それは完全なる事故だった。

 上手くいかないことが重なって多分に苛々していた。忌々しく舌打ちしながら、多少よろしくない語気で側仕えの男に怒鳴ってもいた。一体何度言えばお前はわかるんだ――と吐き捨てたときだった。次の予定まで時間がないこともあってかなりの速度で歩いていた。おかげで廊下の曲がり角で衝突事故を起こした。もちろん、人相手――いや、国相手だったが。

「ってぇー……」
「ッ、す、すみませ――ッ!」
「………………」

 互いにもつれるように倒れ込んだ。尻餅をついたプロイセンに乗り上げていた男が謝罪を口にした瞬間、吐息が触れていることにようやく気付いた。
 間近で合った双眸が驚愕に目を見開いている。宵闇のように底のない黒を宿す瞳の中に、ぽかんとした間抜け顔の自分が映っていた。
 はっと息を呑んだ眼前の男は、慌ててプロイセンの上から退いた。

「っすみません……!」

 そのまま二つ折りかと思うほど深々と頭を下げた黒髪の中心にある旋毛を呆然と見上げ、なんとか「……ああ」とだけ返事を返す。
 短い黒髪の間から覗く小さい耳が真っ赤に染まっているのを見て居たたまれなくなった。
 プロイセンも腰をあげ、かなり気まずい空気の中、頬を掻いた。

「いや、俺こそ悪ぃ。ちゃんと前見てなかった」
「い、いえ……! 私が急いでいるあまり注意が足りずに……」
「あー……じゃあ、おあいこってことでいいな?」
「は、はい」
「この件は以上だ、忘れろ」
「Ja, Lehrer……!」
「ん」

 ぴんっと背筋を伸ばし、敬礼してみせた男に頬を引き攣らせながら頷く。正直、師匠と呼ばれたのは初めてのことだ。こんな場面じゃなければいい気になっていただろうが、今はあまり嬉しくない。そもそもプロイセンの忙しさはこの世間知らずの(元)引きこもりの所為でもある。本音を言えば、今は弟だけに構っていたいくらいだ。世界情勢的に。
 プロイセンは片手を振って、それ以上何も言わず、極東の島国の横を通り過ぎた。



「なあ」
「はい、何でしょうか。祖国」
「日本国と婚姻ってことになったら、ヴェストにどう影響すると思う?」

 男はぎょっとして唯一無二の祖国を見やった。物々しい書机にたくさんの書類を広げて筆記具片手に仕事を進めていたはずのプロイセンは、身体だけは仕事に向き合っているが首から上が窓のほうをぼんやり眺めていた。

「……先ほどのことなら、事故のようにお見受けしましたが」

 しっかり廊下の曲がり角で起きた一部始終を見ていた男は、あれはそんな大仰なことではないだろうと内心嘆息しながら返す。

「ああ、だよな」

 生返事をしたプロイセンが、はぁーっと深い溜め息を吐き、銀に瞬く髪をがしがしと掻き乱した。

「でも、口づけってそう簡単にしていいもんじゃねぇだろ」
「…………………」

 思わず押し黙った男のおかげで深い沈黙が部屋を包んだ。チチ、と小鳥の囀る声が呑気に聞こえて、男は顔を引き攣らせた。

「では、祖国は口づけはどういうときにするものだと?」
「神の前で永遠の愛を誓うとき」
「………先ほどのことはお忘れください、綺麗さっぱり、今すぐに」
「あ、ああ、わかった」

 ずいっと顔を近づけて物凄い形相で必死に告げられて、プロイセンは反射的に頷いてしまった。
 長く尾の引く溜め息を深々と吐く側近をぼんやり見つめながら、無意識のうちに剣だこにまみれた手を己の口もとに運んでいた。
 節くれ立った人さし指の背で唇をなぞる。そこにあるのは見知ったただの器官であるのに、昨日までのそれとは違うもののように思えた。



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