「お前、いい加減にしろよ」

 分厚い本をダンッと音を立てて机に叩きつけると、薄い肩がびくりと跳ねた。行儀よく真っ直ぐに背筋を伸ばして座っている男の黒い旋毛を見下ろして、プロイセンは青筋を立てた。

「目を逸らすなっつってんだ。何回言わせる」
「も、申し訳ありません」

 顔をあげた男は目を合わせようとはしているのだろうが、結局ゆらゆらと彷徨っている。挙動不審にしか見えないし、合わない目がかなり不快だ。

「テメェんとこの文化がどうだが知らねぇがな、こっちでは――

 最近の忙しさの所為で多少苛立っていた。
 つらつらと説教を垂れ流している最中、必死に逸らさまいとしている黒曜の双眸がわずかに下にずれた気がした。その眼球の動きがついに三度目となったとき、プロイセンは思わず唇を舐めた。
 ぴく、とほんのわずかだけ薄い肩が跳ねたのを見逃さなかった。その絹のような黒檀の横髪の隙間から覗く耳が微かに赤く染まっていることも。しかし、その顔は痛ましいまでに蒼褪めていた。
 刹那、苦味が滞留したような胸懐を気づかないふりで口を開く。

「……だから」
「え?」
「謝っただろうが」
「な、何をです」
「ぶつかったことだ」
「なっ……」
「いつまで引きずってやがる。あんなもん、ただの――

 事故だろ、と続けるはずだった言葉は日本が唇を噛み締めたのを目にして呑み込んだ。
 無意識のうちに己の唇を人差し指の背でなぞる。あの日、文字通り触れてはならぬものに触れたのだと気づく。
 逸らすな、と言った手前、こっちから逸らすわけにいかない視線はかち合ったままだ。プロイセンが口を噤んだことで、室内には静寂が落ちている。窓の外から呑気な小鳥の囀りが聞こえた。
 プロイセンは小さく息を吐き、わざと意地悪く口角をあげてみせた。

「大体、唇が触れることなんてままあることだろ。ジジイのくせに何を純情ぶってんだか」
「ッ……」

 逸らさなかった。息を呑んだ音は聞こえたが、日本は目を逸らさなかった。一拍の間を置いて――そのわずかな間、揺れた夜空の瞳を見た――細い頬がさあっと朱に染まる。それが羞恥からか、憤りからか、はたまた別の感情を隠す故の芸当だったのか、考えるのはやめた。

「……普通ありえません。そんな……く、唇が触れ合うことなど…」

 まぁ、俺もそう思う。
 国民がどうとかではなく、〝俺〟は少なくとも同意見だ。
 その心情を隠し、プロイセンは揶揄するように続けた。

「俺んちなんてマシだぜ? フランスんとことか、イタちゃん家いってみろっての。挨拶だ、挨拶」
「……我が国ではそのような挨拶は」

 紅く染まる林檎のような頬とうろうろと動く黒曜に眉を顰める。何をそこまで恥ずかしがるのか理解できない。
 今回の事故のような唇と唇ならまだしも、挨拶のキスなど常識だろう。

「じゃあ、テメェんとこはいつすんだよ? 〝接吻〟とやらを」

 特に何を考えたわけでもない何ともなしの疑問だった。恐らくこのときにもう少し思慮があったなら、こんな愚かな質問はしなかっただろう。

「っ……じょ、情事の最中にしかしませんよ!」
「はあっ!? き、急になんてこと言いやがる……!」

 今度はプロイセンが真っ赤になる番だった。
 教材を広げた神聖なる学び舎で、互いにつき合わせた顔は真っ赤だ。傍から見れば、さぞ滑稽なことだろう。
 プロイセンにとっては、まるでその考えに行きつかなかったから故の問いかけだったのだ。そもそも化身である身、そのような行為が必要不可欠でもあるまいし、それこそ幼い頃は不浄そのものだった。だからといって、まったくの初心というわけでもない。ただ、身構えていなかった所為で動揺してしまった。
 プロイセンはわざとらしく咳払いし、居たたまれなさそうに顔を背けた日本をじとりと睥睨した。あんな事故一つをいつまでも引きずっていたくせに、急に明け透けになるのだから理解できない。

「……とにかくお前が重度の世間知らずだということはわかった。あの日、俺ァ言ったよな? 忘れろって」
「……ええ」

 顔を戻した日本がプロイセンを見る。今度はちゃんと目が合った。しつこい注意が功を奏したのか、はたまた別の理由か知らないが、目が逸らされることはなかった。

「Ja, Lehrer」

 二度目の師匠呼びも大して嬉しくなかった。
 やはり、触れてはいけなかったのだ。


 プロイセンは部屋を退出したあと、その扉に背を預けるようにして寄りかかり目を伏せた。長い銀糸の睫毛が廊下の窓から射し込む光にきらきらと瞬いている。
 生まれてこの方、剣を握り続けてきた指先が形の整った唇をなぞる。
 だめだったのだ。間違いでも事故でも仕方なかったことでも、だめだったのだ。触れてはいけなかった。決して。



 *



「祖国様、もう少しで出港の準備が整います」
「わかりました」

 日本は大きい鞄を置いて、プルシアンブルーの姿を探した。見当たらず、足を進める。石畳を叩く感触が少し痛い。けれど、やはり革靴より草履のほうが安心した。
 和装だったために少し目立っていたが、この異国の景色を目に焼きつけるためにと、忙しなく視線を彷徨わせながら歩いていると路地から伸びた白い手に捕らわれた。
 息を呑み、咄嗟に柔術をしかけようとして、日本はぴたりと動きを止めた。見知った匂いがしたからだ。
 動きを止めた隙を逃さなかった誘拐犯が日本の手首を強く掴んで壁に押しつける。

「っ……」

 その力の強さに呻きながら視線をあげた先には、美しい花顔が間近にあった。光の遮られた路地裏でも、二つの眼は雪の中で咲き誇る牡丹のように輝いていた。その稀有な色に魅入っていると、ふいに呼吸を遮られた。

「!? んっ……!」

 壁に押しつけた顔を下からすくい上げるような重ね方だった。腰を屈めた長身に下から押し上げられるような口づけは、ほんの一瞬の出来事だった。

「だから言っただろ」

 呆気なく離れていった男は、悪魔も真っ青な凶悪な顔で嗤っていた。

「お前が思うよりずっと、俺たちは狡知だぜ? そんな甘い身構えじゃあ、こんなふうに容易く奪われる。つけ入る隙を簡単に与えちまう。お前がどんなに嫌がろうが、痛い目に遭うのはこんな簡単なことなんだよ。この世界で生きていきたいなら、もっとずる賢くなるんだな」

 最後のご高説を垂れて、話は終わりだとばかりに男は踵を返した。
 日本は見開いていた双眸で大きい背を見つめ、もうすでに一瞬の温もりすら失ってしまった冷めた唇を小さく開いた。

「……いやだと」
「あ?」

 それは無意識だった。
 気づいたときには、怪訝に振り返る鮮やかな深い藍の襟を力任せに引っ張り、かかとをあげて顔を傾けていた。
 ――嫌だと言った覚えはないのですが。
 そう言葉になるはずだったものは彼の逞しい喉に呑み込んでもらった。
 言ってはならないと、知っている。




 2.二度めのキスは衝動的に




 驚愕に見開かれたレッドベリルの中に自分の姿が映るのを見つめながら、踵をおろす。気管を圧迫するような苦しさを無視して、何でもないように口を開いた。

「私にも反撃くらいできますよ、師匠」
「……そうかよ」

 驚愕していた顔はもうない。たったの数秒で、すでに冷静な色を取り戻してしまったその理知さが羨ましかった。男は少しばかり跋が悪そうに頬を掻いていたが、すぐに勝ち気な笑みを浮かべてから背を向けた。

「楽しみにしてるぜ、お前の活躍!」

 背を向けたまま高々とあげられた大きい手を見つめる。快活に放たれた少年のように明るい声が日本の背を押した。でもどうしてか、夜空に浮かぶ一等星のように鮮やかで強かな存在感を放つその姿がやけに儚く見えた。その背の向こうには黒と白と赤の三本のラインの旗がはためいていた。
 
「確かに私は世間知らずですが、あなたより随分と長く生きているのですよ。プロイセン君」

 浮世のことなら、あなたよりよっぽど……。
 食物の入り口であるただの器官を細い指先で撫でて、日本は目を閉じた。

 

 拍手 2018.7.7 ~ 2018.10.31