるというのだろう。
一度深く吐息をつき、遠くの地にいる敵国を思って敬礼して踵を返した。
「規定には必ず従ってください。国際舞台で恥をかくわけにはいきませんから」
「はっ」
日本は溜め息を吐きそうだった口を噤み、肩を張った。もう随分と長い間、気を張りつめたままだ。当たり前だ。世界の最後から追いかける身は、いくら駆け足の速度をあげても追い越すまでいかない。気を張らなければすぐにでも呑み込まれてしまう。
背を真っ直ぐに伸ばし、もう随分と着慣れてしまった軍服の締めつけを感じながら、日本は冷たい灰色の壁の中で軍靴を鳴らした。
「にほーん」
気の抜けるような、変な間の空いた呼びかけだった。
その声を、知っている。
日本はぎょっとして振り返った。
「………嘘でしょう」
「よぉ」
気安い友人にその辺でばったり会ったかのような応えだった。
振り返った先には兵に拘束されたかつての師が立っていた。隙のない軍服から見える素肌は傷だらけだ。額から頬を伝う乾ききった血が痛々しい。
「っ、なぜ貴方がこんなところに……!」
日本は慌てて駆け寄り、兵にすぐに拘束を解くように命じた。手当を! と声を張り上げた日本に驚いた兵たちは彼が誰だか知らないのだろう。彼が着ている軍服は一般のドイツ兵と同じだ。
こんな極東の地にいるはずがない人を呆然と見上げる。薄暗い照明の下でも彼のプラチナブロンドは美しく瞬いていた。
「厄介払いだろうよ」
彼は日本の戸惑いに事も無げに答えた。
「……そんな」
ドイツ帝国を築きあげた国をこんな遠い戦場へ。それも捕虜となってとらえられてくるとは信じられない。
今や敵国であるかつての師を見つめ、日本は瞳を揺らした。不敵に頬を吊り上げていた師が真顔に戻って緩く頭を振る。
「よくねぇな」
「え……?」
「お前のそういうとこがよくねぇ。敵国に同情か? イギリスの野郎に冷酷さを教わってるかと思ったが、まだまだだぜ」
皮肉げに歪められた顔が似合わないと思った。こんな暗いところにいる姿も。
日本は一度瞼と閉じ、冷静さと欠いた心に決別した。
「イギリスさんに教わったから、貴方に勝てたんですよ」
努めて冷めた視線を送れば、彼はふっと小さく笑った。
「そうかよ。おら、さっさと収容所にでもどこでも連れてけよ」
日本に対して傲慢に振る舞う男を愕然と眺めていた兵たちに、拘束されている両手を見せつけ、さっさと連れていけとジェスチャーしてみせる。兵がハッとして今一度拘束しようとしたのを日本が制した。
「待ちなさい。彼は国です。こちらで預かります。よろしいですね、プロイセン君」
「おお、俺だけ特別扱いか? 大日本帝国様は随分とお優しいようだ」
「ええ。その〝特別扱い〟が丁重なもてなしなのか、人以下なのか、考え様によっては幸せに収容所暮らしができますよ」
「はっ、言うようになったじゃねぇか」
日本は乱暴にプロイセンの腕を取り、その場を後にした。
「日本国自ら手当とは、これが人以下の扱いか?」
「何とでも言いなさい」
敵国に下ってるとは思えないほど横柄にソファに腰かけたプロイセンの腕に包帯を巻きながら、日本は小さく溜め息を吐いた。
「まだ戦争は終わっていませんが、少なくともこの戦場では勝敗が決しました。もう睨み合う必要はないでしょう?」
「だから、そういうとこがよくねぇっつってんだ。勝敗が決まったってことはお前が勝者で俺が敗者だ。対等じゃねぇんだよ」
「……………」
「ま、お前がその気ならナースみてぇに手厚く看護しくれてもいいけどな?」
ぴた、と手当の動きをはたと止め、日本は呆れた目でプロイセンを仰いだ。そこにはにやにやとだらしのない顔があり、毒気を抜かれて思わず肩の力を抜く。
「あとは自分でやってください」
「いッてぇな」
ぱしん、と軽く腕を叩いて手を放すとプロイセンは大袈裟に痛がってみせた。そんな軽いやり取りに思わず小さく笑みを零すと、ぱぁっとプロイセンの赤い瞳が少年のように輝いたような気がした。そうだ。彼はこういう顔をしていたほうがいい。
そこまで思って、日本はハッとして目を伏せた。あれだけ張っていた気がいつの間にか緩んでいる。随分と久しぶりに肩の力を抜いたのだと気づいた。
言われた通り、自分で包帯を巻いているプロイセンを見やる。
まるで太陽だ。ついさっきまで、あんなにも冷めていた心臓がこんなにも熱く脈打っている。日本は気を緩ませてしまった自身に歯噛みし、痛む心臓を押さえて立ちあがった。
「ここにいてください。貴方の処遇は上司に聞いて――」
背を向け歩き出した途端、ぐいっと後ろから腕を引っ張られて身体が傾いた。驚いて振り向くより先に、どういうわけか背中が冷たい床に当たる感触がした。
同時に唇に灯る熱。
しばらくの間、呆然と間近にある長い銀の睫毛を見つめることしかできなかった。信じられないくらい近くにある精悍な顔に、何が起きたかようやく理解する。日本は瞬時に頬を熱くして、力いっぱい厚い胸板を押しやった。
腕で唇を拭い、人を押し倒し唇を重ねるという暴挙に出た男を睨みつける。
「………どういうつもりですか」
「だからお前は甘ぇつってんだよ。何回同じ手に引っかかってやがる。敵国はちゃんと拘束しとかないとなァ?」
パシンッ――。
揶揄われたのだとわかり頭に血が上る。勢い良く振り上げた日本の平手は彼の頬に痕をつけるより先に、逞しい腕に掴まれ阻止された。簡単に制されたことにも苛立ち、がむしゃらに振り払って余りの包帯でプロイセンの両腕を後ろ手にきつく拘束する。おとなしくされるがままに縛られた彼をその場に押しやり、日本は強く睥睨した。
「ご忠告ありがとうございます。でも貴方はもう私の師ではない。ご指導は結構です」
嫌味を浴びても何ら動揺のない不敵な顔から目を背け、部屋から出ていく。
扉を乱暴に閉め、ずるずるとその場に座り込んだ。熱くなったまま中々冷めてくれない頬に手の甲を当て、日本は静かに瞼を閉じた。
「……貴方こそ、何度私の心を掻き乱せば済むんですか」
熱の灯った唇を舐めてから、きゅっと引き結ぶ。
事故でも指導でも揶揄いでも、重ねれば重ねた分だけこの唇はただの器官ではなくなっていくような気がした。
皮肉なものだ。この残虐極まりない世界を生き抜く術を教えてくれた誰よりも国然としているひとに、国には不必要な感情を植えつけられている。もしこれが敵国である彼の作戦なら大したものだ。
日本は握り締めた拳を力任せに床に叩きつけ、己の惨めさを発散させた。
3.三度めのキスは君へのからかい
「……まじで痛ぇよ、ばか」
プロイセンは後ろ手を括りつけられたまま、その場にごろんと寝転がった。日本が悪戯に叩いた腕も、平手をかましてきた手を制した腕も、無様に痙攣している。身体中どこもかしこもじくじくと痛み、まるでこのまま腐敗していくような感覚だった。
こんな無様な姿を見られたくなかった。あんなふうに揶揄ってやれば、お前は頭にきて出ていくだろうと思った。けど、この無様の姿を見られたくなかったのと、唇を合わせたかったのと、どちらの比重が大きかったのか、自分でももうわからなかった。
――貴方はもう私の師ではない。
知っている。けれど、それしか繋がりがない。
――イギリスさんに教わったから、貴方に勝てたんですよ。
島国の海軍の重要性と俺の教えた陸軍とでは天と地の差か。
俺がお前に残せる爪痕なんて、あとはこれくらいしかない。
プロイセンは唇を舐め、きゅっと噛み締めた。この口づけとも呼べない行為がお前の中に少しでも残ればいい。そして、俺がいなくなったあとにほんのちょっとでも思い出せばいいのに。
こんなときに弟以外のことが頭に過ぎる自身が許せなくて、プロイセンは血が止まりそうにない身体を床に打ちつけ、静かに目を閉じた。
(title by : TOY様)